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 簡易的に荷物を纏めて、寮の玄関ホールで鈴奈に別れを告げた。
 今日から一週間、警察学校も盆休みになる。寮も閉まるので、生徒たちは強制的に実家なりどこなりに帰宅することになっていた。周りは何も言わないが、夏乃が急に退校したことを、少しばかり気にかかっているらしい。時折気づかわし気な視線が、私の顔をチクチクと刺した。優しい同期たちなのだ。

 確かに気にかかってはいたけれど、今は何よりも早く一人前の警察官になりたかった。私にできることは、夏乃を追いかけることではなく、同じ境遇の子に少しでも救いの選択肢を与えることだ。
 ジイジイ、前とは少し鳴き声の変わった蝉の音だ。壊れたスピーカーのようで、少しばかり五月蠅くも聞こえる。まだ蒸したような暑さはあるが、昼間よりは風も涼しく、気持ちの良い気候だった。夏場の訓練が過酷すぎたので、感覚が狂っているのかもしれない。


「百花ちゃーん」


 間延びした口調。とん、と軽く肩が叩かれる。声の主を予想しながら見上げると、案の定萩原がニコっと笑って手を挙げた。私と何ら変わらない黒く変哲のないスーツだが、私が着るとリクルート生で彼が着るとホストじみてしまう。いつもは校内で禁止されている携帯を、彼はちらりと翳した。
「ちょうど良かった。トロピカルランドの日程送るから、メルアド教えてよ」
「あれ、萩原のアドレス知らなかったっけ」
「実はね。前の待ち合わせも決めていったし」
 警察学校の中で過ごしていると、毎日のように顔を合わせるし、知ったような気でいたが、確かに交換した覚えはない。普段は使用を制限されているから機会がないのが一番の理由かもしれない。
 断る理由もなく、萩原と赤外線で連絡先を交換する。彼のメルアドは酒の銘柄と車種を合わせたものになっていて、こいつヤニカスだけじゃなくて酒カスかよ。と心の中でツッコんだ。本当に、優男も見た目には沿わないものである。覚えやすくて結構だが。
「なんて登録した?」
「え、普通に、萩原って」
「えぇ〜。そこはもうちょっと色気ある風にしといてよ」
 ニヤニヤとしながら提案した萩原に、私はくだらないと思いながらもつい笑ってしまう。彼と話すのは楽しい。気兼ねないし、気兼ねなくさせるような言葉を連ねるのが上手い男だからだ。
 「例えば」と苦笑しながら聞き返すと、萩原は携帯を顎に当て考える素振りを見せる。

「やっぱ、王道にダーリンとか」
「やだよ。普通にキショいし」
「ひでー。松田のはなんて登録してあんの」

 萩原がひょこりと私の連絡帳を覗きこむ。といってもシンプルなもので、別に誰かをあだ名で登録してあるわけでもない。全員変換が面倒で「すずな」「じんぺい」「はは」とひらがなで登録されているのが、自分のずぼらさを表している気がする。
「この、ちゃん付けしてあんのは」
「これ? 妹だけど」
「なんで妹だけちゃん付けてるのさ」
 確かに、そう言われればそうだ。意識はしていなかったが、恐らく母が妹をそう呼んでいたから、名残だと思う。答えると、萩原は「へぇ、可愛いね」なんて言いながら顔をくしゃっとして笑った。口元が大きい所為か、案外笑い方は男らしい。

 彼はしばらくの間連絡先を眺めて、アレ、と首を傾げ――私のほうを意外そうに見つめた。
「諸伏ちゃんのもないじゃん」
「え? あー……うん。降谷くんのもないけど」
「聞きなよ、休み中連絡取りたいでしょ」
 降谷ちゃんも一緒だから大丈夫――と、萩原に散々背中を押されたものの、わざわざ寮のほうまで会いに行って連絡先を聞くのは、気恥ずかしかった。特に降谷など、きっと私が諸伏目当てで聞いただろうとうんざりしながら見てくる――見てくるどころか、恐らくそう断言するに違いない。
「てか、メールとか話すことないでしょ」
「そういうのはお休み〜とかおはよー、とかで良いだろ」
「無理無理、んな女の子みたいなことできない」
 ぶんぶんと縦にした掌を横に振る。萩原は笑いながら「意外だね」と言われた。

