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「百花、そろそろ機嫌直しなって……」

 心配そうに鈴奈に顔を覗きこまれて、嬉しくないわけがない。正直それだけで機嫌が立ち直りそうだったのだけど、腹部を襲う痛みがそれを帳消しにするのだ。私たちを乗せる貸し切りの観光バスの中で、一人重たくため息をついた。


 卒業旅行前日のことである。
 前の週には鈴奈たちと一緒に買い物へ行き、新しい水着や下着を揃えて、荷物をパッキングし、さあ準備よしといったところだったのだ。いつもより少しばかりキツいブラジャーに、もしかしたら、もしかすると――とは感じながら、必死に自分に言い聞かせていたのだが。

 きてしまった。しかも、当日の朝だ。
 予定よりも一週間早い生理だった。警察学校に入校してから、慣れない環境で周期が遅れたり早まったりすることはよくあったのだけれど、何も今でなくても。早朝からシーツと制服を泣きそうになりながら洗い、折角詰めた荷物を全部放り出して、生理用のものに代えてきた。
 気分は最悪だ。
 ガンガンに冷やされたバスの空調でお腹が冷えるし、タイヤが揺れるたびに鈍く痛み、サービスエリアへ寄ってはナプキンを変えなければいけなかった。本当に酷い子に比べれば、それほど重たいほうでもないけれど、それでも一日目とは格別なのだ。
 前世の自分にも教えてあげたい。ちょろちょろって二、三滴零れるようなものじゃないんだぞ。中学一年生、初潮が来たときに、愕然とパンツを見下ろすしかできなかったことを思い出す。

「はぁ……ごめん、鈴奈」
「良いよ。気分悪かったら言って」

 折角お揃いで買ったスカートも色が淡くて履けず、デニムのスキニーになってしまった。思い出作りに勤しむ気力もなくて、私は何度か重たくため息を零す。本当は楽しみにしていたのだ。高校の修学旅行はずっと友達と携帯をいじくって、適当にホテルで過ごしていたし。同期たちのように心から楽しめる仲でもなかったから。
 期待が大きかった分、その反動も大きい。
 お腹を押さえながら、キラキラと日光を跳ね返す水面が見えてきたのを、疎ましく見ていた。






 パラソルの下で、はしゃぎまわる青年たちを眺める――なんて、本当に意味のない旅行だ。同じ班の子たちは気を遣って暫く隣にいてくれたけれど、気合をいれて水着を買っていたことを知っているだけに申し訳なくて、大丈夫だからと笑って送り出してしまった。せめて水の掛け合いくらいしにいこうかとも思うけれど、下腹部が重くて立ち上がる気にもなれない。

「はー……良い脚だ……」

 同期の女の子たちの、普段隠れている足のラインをぼんやりと眺めた。
 さすが、皆トレーニングを欠かさないだけあって綺麗な曲線美だ。外にいることは多いが、着こむことばかりな所為か、肌の色も白く輝いて見えた。
 そばかすちゃんは体格の割に胸が大きい。同期生もチラチラとそちらに目が行っていることが丸わかりだ。かくいう私も見ていたけれど。
 
 私は暫くTシャツの中に膝を入れて丸まっていたけれど、あることに気づいてハっとした。そういえば、諸伏も水着を着ているはずではないだろうか。救助訓練の際は着衣水泳やウェットスーツだったし、私は勢いよく顔を上げて同期たちの中から諸伏を探した。
 降谷はあの容姿のせいで遠くからでも目立っていたので、目を凝らしてその周囲を眺める。皆髪が濡れてぺったりとしているので、いつものあの丸っこい頭では判断がつきづらかった。
「くそ……」
 悪態をついて双眼鏡を持っている奴がいないか、適当に置かれた荷物を捌くった。傍からみたら置き引き犯である。



「何してるんだ?」
「うっひぁ」

 ぺと、と項に冷たい感触が当てられて、体が跳ねる。とんでもなく間が抜けた声を発してしまった。私が慌てて振り返ったら、見慣れた猫によく似た目が私を見て少し細められた。「諸伏くん」、名前を呼んで体勢を直したら、彼はすとんと私の隣に座る。海水で濡れた体に、細かい砂がぽつぽつと張り付いていた。

