31


 次の日、夏乃は訓練時間に顔を表さなくなった。私の前――ではなく、訓練場自体にだ。友人たち曰く、体調が悪いといって病院に掛かりに行ったらしい。昨日のことは諸伏以外には誰にも言っていない。諸伏にでさえ、察してはいただろうが詳細は打ち明けていなかった。

 彼女の行動が可笑しかったのは確かだが、私も勘違いするようなことを言ってしまったし――何より、私の服装を見た時に、ふと諸伏がぼやいた言葉が気に掛かったのだ。間近にいたので、よく聞こえていた。彼は確かに言った。
「やっぱり、そうか」
 その一言が気に掛かる。このまま何もなかったことにもできただろうが、胸の蟠りがずっと溶け残っていて、私は夕食後、自主トレーニングに励む諸伏を捕まえた。

 
 時間は七時を過ぎていて、夏至を過ぎた近頃は、日の傾きも深くなっていた。夕暮れが空に、絵に描いたようなグラデーションを作っていて、その反対側には白んだ月がぽっかりと浮かんでいる。諸伏は訓練棟の壁を使ってストレッチ中だったが、私が声を掛けるとぱっとこちらを見上げた。
「高槻さん、今日訓練出て大丈夫だった?」
 真っ先に心配の言葉が浮かぶあたり、彼の心根の優しさを知れる気がする。私は頷いて、彼のすぐ傍にある花壇の枠組みに腰を掛けた。諸伏は一走りしたあとなのか、入念に足まわりをほぐしてから、隣に腰を下ろした。
「そっか。なら良かった」
「……諸伏くんはさ、なんで昨日、あの廊下にいたの」
 それ以前に、彼が外で草むしりをしているのを私はしっかりと見ていた。視線も合ったはずだ。諸伏は、指を組んで、夕焼けを反射して中を見せない窓ガラスに視線を遣った。それから頭を掻き、少し考えるような間が生まれた。


「どこから話そうかな。少し迷う」


 彼は「ちょっと待って」と、暫く何かを思い出すように空を見上げて、言い辛そうにちらりとこちらを見る。何かまずいことを聞いてしまっただろうか。私は「言い辛いなら良いよ」と首を振ったが、諸伏は私の言葉に腑に落ちない様子で口を引き結ぶ。
「言いたくない……わけじゃない。ちょっと重くなったらごめん」
「あー……、マジで、諸伏くんが大丈夫な範囲なら」
「それは良いよ。大丈夫」
 気にするなと、彼は人の良さそうな笑顔を見せた。組んだ指先は震えていた。それでも彼が話すというから、私はその足に軽く手を乗せる。きっと大丈夫だなんて嘘なのだろう。


「俺さ、実はその、ある事件で――両親を亡くしてて」


 ぽつぽつと語りだした声色は、震えそうなものをぐっと堪えているように感じた。私がうん、と頷くと、少しホッとしたように言葉を続ける。

「俺は兄と二人だったからさ、互いに父方と母方の親戚の家に預けられたんだけど――。ごたごたがおさまるまで、一時期施設にお世話になってたんだ」

 震えた足が、話が進むごとに少しずつ収まっていく。どうやら、彼の一番ネックだったのは恐らく『事件で両親を亡くした』という一点なのだろう。私はふと、前世にいた妹のことを思い出した。妹が、ぽつりと零したことがある。お母さんが良いって泣いてる子がいるんだ≠ニ。自分はその気持ちが分からない=\―と。
 それほど、幼くして両親と離されるのは、どちらにせよ子どもの心に傷を負わせるものなのかもしれない。諸伏はその時のことを鮮明に思い返すように時折ぎゅうと目を瞑りながら語る。

「その時に、一緒だったんだ。深沢さん」

 深沢、というのは夏乃の苗字だ。
「一週間くらいだったけど、同い年で同じ時期に入所したからってよく話したから」
 諸伏は言う。夏に生まれたから夏乃っていうんだと彼女は名乗ったと。だから印象に深く覚えていたらしい。私は納得する風に頷くと、諸伏は「まあ、あっちは俺のこと覚えてないだろうけどね」と苦笑いを浮かべた。

