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 ――ちょっとトイレ。
 と、逃げるようにして個室を抜け出した。どうして、いつから好きだった。もしかして、もっと前からそんな感情が芽生えていたのだろうか。分からない。私が知らないふりをしていただけで、ずっとそうだったのだろうか。
 

 俺は――。俺はどうだ。俺は、彼のことが好きなのか。
 分からなかった。ロクに人を愛したことのない人生だった。彼女だっていたけれど、結局は利害の一致だ。性欲が溜まった、金がない、家がほしい。そんな感情を諸伏に抱いて良いのだろうか。諸伏を独り占めにしたいと、本当に俺が思っているのか!


 そんなために人生を送ってきたわけじゃない。
 この人生を少しでもマシなものにしようと思ったのに。警察官になって、少しでも救える子どもたちを救ったら、見殺しにしてしまったあの子に報いを返せると思った。身を挺して、こんなロクデナシに命を放ったあの警察官への贖罪になると思った。
 こんな、自分のエゴのために二度目の人生を生きてきたのではない。私は、俺は、どうしてそんな感情を抱いてしまったのだろうか。

 萩原や松田に「諸伏を好きなのか」と言われた時、好きとはもっと特別な、キラキラとした感情なのではないかと思った。その人を好きになれば、世界を煌めかせるようなものじゃないかと、どこかで期待していた。
 それがどうだ。襲ってきたのは罪悪感と泣き出しそうな頭痛だった。
 煌めいてなんかいない。彼を今すぐ連れ出して、抱きしめて、私だけのものにしたかった。他の奴らなんて見ないでと縫い留めてしまいたかった。そんな感情が、彼らの語っていた好き≠セと言うの。

「――違う」

 きっと、違う。結局俺はロクでもない人間なんだ。
 二度目の人生になったって、その根っこが変わっていないのだ。結局、あの両親と同じ血を引いたから、だからこんな感情しか抱けないんだ。

 トイレの鏡で、高槻百花の顔を見た。
 少し焼けた白い肌、やや生意気そうな遠心顔、薄く口角の持ち上がった唇、薄っぺらい耳たぶ。どれも俺が好きな顔。もはや俺なのか、私なのか、分からない顔がポロポロと泣いていた。ファンデーションの上を、粒のような涙が零れていく。まるで他人事のようで、自分が泣いているということに暫く気づかなかった。

「……泣いてんの?」

 そっと叩かれた肩に、びくっと大きく体が揺れた。
 慌てて涙を手の甲で拭った。鏡に映った少女の姿に、ほんの少し安心した。諸伏ではなかったからだ。金色のボブヘアーが印象的の小柄な少女は、くりっとした大きな目で私を見つめた。

「――夏乃」

 化粧をしていて印象こそ違うが、夏乃だ。彼女は黒いビックシルエットのTシャツから飛び出た細い腕を、胸の前で組んで「久しぶりだね」と笑った。恐くはなかった。話したいことがたくさんある。掛けたい言葉もたくさんあったけれど、どれも声には出せなくて、「うん」とだけ返した。

 私たちが歌っていた場所から廊下を挟んで向かい側の部屋。どうやら一人で訪れていたらしいので、彼女は気まずそうに「来る?」と問いかける。あんなことがあった後で不用心かとも思ったが、今の夏乃に下心はないような気がした。
 彼女は鞄から、シンプルなグレーのハンカチを差し出す。ごめんと一言謝って、頬を伝った涙を拭いた。
 
「……元気、だった?」

 カラオケの画面から流れるMVの音を下げて、夏乃は気まずそうに聞いた。以前より素っ気ないような態度だったけれど、嫌ではなかった。
「元気。夏乃は?」
「行く所ないからね、貯まった給料でアパート借りて、バイトしてるよ」
「へえ」
 す、と銜えた長細い煙草。安っぽいピンクのライターで火をつけて、彼女はそれを深く吸い込んだ。学校にいたときの夏乃からは煙草の匂いはしなかった。ふわっと品の良いシャンプーの香りがした髪を思い出す。夏乃は少し寂しそうに「思ったより気にしてないみたいで安心した」と語った。
 思いのほか傷が浅いのは、それこそ自分の中にもう一つ男としての人格が保たれていたからかもしれない。気にしてないといえば嘘になるが、少なくとも生まれつきの女の子より、傷ついていない自覚はある。