「はい、食べる?」
 と、差し出してくれたのは近くの売店で売られていたかき氷だ。何故かメロン味。こういうのって、普通オーソドックスなものじゃないのか。それが可笑しくて、私はフ、と笑いながらかき氷を受け取った。

「ありがと。どうしたの、こっちきて」
「さっき萩原に思い切り沈められたから、ちょっと休憩」

 ぽた、ぽた、とまだ大粒の雫が黒い髪の端を伝っている。それは見たかったな〜、って笑ったら諸伏は情けない声で「やめてくれ」と笑った。濡れた髪を掌で掻き上げて、鬱陶しそうに後ろにやると、広い額がよく伺えた。

 口の中に入れると、荒い氷が舌の上で心地よく溶けていくのが分かる。以前トロピカルランドで食べたものより味としては単純だったけれど、それがローカルな感じがして良かった。というか、生理中にかき氷かあ――。
 不覚にも、私が食べたくないなあと思っていた物だったソレを、彼がニコっと差し出してきたのが嬉しくてしょうがなかった。真新しいものでもないし、暖かい飲み物とかが欲しかった。けれど、どんな食べ物より、カップを握って冷えた指先まで幸せに思えてしまうのだ。

「……へへ」
「え、どうかした?」
「なんでも〜。髪の毛違うと誰か分からないや」

 濡れた髪を見上げると、彼は「確かに」またふにゃっと笑った。
 嘘だよ。髪の毛が違ったって、服が違っても、紛れもなく目の前にいる男は諸伏だ。ツンとした目つきに涼やかな顔つきも、優しいけれどその少し不器用な気遣いも、諸伏のものだ。そう思うと、嬉しいという気持ちが込み上げるのだ。

「高槻さん、気を遣って海って言ってくれたんだろ」
「え? あー……。まあ、前行ったのは事実でしょ」

 見透かされていたのは、恥ずかしい。もう少しスマートにやれれば良かったが、少し露骨だっただろうか。なんだかむず痒くて、視線を逸らして事実をぼやかすと、諸伏は折っていた足に頬杖をついて、こちらを向いた。

「ありがとう。助かった」
「――それは、降谷くんに。ほとんど役に立ってないし」
「ゼロには言っておいたよ。そしたらアイツ、気づかなくて悪かったなんて謝るんだ」
「……諸伏くんに対して責任感重すぎじゃん」

 そう言うものの、正直想像がついたのが面白かった。確かに、降谷なら言いかねない。崩れ始めたかき氷の山にスプーンを突き立てると、横にどさっと誰かが座った。一目で分かる褐色の肌に、私は驚いて「うわ」と声を上げてしまう。

「責任感重すぎで悪いな」

 アイスグレーの大きな瞳が、こちらをジトっと睨みながら吐き捨てた。間違いなく、近くから会話が聞こえてわざと隣に座ったのだ。水着の上に白いラッシュガードを羽織った降谷は、諸伏と違い頭からびっちょり濡れているわけではなかった。

「沈められなかったの?」
「沈めてやった」

 と、降谷は鼻を鳴らす。
 彼に体術で張り合うのは松田くらいしかいないだろう。ノックアウトされただろう萩原を、レジャーシートの上から悼んでおいた。諸伏の仇は無事に取られたようだ。
「コイツ、負けず嫌いだからなあ……」
 諸伏は得意げに笑う降谷を見て、苦笑いを浮かべている。
 負けず嫌いという性格で、本当に負け知らずになっているのだから、彼の才能には目を見張るものだ。学校の中でも未だに彼に張り合おうとするのは伊達と松田くらいのもので、他の生徒は「まあ降谷だしなあ」という気持ちになりつつある。

「なんか悔しいな」
「突然何だよ」
「棒倒しでなら勝てるかも」

 私は軽く目の前に砂山を作ると、てっぺんに落ちていた枝をプッスリと突き刺した。諸伏と降谷は一瞬キョトンと、その幼さのある顔つきを固まらせたが、すぐに二人で目を見合わせニヤっと不適に笑った。

「負けたらどうする」
「最下位は飲み物買ってくるで。あとポテト」
「よし、俺もこれならゼロに勝てる気がする」

 と、三人で小さな砂山を削るだけの地道な勝負を開始したのだ。
 憂鬱だった気分は、パラソルから差し込む傾いた陽差しに、大分和らいだような気がする。

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Shhh...