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 ――大変だ。
 飲酒もじゅうぶん重大事項なのだが、何よりも生理中に酒を飲んでしまったことがあり得ない。噂には聞いていたが、こんなにも大惨事になるとは想像もつかなかった。幸い昨日介抱してくれたらしい誰かが――記憶はゼロに等しい――下にタオルを敷いてくれていたので、畳には浸透していないが。肝心のタオルは旅館のものでなく誰かの私物のようだが、とても返せたものではない。

 頭を抱えながら昨夜のメンバーに聞いてみたが、全員頭痛に耐えながら「覚えていない」と口をそろえた。これが警察官の旅行二日目の姿とは到底思えない。

「お前、飲むなっつっただろうが……」
「違う、気づいたら飲んでたんだよ……。私も気を付けようとは思ってたんだけど……」

 松田に呆れたようにため息をつかれて、私も頬を引き攣らせて反省した。確かに警察官たるもののやることではない。どうして飲んだんだっけ――手元の缶ジュースしか飲んでいなかったはずなのだけど。

 まだタオルのことを聞いていないのは諸伏だけだ。
 そういえば、彼は前の飲み会でも酒に強かった覚えがある。降谷が酔いつぶれていたのは意外だけど、もしかしたら彼なら何か覚えているかもしれない。
 そう思ったのだが、朝食時間から諸伏の姿が見当たらなかった。今日は海から少し内陸に進んで水族館に行く予定だった。まさか昨日の二日酔いでまだ寝ているのだろうか、と降谷に聞いてみると、彼はケロっとした顔で首を振った。こいつ、二日酔いをしない体質だ。

「いや、朝は部屋で支度をしていたよ。少し吸ってくるって言って出てったが……」
「そう、なんだ……。煙草吸うんだね、諸伏くん」
「最近は禁煙してたけどな」

 へえ、と相槌を打った。煙草の匂いがしたこともないし、煙草を吸っているのを見たこともなかった。そもそも、松田や萩原の感覚が可笑しいのか。普通あれだけマラソンを強いられて自ら煙草を吸う方が可笑しい。

 わざわざ喫煙室にいくのもどうかと思ったので、私は降谷に礼をいうと自分の荷物を纏めに踵を返した。どっちにしろ、移動のバスで一緒になるのだ。そう問い詰めていかなくても良いだろう。

「なあ、高槻」

 そう私を呼び止めたのは降谷だ。珍しかった。どうしたのかと振り向き首を傾ければ、彼はこちらの様子を伺うようにして言った。
「……昨日、ヒロと何かあったか」
「えぇ……分かんない。もしかしたら迷惑かけちゃったかも」
「ああ、そうか――いや。悪い、なんでもない」

 降谷は何かを考えるように瞼を伏せながら、ゆるゆると首を振る。そっか、と相槌を打って、私はそのまま自室に向かった。


 浴衣はしっかり旅館に弁償をしたが、下着がおじゃんだ。念のため旅館の中にある売店で適当な下着を見繕っておいた。(色気もクソもないものだけど)。モスグリーンのキャミニットに、ロングのプリーツスカートを履いてキャリーを持った。鈴奈と一緒にバスに乗り込むと、そのあとすぐ諸伏たちも乗ってきたので、軽く手を振る。

「ごめん、諸伏くん。昨日さ……」
「あー……悪い、ちょっと気分が」
「あ、マジ? じゃああとで、ゆっくり休んでね」
「ごめんな」

 彼は眉を下げて謝ると、座席にどっかりと座って窓にその丸い頭を凭れさせていた。いつも二人組で座るときは降谷を窓側にして、他の同期とのクッション材になっているのを知っている。座席の隙間から覗く丸頭を、珍しいなあと思って見守っていた。
 他の部屋も似たようなものだったので、久々のアルコールではしゃいだのは私たちだけではなかったらしい。これから水族館にいくだなんて信じられないような空気感だ。まあ、気分が悪いならしょうがないな。
 私は行きがけにかった水を飲んで、その丸っこい頭と同じように窓に凭れて、彼を後ろから見つめた。

