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 二人が向かったのは駐車場だ。駐車場には灯りがついておらず、足音も響いてしまって、私はそこで彼らを見失ってしまった。FD――と言っていた。駐車場でFDというからには、恐らくMATSUDAのRX7――FD3Sのことだ。ヤンキーだった先輩が、散々カスタムして使っていたから覚えている。ロータリーエンジンの、独特なエンジン音。

 ――そうそう、こんな感じの……すごい音がするんだよな。
 
 駐車場に響いたエンジン音に昔を懐かしみ、それからばっと振り向いた。パっとライトが灯り、駐車場を出ていく白のFD3S。運転席に座っているのは、気のせいでなければ――。
「は、萩原くん」
 ちなみに、入校中には車の運転が禁止されている。バレたら退学処分ものである。いつも松田の保護者を気取っているくせに、アイツも割と考えていることが無茶苦茶だ。今から追っても、徒歩で追いつけるとは思えない。
「……いやいや、退学は無理でしょ……」
 かといって連絡先も知らない。しかし、諦めきることはできず――私はそのエンジン音の方向に足を向けた。





 彼らの向かった街ではひと騒動起きていたようで、その経路は案外容易に辿ることができた。商店街まで出ると、バンパーが引っ掛かった車をトラックが引きずっていったのだと証言があった。まさか、それを追ったわけじゃないよね。そうは思うも心配で、慌てて近くのタクシーを呼び止めて、やや荒れた道のりを辿った。

 ガードレールの擦れた跡、アスファルトについた車輪の道――そして、道端に転がったパトライト。胃の奥のほうがゾっとした。

 暫く進むと、タクシーの運転手が「ここから先は工事中だから進めない」と言う。私は財布からやや多めに料金を支払い、「お釣りは良いので」と扉を飛び出した。その先は運転手の言う通り作りかけの橋で――。

 ちょうど、トラックと先ほどみたばかりの、白いFDが橋の際に見えた。血の気が引く。乗っていたはずだ、萩原が、あの車に。下からだと小さく、彼が乗っているかは確認できない。

「……うそ」

 おもちゃのようなシルエットは、日が暮れ始めた空を飛んだ。橋の際から、もう片方の道までを転げるように。面白いほど綺麗に弧を描く。トラックは横転して、FDは――ここからでは見えない。


 私は、俺は、途端に脳裏に思い返していた。
 トラック、アスファルトの冷たさと固さ、流れる血と妙な方向に曲がる手足。引きずられた血の跡。痛かった。あの人も、きっとそうだった。打ち付けられた瞬間に息ができなかった。

 血が、赤い赤色灯が、赤い――。『おにいちゃん』呼ぶ声が、薄れて、きっとあの子も、痛かったはずで。俺と同じように、それ以上に細かった体は、きっともっと、俺よりもずっと、痛くて。俺がそうなれば良かったのにって!


 頭が痛い。指先まで冷たいのが自分でも感じ取れる。視界がクラクラする。ふらふらとした足取りで、無限にも思える立橋を登る。砂漠を彷徨う放浪者にでもまったかのようだ。足の裏が痛い、重装備訓練なんて、比にならないくらいだ。

 道の途切れた向こう側で、横転したトラック。白のFDは見当たらなかった。救急車のサイレンが聞こえる。

「高槻さん!!」

 肩を掴まれた。ふらつく体を支えるように、腰に手が回った。低い声、たぶん、諸伏だ。
「大丈夫、どこか痛い?」
 優しく気遣うように尋ねてくれるが、私は何も答えられなかった。ただあの向こうにいるはずの、あの向こうに――。頭が、頭が痛い。それは無意識に口をつついていたようで、諸伏が道の端まで引きずるように連れてくれた。
「横になったほうがいい。もうすぐ救急隊がくるから」
 大丈夫だよ、と彼はそう言った。座る気にはなれない。ただ、血の気が引いて、上手く立てないのは確かだった。「高槻、おい」伊達が覗き込むように、私を見る。それが暗転する前の景色だった。






