40


 元の部屋に戻ると、同期たちが皆心配そうにこちらに駆け寄った。
 本当に良い人たちで、大丈夫か、また頭痛かと取り囲んで揉みくちゃにされて、私は「お腹が痛かっただけ」と苦笑いした。
 まだ心配そうにもしていたけれど、私が何度も大丈夫だと言うと、松田が「でっけェの出たんだろ」と茶化して笑った。多分、それも気遣っての言葉だろう(――多分、そうだと思いたい)。有難く「うるせー」と笑って乗っておいた。

 そのあと、萩原たちは飲み会に行くと盛り上がっていたが、前科もあることなので今回は辞退することにする。萩原がやや残念そうに「そっかあ」と言ったのは心苦しいけれど、休みも終盤だ。気を遣わず思う存分飲んでほしい。

「俺も帰るから、送ろうか」

 腰を上げた諸伏の姿に、驚くほど露骨に心がドキリとした。
 以前も寮まで送ってくれたではないか、優しい男なのだ。私が返事をできずにいる間にも、彼はさっさと荷物を纏めてしまって、立ち尽くす私のもとにのこのこと――失敬、ニコニコと近づいてきたのだ。
 私は、つい半歩後ずさってしまった。大丈夫だろうか、私のやましい気持ちがそのまま伝わったりしないか。
 そんな心配をよそに、諸伏はニコっと笑ったまま僅かに首を傾ける。

「悪い、嫌だったら良いんだけど」
「嫌じゃ! ……嫌じゃ、ないよ」

 ドックンドックン、とまるで何かの毒物を飲んだような心臓を何とか落ち着かせて、私もなんとかニコリと笑った。顔は引き攣っていたか、可愛い笑顔になっていたか、という些細なことがどうにも気になった。

 カラオケ代を萩原に渡して、二人で駅への道を歩く。日は暮れていて、かといって暗闇ではなくて、薄紫の淡い空が広がっていた。ぽつぽつと、街灯が灯りを灯し始める。

「諸伏くんは、家どのあたり?」
「学校の近く。だけど今日は高槻さんと同じほうだから」
「そうなんだ、友達の家とか」
「うん、今日は兄貴のいるホテルに泊まるからさ」

 そう笑う諸伏の表情は、いつものニコリとした愛想笑いよりも幾分か緩んでいて、きっと兄弟仲が良好なのだと予想できた。自宅の近くのホテルと言えば、恐らく駅前にあるグランドホテルだ。割かし豪華な造りで、よく結婚式の披露宴に使われているのを見かける。

「お兄さん、すっごいお金持ちとか……」
「まあ頭が良いし貯金もしてるけど……。ちょっとこだわりが強くて、グルメなんだよ」
「へー……」

 イメージができない。諸伏はどちらかといえば庶民派な印象があって、警察学校のカチカチなあんかけ丼もいつもにこにことして食べている。そういえば以前、兄とは別の親戚に引き取られたと話していたような覚えがある。やはり育ちが違うのだろうか。

「高槻さんは、兄弟とかいるか?」
「うん。妹が一人……あ、会ったことあるんだっけ」

 恥ずかしながら、酔いつぶれた私を送ってくれたのは諸伏と降谷だったと聞く。疑問にも思わなかったが、私の家の方向を知っていたのもその所為だろう。諸伏は私が気まずそうにしているのを見て、苦笑いを浮かべた。
「すぐに隠れちゃって、チラっとだけな」
「隠れた……あの子が?」
 私は彼を怪訝に見上げる。人見知りはしないほうだし、イケメンだとあれほどはしゃいでいたのに。諸伏はキョトンとして頷き「パジャマだから母を呼んできますって言ってた」と。なるほど、いつも宅配などはパジャマだろうが髪がボサボサだろうが出ていくものを。美形たち相手だと礼儀も良くなるものである。

「でも、似てたかもな。目とか……」
「あはは、昔の写真見る? すっごい似てんよ」

 諸伏が見る、というので、携帯を開いて写真フォルダを――開いて、私はすぐに携帯をパタンと折り畳んだ。しまった、諸伏との写真を保護していたのを忘れていた。覗き防止のフィルムを貼ってはいるが、真上から覗きこんだ彼からは見えただろうか。

 恐る恐る諸伏を振り向くと、彼は「どうした」と何事もなかったように笑う。その頬は僅かに赤くて、私が口籠ったら、諸伏は視線を泳がせてから、自分の携帯を取り出した。かこかこと何かを弄ったかと思うと、彼は私に画面を向ける。私が送った、二人の写真だ。その画面の端に、私と同じ南京錠のアイコンが映っている。

