「――行かないで」
と、止めた瞬間に、しまったと思った。
これは、俺の中で生涯に渡る後悔だ。本当は、彼女の背中を押すつもりだった。そのまま諸伏と一緒に、未来を歩んで行ってくれれば良いと思っていた。思っていた、つもりだったのだ。
でも、同時に恐ろしかった。
もし――もし、彼女が外国に行って、そのまま死んでしまったら。もう二度と会えなかったら、どうしよう。そんなに離れていては、助けを求めていたって、泣いていたって、駆け寄ってあげることはできないのだ。
ぐっと、その手を掴んでしまった。高槻は、目を見開いてこちらを振り向いた。
「ごめん」だなんて、慌てて手を引っ込めて見せたけど、彼女は少し考えるようにして――そして、もう一度俺の手を繋いだ。
「……うん」
と、力なく、なんだか泣きそうな顔で高槻は笑う。
その笑顔に、俺はどうしようもなくムカついた。自分自身に腹が立った。諸伏が、昨日俺とすれ違う時に一言「高槻さんのこと、これからもよろしくな」と告げたことを思い出す。
そんなことを言うつもりは、なかった。その気持ちも本当だ。
俺の気持ちを分かってか、そうでないのか、松田たちもそれ以上は何も深追いしなかった。ただ一人俺だけが、この世に絶望したように自分の足元を見つめていた。
◆
いつも通りのマンションの階段を、二人で上った。
高槻は、何も言わなかった。ただ部屋に帰ると、「今日は何食べようか」と、こともなげに俺のほうを振り返る。俺は、口元をぎゅうと引き結ぶ。
吐き出すように、彼女の手を引いて言葉を震わせた。
「ごめん、百花ちゃん。俺、俺さ……」
「……謝ることじゃないよ。言ったじゃん、私は萩原のことが大切だよ」
「でも、本当なら、諸伏ちゃんと一緒に」
「言わないで」
言葉に被せるようにして、静かだったが、重々しく彼女は言った。気まぐれそうな目つきは、この時ばかりは俺のほうを真っすぐに見上げていた。俺が口を閉じると、彼女は少しだけスッキリとしたように笑う。
「……本当に、良かったんだ。諸伏くんのことは助けられたし、これでも納得してる」
「――俺は……」
「そんな顔しないで」
微笑んだ彼女は、伸びた髪を掻きわけると、踵を上げて俺の頬にキスをする。母親が子どもにするような、慈しむようなキスだった。そういえば、彼女とキスをするのは、いつぶりだっただろうか。あの日、もうこれで終わりだとケジメをつけた日から決めていたのに。
「それとも、元が男だって思ったら嫌いになった?」
「まさか……まさか、そんなわけない」
「じゃあ、いつも見たいに笑ってて。私、萩原の笑った顔が好きだよ」
――そんなの、俺だってそうだ。
ずっと、それだけの為に傍にいたのだ。笑ってほしくて、泣いてほしくなくて、そうであってもらうために傍にいたつもりで。
「あーあ、泣いちゃ意味ないじゃん」
堪えた涙はうまく我慢できなくて、ぽろぽろと涙が頬を零れ出た。高槻は小さく細い指先で、俺の頬を笑いながら拭う。ずっと、ずっと好きだった。諸伏のことを好きでも良いと言い聞かせていた。そうじゃないと、俺の立つ瀬がなかった。
「好きだよ」
情けなく涙を零しながらの告白を、彼女はやはり苦笑いをして頷いて見せた。
俺が絶対に傍にいようと決めた。どれだけ彼女が人生の底にいても、どれだけ苦しんでいても、どれだけ正義を違えてしまっても、俺だけはその隣にいよう。ずっと、ずっと、彼女を支えていよう。
高槻は、俺の体をぎゅうと抱きしめた。
俺の背中には、その小さな腕はうまく回らないのを知っている。ずいぶんと久々のハグだったけれど、高槻のものだとすぐに分かった。俺は片腕を、その小さな体に回し返す。ぎゅうと抱きしめると、腕の中の彼女が「痛い痛い」と笑った。
◆
高槻との日々は、穏やかで優しく、俺はひたすらに彼女の傍にいた。
時折上の空になったり、部屋に飾られたスニーカーをじっと見つめているのは知っている。そのことを尋ねれば、「元気かなって思うだけ」といつも言った。別に、浮気心だとは思っていない。
高槻は正真正銘「愛している」と口にしてくれたし、それに嘘偽りはなかった。