「ありがとうございました」

 室内の医者に頭を下げ、重たい扉を閉めた。
 これで倒れるのも二度目――今回はいよいよ病院に搬送されてしまった。虚弱体質なわけではないと思うのだが、奇妙なこともあるものだ。まさか前世の記憶のせいでだなどとは言えないので、事故を見たショックで、と告げた。
 寝込むことはなかったので、一晩様子を見て、朝方寮に帰ることにした。事故の被害は聞いていないが、報告も何も受けなかったので、恐らく誰も死んでいないらしい。私の思い込みだ。恥ずかしく思った。

 
 寮へ荷物を置きに行き、教官に戻ったことを報告する。無断外出をしたことを厳重に注意され、休んだ分の訓練は自由時間に補講を受けさせてくれることになった。頭を下げて教官室から出ると、伊達班のメンバーが顔をそろえていた。
 そういえば、伊達も諸伏もあの場にいたのだ。何か報告することがあるのかもしれない。
「大丈夫か?」
 降谷が聞いた。私は笑ってうん、と頷き――そして、萩原を見た。

 見た瞬間に、感情が溢れてしまって駄目だった。
 ぼろぼろっと昂った感情がそのまま涙として押し出されていく。急に泣き出した私を見て、松田までもぎょっとして私を見る。
 一瞬だが、想像してしまったのだ。彼が、あの車に乗って、そのまま――死んでいたらということを。警察官になるのだ。きっと今以上に危険なこともある。それは諸伏にも、自分が言ったじゃないか。

 しかし、死ぬのは痛い。苦しいし、恐ろしい。人はああも冷たくなるのか。冷たく小さな手足を見送った。灰になるのを見ていた。一度死んだとき、こんなに恐ろしい経験を、あの子がしたのかと、悲しくなった。トラックが当たった衝撃は遅れて痛みを引き連れてくる。

 嗚咽が漏れた。気づくと呼吸が荒くて、私はただ、萩原の前に崩れ落ちていた。

「し、し、しっ、しんじゃったかと、死んだかと、思ったじゃんかぁ」

 死ぬという言葉は思いのほか使うのは怖くて、歯がガチガチとなるのを堪えながら零した。そこからはただ、恐ろしいという想いを涙が乗せて、頬を伝っていくだけだった。萩原は何も言わなかったが――暫くすると、私に視線を合わせるようにその場にしゃがんだ。驚いていた。普段から上がった口角が、その時ばかりは下がって、真一文字に結ばれている。

「ごめん、ごめんね」
「じ、人命救助したって、自分が死んだら、イミ、ないのにさあっ」
「――うん」
「も、なんでこんな、まじで、もうさあ」
 
 だんだんいい歳をして、こんな年下の男に泣きついているのが虚しく思えてきた。かといって涙の引っ込めどころが分からず、それを当てつけるように口調が荒くなるのが自分でもよく分かる。しかも神妙なツラをして、伊達班の他のメンツも私を取り囲んでいるので、尚更である。

 私は泣くフリをして顔を隠しながら、どうするべきか考えた。みんなが口々に「高槻」「高槻さん」と呼ぶのが気まずい。大の男たちが円になってると想像したら少し面白くて、涙が枯れてきた。まずい。早く教官室にでも行ってくれ。最悪だ。
「なあ、もうしねえから」
 ぽん、と肩に手を置かれて、私は今だと涙を拭う仕草でほぼ乾きかけの頬を誤魔化した。目元は赤いから、気づかれませんように、と祈りながら顔を上げた。

 ――なぜか、萩原がひどく泣きそうな顔をしているので、私は驚いて「えっ」と声をあげてしまった。

「あれ、ごめん。俺、なんだろ……」

 萩原は軽く目頭を押さえる。間延びした口調は、やや戦慄いていた。ずびっと鼻を啜ると、彼はぽつりとつぶやきを落とした。

「ごめん、ただ、置いてかれんのって、辛ぇよなって、思い出しただけ」

 掌で口元と鼻を覆い隠して、彼はつい、と気まずそうに視線を逸らした。

 数秒後、松田や伊達が「お前可愛いところあんじゃん」「おいおい」と揶揄い始め、萩原は聞いたことがないような不機嫌そうな声色で「うるせーよ」と吐き捨てていた。

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Shhh...