 この第二の人生は、二回目の割に、俺が生活していた文化より遅れている。皆が持っているものは所謂ガラパゴス携帯――ガラケーというやつで、俺が学生の時に使っていた機種だった。こういうときに、メッセージアプリのようにグループから辿れないのは不便だ。それに、わざわざメールを一件つかって「おはよう」だなんて送るのは、少し気が引けた。

「俺、百花ちゃんってもっとイケイケなかんじかと思ってたから」
「陣平ー、きてー! 萩原がイケイケとか死語つかってるー」
「は、うそ!? もう古いの、コレ」

 実際古いかどうかは分からないが、私の感覚では古いのだ。
 どうやら私と連絡先を交換している間、萩原を待っているらしい松田が少し先の柱に見えたので、私は携帯を振りながらアピールをした。松田は携帯を振り返しながら「ダッセー」と叫び返してくる。

 ちなみに松田の連絡先が入っているのは、彼が話すのを面倒くさがるところがあるからだ。何かことあるごとに説明するのが気怠いらしく、「メールで言うわ」とアドレスを渡された。ちなみに、手先が器用なだけあってか、女子高校生もビックリするほどの返信速度である。
 今も誰に宛ててかは分からないが、カコカコと指を忙しなく動かして文字を打ち込んでいるのが見えた。

「ね、アレってさ、もしかしてだけど……」

 私はひそりと萩原に向かってささやきかけた。彼は高い位置にある耳を私のほうに寄せて聞くと、視線だけをちらっと松田のほうに向ける。そして、ニヤリとして軽く頷いた。

「そうそう、彼女だぜ、アレ」
「えー! マジで!! 陣平に先こされたぁ〜!!」
「萩、お前適当吹き込んでんじゃねえ!」

 私の大声が通ったのだろう、松田はズカズカとこちらに詰め寄ると、萩原の臀部を軽く蹴り上げた。彼はアハハとわざとらしく笑いながら、蹴られた場所を手で押さえる。
「ごめんごめん、まだ予定だもんな」
「何それ、片思い? 両想い?」
「そりゃー、絶賛片思い中……いでっ」
 今度は背中にジャブが飛び交った。松田は柔道や剣道では目立たないものの、明らかに喧嘩慣れしたパンチを飛ばす。見たことはないが、案外実践向きなのかもしれない。先ほどの蹴りとは異なりバシィ、と空を裂くような音がして、萩原も顔を歪めた。

「大体、ンなことお前に言われたかねーんだよ」

 ――と、松田が舌を打った。まさか萩原まで絶賛桃色期だと言うのか。彼女はいないと言っていたはずなので、松田と同様片思い――だなんてこともあるかもしれない。近頃仲が良くなっていると実感はしていた。このくらい聞いても良いんじゃあ、と尋ねようとしたとき、萩原の視線が私の方を――否、私の更に奥を見つめた。松田も気が付いたようにそちらに顔を上げたので、私は彼らにつられるようにして振り向く。


「高槻さん、これ」

 
 振り向いた時に、あまりに近くに立っていた影に、驚いて一歩後ずさってしまった。近くにいると、彼の体格の良さが分かる。諸伏は、私が驚いたことに気づいてか、「あ、ごめん」なんて一歩後ずさる。結果互いに二歩離れることになって、微妙に遠い距離感が生まれてしまった。
 諸伏は、少し遠い場所からずいっと手を差し出す。携帯――ではない。一枚の色のついた付箋だった。しかも、本当に授業のメモを取るための、四角いシンプルなやつ。メモ帳ですらない。
 私がやや戸惑いそれを見ていると、諸伏は少し困ったように矢継ぎ早に言葉を続けた。

「その、また何かあったら相談してほしいし。もちろん何もなくても……俺も相談したいこととか、あるかもしれないから」

 それから、眉尻を下げて、控えめにこちらを見て笑った。誤魔化すような、あいまいな笑顔。


「やっぱり、嫌か」


 私はその付箋を慌ててもぎ取る。彼の丁寧な筆跡で書かれた英字の羅列。別に赤外線で交換すればいいのに。わざわざ書いてきたのは、もし断られたらと不安だったからだろうか。どうしよう、嬉しい。頬がゆるゆると解れていきそうなのを、唇をぎゅうと内側に巻き込んで堪える。
「じゃあ、また……トロピカルランド、楽しみだな」
 彼は受け取ってもらえたことにホっとしたのか、ニコっと不安を砕くように笑いかけて、来た方向に駆けて行った。松田が一連を眺めてから、「俺たちもいんだけどな」と諸伏の背中に向かって吐き捨てていた。 

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Shhh...