43


「――あれ?」

 私の隣を通りかかった萩原が、見た途端に半笑いで顔を覗きこんだ。理由は分かっている。覗きこまれた視線をついっと避けると、彼はニヤニヤしながら尋ねてくる。

「なんで降谷ちゃんの荷物も持ってんの?」
「聞かないでよ……負けたの、勝負に!」

 こちとら生理中だぞ! と主張したいけれど、生憎と賭けに乗ったのは私だ。棒倒しでも強いだなんて、降谷の能力は数値が可笑しくなってしまっているのだろうか。攻め方も絶妙で、決して指の先てチョロチョロ砂を削るわけでもないのに、気づけば私の番には棒が傾いて倒れる寸前になって回ってくるのだ。全三回戦、全敗である。
 諸伏は私が負けたのにも関わらず「俺は良いよ」と自分で荷物を持って行ってくれたが、降谷は遠慮なく私にボストンバッグを預けて一人すたこらとバスに乗っていった。女の鞄に比べれば恐らく着替えくらいしか入っていない分、相当軽くあったが、屈辱である。

「大体、萩原だって降谷くんに沈められたんだろ」
「うわ、なんで知ってんの。後ろから近付いてたの読まれててさ、背負い投げよ」
「ふ、背負い投げ?」

 その図を想像しただけで笑いが込み上げた。萩原はひでぇと笑ったけれど、笑いながら潮でぱりぱりになった髪を軽く摘まんで見せた。男にしては長い髪が、手櫛で梳くと指に引っかかる。

「重くない、持とうか」
「……それしたら降谷くんにすっごい厭味いわれそうだから」
「確かに、じゃあこっち持ってあげる」

 と、彼は私が引きずっていたキャリーバッグの持ち手に手を置く。ボストンバッグより余程キャリーのほうが重たいのだけど、私がどうこう言うまでもなく大きな手がひょいっと荷物を取っていってしまったので、言葉に甘えることにした。

「体調は? もう大丈夫」
「うん。薬も効いてきたし、だいぶ良いよ」
「なら良かった、朝死にそうな顔してたからさあ。ゾンビかと思った」
「こんな可愛いゾンビいたら本望でしょ」

 機嫌よくニコっと口元を笑ませてみる。
 諸伏なら少し顔を赤く染めようところだが、萩原は笑いながら「そうだねえ」と、そのゆったりした口調で頷いた。旅館は大きな街道から少し入り組んだところにあって、そこまで歩いていかなければならない。細い路地だったので、自然と彼と二人並んで歩く形になった。

 私は、前後の同期たちとの距離を確認してから、「萩原」と彼を手招く。その大きな図体が腰を折って、私のほうに顔を寄せた。何度か言葉を詰まらせながら、しかし萩原には言うべきではないかと思った。半分くらい、惚気る相手が欲しかったという欲望もある。


「あのさ、私、やっぱ諸伏くんが好きだよ」


 手と同じく、大きな耳に口を寄せて囁くと、ぴくりとその体が小さく跳ねた。
 それから彼はニ、三度瞬きをして、ゆっくりとこちらを振り向いた。驚いたような表情だった。元より僅かに持ち上がった口元が、益々ニィ、と持ち上がっていく。

「うそ、いつから? あんだけ頑固に違うって言ってたのに」
「あはは……やっぱり今さらって思うかな」
「――ううん。百花ちゃん、綺麗だ」

 そう、大人びた瞳が細められた。
 その視線があまりに大人っぽくて、少しだけドキリとした。夏乃の笑顔を見た時の私と同じ感情なのかもしれない。恋をした人を、綺麗だと思ったあの感情に。まるで映画のワンシーンを切り抜いたような表情。彼の濃い睫毛の中から、私を捉えた瞳が揺れていた。

 ――一瞬、誰かが息を呑んだ音がした。私か彼かは、分からない。

 彼は一度その睫毛で瞳を覆い隠すようにゆったり瞬いて、それからニコリと愛想よくいつもの笑顔を浮かべた。

「じゃ、この卒業旅行は気合いれなきゃなあ。応援するぜ」
「あー、えっと、別に付き合いたいとか、まだ思ってないし……」
「まだそんなこと言ってんの? 駄目駄目、アイツあれでモテるんだから」