「これ、実は嬉しかったんだ。俺もバレちゃったな」

 そう、ふにゃりと目じりが下がった。
 ああ、綺麗だ。色っぽいのもあるけれど、その笑顔は可愛くて綺麗で格好良かった。そして、同じものを嬉しいと思っていたことも、今までの比にならないくらい嬉しい。なんだこれ、毒物か。いけないものを盛られたんじゃないのか。

 今まで普通に話していた他愛ない話の言葉の一つ一つ、彼の一挙一動に、いちいち心臓が五月蠅く鳴る。これは厄介だった。寿命が縮んでしまう。生き物ごとに動く心臓の回数は決まっているだとか言うが、この帰り道だけで三年は未来を失っているのではないだろうか。

 いつもどうやって話していたんだっけ。それが分からなくて、なんとなく空笑いが続いた。地元の駅に着いて暫く歩いている時だった。隣を歩いていた影が見えなくなって、私はパっと振り向く。

「うそ、ヒロくんでしょ」

 諸伏の腕を、誰かが握っていた。女の人だ。
 黒髪のミディアムヘアで、白いビッグパーカーにレギンス、大きなリュックサック。薄い唇と、笑う時に鼻と眉の間に皺がくしゃっと寄るのが印象的だった。正直に可愛くて、俺も好きなタイプの顔だ。

「どうしたの、こっちのほうにいるの珍しいね」
「あー……いや。ちょっとな」
「てか、また筋肉ついた? あんまマッチョになったらやだよー」

 ぺちぺち、と小さな手が諸伏の掴んだ二の腕を叩く。
 嫌な予感がする。推理材料は、彼女の親し気な雰囲気と、諸伏の気まずそうな顔。それから降谷の言っていた『元カノに似てる』というワード。諸伏は触れられた腕を少し無理やりに解いて、眉間に皺を寄せていた。

「良いから、行けよ。また彼氏に怒鳴られる」
「なに? アイツのこと気にしてたの。別れたって、あんなDV男」
「別れたって……、お前またそんなこと」
「まだこの銘柄吸ってんだ。お揃いだね」

 お揃いだね、という時に、その気まぐれそうな目つきがこちらを振り向いた。確かに、私のことを見て言ったと思う。
 先ほどまで諸伏にかき乱されたペースが、スーっと冷静に戻っていく。怒りと苛立ちを前に、案外冷静になるタイプだったようだ。知らなかった。

「良いって。また間男だと思われたくない」
「はは、気にしちゃってさあ」
「だから……」

 詳しい理由は読めなかったが、諸伏の表情から一つのことは読み取れる。
 私は感情が、思いのほか簡単に、ストンと胸に落ちるのを感じた。この女のことは知らないが、右も左も分からない恋心に一つ指針を立ててくれたのには感謝をしなければいけない。ふーっと大きく息をついてから、私は軽く肩を鳴らす。

 それから、スタスタと諸伏のほうへと近づいた。
 そうだ。私は私であり、俺なのだ。諸伏を好きだと感じたのは、きっとどちらともだった。私も、俺も、全部ひっくるめて――彼のことを好きだと、その感情に至ったのだ。ならば、別に乙女のようにドギマギとする必要はない。少女漫画みたいにピュアでなくても、諸伏からの行動をジっと待つことはない。

 私はガッシリと、女の腕をとった。小さくて、活発そうで、親しみやすくて、だけどどこか女の子らしい。まるで私の女の部分だけを切り取ったような女だ。その手をクルっと回して捻ると、彼女が「いたっ」と声を上げる。


「嫌がってんじゃん。やめなよ」


 ネイルで整った指先が諸伏の腕をパっと離す。私はふん、と一度鼻を鳴らしてから諸伏の腕を引いた。
 そう、私は俺。俺は私。女であっても、男であっても良い。夏乃がそうであったように、感情だけは自由に抱こう。私らしく、彼を好きでいよう。
 
 ――「行こ、諸伏くん」。悪戯っぽくニっと口角を上げると、諸伏は一瞬目を見開いて、それから「ええ〜……」と情けなく笑った。

「イケてたでしょ、私」
「うん、かなり」

 ホテルのラウンジが明るく光るのを、二人で声を上げて笑いながら見上げたのだ。

prev さよなら、スクリーン next

Shhh...