「その……聞いても良い? 夏乃は、私が好きだった?」
「うん。入校式のときからずっと好きだったよ」

 ふう、と部屋の上空に白い煙を燻らせて、彼女はアプリコットのマットリップが塗られた唇をゆるやかに微笑ませた。

「だってね、王子様みたいだったの。男の人みたいだけど、男の人みたいにいやらしくなくて、体だって綺麗で、チンチンもないでしょ。子どもっぽい時もあるのに、優しくてさ。遠くから見てるだけでも幸せだったんだよ。こんな人がいるんだって」

 とん、と灰皿に燃えカスが落とされていく。何もせずとも常に上がっていた長い睫毛は、マスカラが少しダマになっているのが見えた。ふっくらとした女の子らしい頬が、煙草を吸うたびに少し窄まる。

「でも、知り合った時には前の君じゃなくなってた。すっかり女の顔してて……私じゃない誰かに恋してる顔。あー、そのうちこの子、ソイツに処女あげて、ただの雌になっちゃうんだろうな〜って……。悲しくて、苦しくて、昔の自分を見てるみたいで嫌だったの」

 大きな瞳が上を見上げて、涙の膜を張った。今にも零れだしそうな粒は、瞳を潤してなんとか堪えている。ぱちん、と瞬いた拍子に、一粒だけポロっと流れ落ちていった。昔の自分――諸伏から聞いた、例のことだろうか。恐かっただろうと思った。十もいかない小さい子が、大人の性器を受け入れるのは、どれほどの恐怖だろう。

 ――愛されてるって、信じたいんだよな。
 たとえ愛されていなくても、自分のされていることが理不尽なことだと分かっていても、きっと愛されているって思いたいんだ。年齢よりも幼く見えるその少女のような風貌が、なんだか物悲しく思えた。

「ごめんって、言えなくて、ごめんね……」
「夏乃……」
「やっと理想の人に会えたって思ったの。この人なら私も、きっと愛して愛されることもできるって、思ったの。だって、私一生、人を好きになんてなれないから……」

 そのサラサラとしたボブヘアを抱き寄せた。ケアの行き届いていない髪の先は、枝毛が目立つ。彼女の心のささくれのようだと思った。涙を我慢して声を震わせる夏乃を、ぎゅうと抱きしめた。

 俺みたいだ。
 愛を与えられなかったから、愛を与えることもできないと思っている。
 誰もそんなことを禁止していないのに、お前は愛されないって、生まれつき刷り込まれたみたいだ。夏乃は暫く肩に額を擦り付けてから顔を上げた。

「すっかり女の子の匂いだね、百花ちゃん」

 ふ、と彼女は寂しそうに、涙袋を持ち上げるように笑った。私は掛ける言葉が見つからないまま、その髪を手放す。ぎゅ、と口を引き結んで、なんだか私が泣きそうだった。

「私もね、好きな人がいるかもしれない」
「知ってる。だって、百花ちゃんを好きだったのは私だもん」
「……夏乃は――。恐くなかった? 好きになるの」
「分からない。結局、理想を押しつけただけの欲求なのかもしれなかったし。百花ちゃんのことなんて、見ていなかったのかもしれない」

 夏乃はひと呼吸区切ってから、短くなった煙草を灰皿でぎゅうと磨り潰した。灰皿からはまだ、か細い煙が一筋昇って、冷房に流されていく。

「でも、ただ好きでいるのは、今までにないくらい楽しかった。薄汚れてた世界が綺麗に見えて、ドキドキして――私、ずっとあなたのことだけ考えてたのよ」

 そして、夏乃は薄暗い部屋の中、瞼に乗ったラメをきらりと煌めかせて「ありがとう」と言った。

 夏乃の世界は、そのあとどうなったのだろう。「きたな」と最後に吐き出された言葉を思い出す。私に拒絶されて、世界は元に戻ってしまったのだろうか。そう思うと、好きになるのは怖いと思う。恐らく今言われても、受け入れてあげられないとも思う。
 けれど、笑う夏乃の髪が弱い冷房に揺れて、綺麗だった。そんな風に笑う世界は、決して薄汚れてなどいないと、私はまばゆさに少し目を細めた。

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Shhh...