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 烏の行水ともいえるシャワーを浴びて、テントで横になる。女の私たちでも五人詰まるとそこそこ狭いので、男は大変だと思う。消灯時間はいつもと変わらない、十一時。十時には最終点呼があって、そこから不要の外出は禁止されている。
 暫くはコソコソと今日習ったことをメモに書き留めたりしていたが、消灯になると疲れもあるのだろう。次々にすーすーと静かな寝息が聞こえた。隣のテントからは豪快な鼾が響いて、こちらまで聞こえてくる。

 俯せになり、仰向けになり、横向きになり――。数度向きを変えて目を閉じてみるが、私はどうにも寝付けない。そのまま彼是一時間――と思ったのだが、時計を見てみると三十分しか経っていなかった。
 いつもの寮と同じならば、十二時になれば教官が見回りに来るはずだ。それまでには寝付きたいなあと思うのだけれど、そう上手くはいかなかった。

「……トイレなら、許してくれるかな」

 ぽつ、と独りごちると、私はゆっくりテントの幕を捲る。クールビューティが、目を擦りながら「どこかいくの」と尋ねてきたので、「ちょっとお手洗い」と答える。いつもキツそうな顔がぽけぽけとしていて可愛かった。


 テントからトイレまでは、少しだけ距離がある。坂道をくだって、誰も泊まっていないコテージの手前。いや、医務室用に一つは電気がついていた。なんというか分からない虫がジイジイと鳴いている。蝉にしては、ひと呼吸の長い鳴き声だった。
 実際別に尿意を催したわけではなかったので、トイレの灯りの近くでぼうっとしていた。トイレの中でも良かったが、やたら虫が這っていて、苦手なわけじゃあないが気が滅入ったので止めた。
 
 木々の隙間にぽっかりと抜けた夜空は、街中で見上げるより冴え冴えとしている。そういえば、田舎の夜空なんて見たことがなかった。みんな口を揃えて都会とは違うと言っていたが、確かに灯りがないぶん目映く見えるのは確かだ。

「――……高槻さん?」

 ふと、疑わし気な声。私はギクっとして、慌てて「ちょっと、トイレで」と振り向きざまに答えた。誰も聞いていないというのに、後ろめたいことってつい口を突いてしまうものだ。
 諸伏だった。彼は私の様子を「そんなに慌てなくても」と笑った。女子トイレと男子トイレは別の場所にあるので、用を足しに来たわけではなさそうだ。私はホ、と息をつく。どうやら同類のようだと判断したからだ。
「ちょっと、眠れなくて」
 こちらに歩み寄る諸伏に、あははと笑う。彼も静かに笑って、「俺も」と言った。諸伏は私の横にしゃがみこむと、先ほどの私と同じように空を見上げた。
「キレーだよね。私、初めて見たんだ」
 夏になれば、天の川とかも見えるのだろうか。もはや童話上の物体だと思っていたので、一度見てみたい気持ちはあった。

「……俺は、少し苦手」

 ぽつ、と普段穏やかな声色が、やけに無表情にぼやく。意外だった。てっきり、「そうだよな」と微笑みが返ってくるとばかり思っていた。チラ、と覗き見た諸伏は、睫毛の少ない吊り目をぼんやりとさせて、ツンっと尖った鼻と唇には一際明るく月あかりが照らしていた。
 普段穏やかなだけに、無表情だと、急に冷たく無機質そうに見える。けれど、案外嫌いではなかった。触れたら冷たくて、薄く伸ばした飴みたいにパリパリしてそうだなーと思った。

「意外。こういうとこ、好きかと思ってた」
「嫌いじゃないけど、夜はな……。ちょっとだけ、怖いんだ」
「怖い?」
「ああ。虫が鳴いてて、暗くて、静かな夜は……」

 怖いな、と消えるような呟きが、夜の暗さに溶けていく。膝を抱えた指先が、僅かに震えていた。頼りになる男なのに、優しい人なのに、こうしていると子どものようだ。お化けを怖がる子ども。
 それが可哀そうで、可愛くも見えて、震える人差し指を掴んだ。見た目よりも暖かな体温が通った指を、いつか妹を寝かしつけた時のように片手の親指で撫でる。驚いている諸伏に、ゴメン、と笑った。