 萩原はニっと笑うと、少し考えるように顎に手を当てて、「じゃあ、部屋においでよ」と言った。旅館の部屋は班ごとに分かれていて、彼の部屋というのは伊達班のことだろう。

「俺も女の子たちたっくさん呼んでくれたら嬉しいしさあ」
「それが本音でしょ……おい、鼻の下伸ばすなって」

 にやにやと頬を緩めた萩原に軽く肘鉄をして、私は笑いながら頷いた。部屋に集まって、どのみち酒を飲んだりと、前とさして変わらないだろう。
 班の子たちも伊達班とは飲み会やトロピカルランドで一緒に遊んだことがあったので、提案すると二つ返事で頷いてくれた。





 修学旅行ではないので、男子部屋に遊びにいくことを禁止されていたわけではないが、浴衣に着替えて彼らの部屋に行くのは、なんだかお祭り気分にもなる。コンビニで買ったチューハイとつまみ(――と、私用にジュース)を手土産に部屋を訪ねたら、案の定これでもかというほどニコニコした萩原が出迎えてくれた。

「いや〜、みんな良いねえ。浴衣姿。美人だなあ」
「言い方オジサンくさいってば」
「ひでぇ。気合入れてきてくれたんだから、褒めてもいいじゃん。ね〜」

 ニコっと同意を求めれば、「ね〜♡」と返答が返ってきた。すでに鈴奈も馴染みはじめている。別に特別人見知りではないが、あまりミーハーなノリをするわけでもない鈴奈がこれだ。萩原のコミュニケーション能力には目を張るものがある。彼には多分、人の緊張を解くような雰囲気があるのだ。

 伊達班の部屋は私たちの部屋とは大きく違わず、広間の真ん中にあるテーブルで他のメンバーがカードを取り囲んでいた。松田は最初何だよという顔でこちらを見上げていたが、ビニールに入った酒をちらつかせるといそいそと座布団を用意し始めた。現金な男だ。

 さすがに十人集まると狭かったので、テーブルはどかして円になり、畳の上にビニールを敷いてツマミを広げた。萩原がせっせと間を詰めさせて、右隣は諸伏、左隣には鈴奈が座っている。 

「じゃ、気ぃ取り直して飲むぜ〜。伊達班長、音頭取って!」
「おっし、卒業に!」

 それぞれ缶を掲げると、皆も「卒業に」と声を合わせた。アルミ同士が、カツンとぶつかる。残暑が続くなかでは酒がうらやましいけれど、この間の前科があるので、今回は私の手の届く範囲に酒は置かれなかった。

「もう温泉入った?」
「うん。ここの温泉びっくりするほど熱いよ、見てこれ」

 諸伏に尋ねると、彼は真っ赤になった足の甲を差し出した。え、と私が声を上げると、反対側から馬鹿にしたように松田が鼻で笑う。

「そいつ、湯の温度調節する前に足突っ込んだからな」
「……水で調節するなんて知らなかったんだよ」

 なるほど、自分で水を注ぎ温度を調節するようなものらしい。私は大浴場には入れなかったので、知らなかったけれど、赤く染まった足を見ると悪戯心が湧いてくる。

「だめだよ、諸伏くん。それは常識だから」
「えぇ、高槻さんまでそんなこと言うなって」
「あーあ、箱入り息子に育っちゃって〜」

 よしよしとその丸っこい頭を撫でると、彼は眉を下げて「トホホ」と効果音のつきそうな顔でしょぼくれた。――フ、可愛い。するすると通る猫毛は、私の指をつっかえることなく流れていった。私は諸伏の奥にいる金色の頭に話しかけた。

「ママ、ちゃんと教えてあげなきゃ」
「それ、もしかしなくても僕のことか」
「降谷ママ。ちゃんと面倒見て」

 とん、と彼の肩を押して降谷のほうに押しつける。降谷は受け取った諸伏の体をぐっと押し遣ってこちらに戻してきた。

「ゼロのことを子ども扱いしたことはあったけど、逆は久々だな……」
「なんだと。ヒロは少しボーっとしすぎなんだよ」
「親子喧嘩するなって、パパに任せな」

 降谷はそのキリっとした眉を益々吊り上げるので、私は軽く自らの胸を叩いた。降谷のことをママと揶揄ったので、その相対でパパになっただけだが、諸伏は「パパ呼び」がひどくツボに入ったようで、パパ、と何度か呟きながら体を震わせていた。

 その後もツボに入った彼が何度も「パパ」と笑うものだから、私が諸伏を可愛がることを酔っ払いたちに「パパ活」と揶揄されて、私は謎に自分の缶ジュースを彼に貢ぐことになっていた。

prev さよなら、スクリーン next

Shhh...