三年間過ごした日々に戻ったような気もしたが、彼女が事あるごとに「愛してるよ」と気障ったらしく言うので、俺も不意を突かれることが増えてしまった。
ソタイに配属されて数年後、彼女は希望通りの少年課に転属することになる。
弱く未熟な者を助け、加害を責めるだけではなく、その原因を究明しようとしていた。担当する少年少女の心に悩み、頭を抱えながらも、最後には笑いながら彼らを導いている。
彼女は、素晴らしい警官だった。
俺だけでなく、皆が口を揃えて言うだろう。
俺が三十二になった時、婚姻届けを持ってきたのは高槻のほうだった。
さらりと食卓に置かれていた紙一枚に、俺がどれだけ驚かされたことか。この時彼女は二十九。「三十路になる前に」なんて乙女チックなことを、蕎麦を啜りながら告げた。
そのウェディングドレスの眩さを、今でもよく覚えている。
シンプルなAラインのドレスだったけれど、この世で一番に輝いていた。黙っているとクールに見える表情は、タキシードの俺を見つけて意地悪そうに口角を上げる。隠れていた八重歯が覗くと、世界が彼女を祝福しているように思える。
――さて。
どうして今、まるで遺言のようなことを考えているかと言えば、これは間違いなく遺言であったからである。
幸せだった。大往生だ。
ただ、彼女を置いていくことが心苦しかった。また、泣かせてしまうのかと思った。
俺の幸せな人生の中で、たった一つ、あの時に彼女を引き留めたことが錘だった。
何年と何十年と経っても、それだけが俺の後悔だった。
行かせてあげれば良かった。諸伏のところへ行っておいでと、促してあげれれば良かった。こんなに幸せな人生を貰っても、その想いだけが心の奥を渦巻いていた。
行かせてあげられなくて、ごめんね。
薄れる意識の中で、俺は小さく呟いたのだった。
―――
――
―
昔からよく、「大人びた子」だと言われて育った。
些細なことで泣くことはなかったし、子どもにしては難しいことも知っていた。波風を立てず、喧嘩をせず、大人の機嫌を取り、勉学にも運動にも励んだ。両親も「手のかからない子で助かった」と、俺のことをいつも褒めていた。
「おい! 行かねえの」
「あ〜、ごめん。ちょっと待ってて」
「お前また野良猫に餌やってんだろ……ほどほどにしとけよ」
くせ毛を巻いた幼馴染が、はぁと小さな唇からため息を零していく。
俺はアハハとそれに愛想笑いをしてから、いつも立ち寄る路地へ足を向ける。新しく買ったばかりのパンプスがこつんと音を反響させた。コンビニで買ったキャットフード。ビニールの音を聞きつけて、いつものブチ猫が顔を出す。
「あれ、お前怪我してんのか」
その前足を使いずらそうにビッコ引く様子を見て、思わず先に手が出た。心配だったのだ。このまま放っておいたら、感染症になったりはしないだろうか。しかしその手の出し方がまずかったらしい、猫は俺の手をばしっと叩いて、呼吸のような威嚇をする。
「ほーら、いい子だからな〜」
がしっとその腕の脇を掴み病院に連れて行こうとするが、これが上手くいかない。こんな小さな体だというのに、どこに力があるのだろうか。ばたばたを暴れた猫を必死に抱えながら走った。
せめて病院まで――その想いが足どりを焦らす。
ばっと飛び出した角で、俺よりもいくらか大きな影とぶつかった。
「うわ、ごめんなさ――」
い、と口の形を作る前に、固まっていた。
俺よりも高い背丈を屈めて、そこにいた男はこちらを見下ろす。決して目つきが良いとは言えない、気まぐれそうな目つきと不機嫌そうな口元。人工的な金髪がその顔を翳らせていて、ますます人相を悪く見せた。
男はこちらを見て、少しだけ沈黙する。
「……ふわふわしたもんで目を隠すと、落ち着くんだってよ」
「……へ」
言葉を零した俺に目もくれず、彼は羽織っていた上着を猫にばさりと被せた。煙草の匂いがする。俺はその既視感に、目を瞬かせた。じっと彼のことを見つめていたら、男はこちらを睨みつけ「見んな」と一言投げ捨てる。
私の――俺の人生は、二巡目だ。前世での名前は、萩原研二と言った。