「私ね、警察になったらさあ、怖いものってないと思ってた。ちょっと前まで」
「うん」
「でも、逆じゃん? 警察になったら、ゴロツキに、テロ組織に、殺人犯に、強盗に――、怖いものがいっぱいあるよな。だから、今のうちに怖がっとこーと思って」

 震えていた指が、少し温度を取り戻していく。爪を押すように撫でたら、少し痛いと、諸伏はおかしそうな笑い方をした。

「今なら、怖がったり立ち竦んでも、仲間がいるけど。現場に立ったら、怖がる人を助けないといけないじゃんか。だから、たくさん怖がっといて、たくさん乗り越え方を覚えていこうと思う」
「それ、高槻さんの宣誓……?」
「あ、マジだ。励まそうと思ったのに、私の話になってたわ」
 
 ゴメン、もう一回謝ると、諸伏は撫でていた親指を握り返した。迷子の子どもに手を握られた気分だ。
 松田と話しているときは勘違いされたら困るのは私だとハッキリ言えたのに、諸伏にはそう思えなかった。学生の時から好意の視線なんて向けられ慣れていたのに。それでも付き合おうとか、セックスしたいとか、思うことはできなかったから、やっぱりこの距離で突き放すべきだとは思った。彼が、例えばだが、「少し良いな」と思ってる時点で言うべきだった。

 その無機質なグレーの瞳に、僅かに色が灯るのは、見て取れた。星とは違う瞬きだと思った。ただ、その手を振り払ったら、彼が迷子になったまま帰ってこないような――妙な感覚。
「私は、熊が怖いな」
「……くま」
 コテージの傍にある黄色い看板を指して、アレアレ、と言う。諸伏がそっちに体を乗り出した。クマ出没注意と書かれた悍ましい四角形に、露骨に身震いした。
「熊って、頭狙っても跳弾するんだって。あの、銃だよ? 前自分で使ったら実感湧いた」
 ただもんじゃないね、ともう片手を銃の恰好にして、四角形に向けてみる。ははっと笑った拍子に手が離れた。
「確かに、使ってみると思うな。アレで貫通しないものって、マジで固いよ」
「しかも、それが骨だよ? こわ〜、生きているうちには遭遇したくないね」
「……銃は、怖くない?」
 諸伏が、少し気まずそうに尋ねる。それが地雷ワードだったら、今ここで頬を張られても可笑しくないんじゃないか。意外と、思ったことを口に出してしまう性質なのだろうか。それとも、わざと言ってるのか。全ては憶測を出ないが、きっと以前倒れてしまったことを心配してのことだろう。困ったり悲しむ人を放っておけない男なのだと思う。

「こえーよ! 当たり前。諸伏くんもでしょ」

 にっと歯を見せて笑うと、諸伏も「怖いよな」と頷いた。先ほどの迷子の影はなく、ずいぶんと晴れ晴れした笑顔だ。可愛い笑顔を浮かべるなあ、と思った。


 ふと過ぎる懐中電灯の明かりに気づいたのは、そのすぐ後のことだ。
 ばっと時計を見ると、十二時を指す。教官が見回りにきたのに気づき、私はバッと坂道を駆けあがった。諸伏がついてこなかったので、振り返ると、彼は人差し指と親指で丸をつくってこちらにサインを送った。
「……?」
 何がオッケーなのか、よく分からないまま、私はテントのほうへ小走りする。背後から鬼塚の声が聞こえた。

「おい、諸伏、テントに戻れ!」
「はい、申し訳ありません。少し医務室に用がありまして」
「――終わったなら、行け」
「はいっ……あれ、懐中電灯が……」
「ハァ、しょうがないな。来い、テントまで照らしてやる」

 鬼塚の灯りが、反対側を照らしていくのが分かった。伊達班のテントの方向だ。私はその姿を見送って、自分のテントの幕を捲った。
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