「伯父に……その、性的虐待を受けたんだって、彼女。俺も当時は夜が怖くて、部屋の中でワンワン泣いたりしててさ。深沢さんも、一緒になって泣いて、お互いのことを話したりしてたんだ」
 彼はそれから、デリケートな部分をぼやかしながらだが、夏乃の昔のことを話してくれた。伯父は夏乃のことを家族として愛していたのだと、夏乃は本気で思っていたということ。懐いた人に対して、よく感情が高まるとキスや性器を触るのが、施設でも問題になっていたと。
「俺はそのまま親戚のところに預けられて、彼女は施設で育ったと思うんだけど――。高槻さんに対する深沢さんの態度を見てたら、もしかしてって思った」
 だから、二人になったところが心配で追いかけたと、諸伏は言う。私はそっかと相槌を打ちながら、どうしようもなく虚しい気持ちになった。


「……なんか、悲しいよな」


 ぽつ、と零れ出た言葉は、本音の片端だった。
 いっそ、彼女が本当に変態で、どうしようもなくて、「この野郎」と怒れたのならと思った。夏乃なりに私の何かを好いていて、何かに依存したくて、しかし私はそれを気持ち悪いと思ってしまった――その事実が、虚しく悲しい。

 二十二歳だ。きっと様々な感情や倫理観の歪さに、戸惑うこともたくさんあったのではないだろうか。状況さえ違うが、気持ちはよく分かった。十分に愛されていたのだと感じたくて、愛されていた一瞬を切り取って、同じことを反復しようとしたのだ――痛い。心が痛いくらい、分かる。俺≠焉Aそうだった。

 俺の両親もどうしようもなくて、子どもの世話など焼いたことはない。世に言うネグレクトというやつだった。親が何日も家を空けて、最低限に蓄えられたインスタントを砕いて食料にしたり、ガスの切れた水道で体を流すことも日常茶飯事だった。
 ただ、たった一度。たった一度――俺が万引きをして捕まったときに、俺のことを思い切り怒鳴りながら、無理やり警察に頭を下げさせたことがあった。
 あろうことか、俺はそれが嬉しかったのだ。初めて両親が俺を見てくれた。今まで透明人間だった俺に、色がついた気がした。殺人や強盗はしなかったけれど、万引き、器物破損、麻薬、恐喝、暴行エトセトラ。繰り返しても、二度、俺を見てくれることなどなかったけれど。

 子どもが悪いのか、親が悪いのか。
 いつかの自分と同じような子がいると思うと、それだけで胸が痛む。悪くないよと言ってあげたい。愛され方も愛し方も知らないような子どもが、どこかで他のみんなと同じように生きれればと思う。

「……私、機動隊のスカウト断る」
「え、なんで」

 なんで、というのはスカウトについてなのか、それとも今話題を逸らしたことについてなのか。表情を見る限り、どちらもそうなのかもしれない。――彼も辛かったのだろうか。愛してくれる両親を失うのは、私には分からないけれど――今でも夜に、一人震えるような日があるのだろうか。
 事件があるということは、そのぶん被害者がいるということだ。何も知らない、無知な子どもも赤ん坊も、被害者になりうるし、歪になれば加害者にもなりうる。

「希望したいところ、決まったから」

 意をつかれたように、肩の力を落とした諸伏のほうを振り向いた。じりじりと、夕陽が肌を焼いていく。今ここに夏乃がいないことが、少し残念だ。いつか伝えられる日が来るだろうか。

「私、希望先は少年課にする。スカウトじゃないから、地域課からの始まりだけど……。昔の君たちを、助けられれば、人生に少しでも意味がある気がするから」

 それはしっかしとした自分の意思だった。ふわふわとした、スカウトに対する曖昧な返事とは違う。私の意思だ。諸伏は、ただ短く「うん」と答えた。オレンジ色が彼の黒髪を艶と跳ね返す。彼が頷いてくれたことが、私は何よりもうれしかった。


 深沢夏乃が、自主退学を届け出たと知ったのは、それから三日後のことになる。
 それだけが、やるせなくて、早くしっかりとした警官になりたいと心から思ったのは、これが最初だったかもしれない。
prev さよなら、スクリーン next

Shhh...