「わっ」
「う、っわ」

 その座席の隙間から、大きく垂れた目がひょこりと覗いた。
 すぐ前に座っていた萩原のものだとはすぐに分かったが、ホラー映画のような演出をしないでほしい。私は驚いた拍子に打った鼓動の余韻を感じながら、「なにすんの」と不機嫌に返した。

「いやあ、陣平ちゃんグッタリしてっから暇でさ」
「うわ、ほんとだ」
「鈴奈ちゃんもダウン中でしょ、相手してくれっかなーって思って」

 鈴奈はすっかり熟睡していて、私の肩に凭れかかっている。確かに暇だ。頭は痛いけれど眠たくはないし、こつんと軽く窓に頭を置きながら萩原の話を聞いた。彼は持ち前のコミュニケーション能力のせいか情報通で、色々なことを知っていた。あの子は可愛い彼女がいるだとか、どの子は実家がお金持ちで別荘を何個持っているだとか。――けれども、決して厭味なことは言わなくて、それが萩原らしいと思う。

「お、そろそろ着くんじゃない、ほら。あそこでしょ」
「おー。本当だ! 近かったね」

 萩原が指をさすほうに見えた外観に、私は頬を綻ばせた。東都にも水族館はあるけれど、どちらかといえば都会らしいものなので、ここまで大がかりな施設ではない。遠くに見えるスタジアムに心が躍った。時間にすれば、一時間も掛かっていない距離だ。

 横で寝ていた鈴奈を起こすと、彼女はまだ重たげに瞼を持ち上げたけれど、今朝よりは顔色が良さそうだ。私と同じように水族館を見てパァ、と明るくなった顔色に、私も隣でニコニコと笑っていた。





 館内は薄暗くて、灯りが水槽から差し込むせいでカーペットに水の波紋がゆらゆらと映って見える。一番最初に目についたのはイルカの水槽だ。ようこその文字と並んで、思いのほか大きなシルエットが心地よく泳いでいた。
 そこから少しずつ熱帯魚やカニ、タコの展示に繋がっていて、それを抜けると筒形の大水槽が魚のシルエットで彩られている。
 みんな、ワアワアと盛り上がっているわけではなく、何となく静かに、時折小さく笑ったりしながら、静かな回廊を歩いていた。

 昔、彼女が行きたいといって連れて行ってあげたこともあった。その時はひたすら、どう彼女のご機嫌を取ろうか考えていたけれど。パネルの文字を読もうなんて考えたこともなかったなあ。

「ねえ、もうすぐイルカショーやるって」
「早めにいかないと前の方で見えないよ」

 と、同期の一人が看板を見て言うので、自然と足並みはショースタジアムへと向かった。イルカショーで食べるかき氷って美味しいよね、と言われて、内心また氷か〜と思いながらも頷いて笑った。

「――……あれ」

 その足並みから外れて、丸っこい頭が逆方向に歩き出したのを視線が捉えた。何やら降谷に話をしてから、踵を返す姿。もしかしたらトイレかも。いや、でもトイレならこの先のはずだし。
 少し気に掛かった。降谷に何か事情を説明していたので、きっと妙なことではないと思う。
「ごめん、ちょっと買い忘れ」
 私は同じ班の子たちにそう断って、彼が姿を消した人混みへと向かった。

 体調、まだ戻らないのかな。朝からボーっとしてたみたいだし、外の空気が吸いたいのかもな。色々な想像をしたけれど、蟠りは消えないままだ。水族館を訪れる人たちは、ほとんどがショースタジアムに行く足並みばかりで、私はほとんど逆走状態になりながら人を掻き分けた。
 時折ぶつかる子どもに、「ごめんね」と声を掛けながら、ようやく人混みを抜けたときだった。円柱になった大水槽の前で、彼はポツンと水槽を見上げていた。他の人たちが流れる中で、彼の時間だけが止まっているみたいだった。


「諸伏く――」

 こめかみがズキっと痛んだ。耳鳴りがする。水が詰まったように周りの音が遠ざかる。私はその場にしゃがみこんで耳の後ろをぎゅうと押さえた。痛い、痛い。

『その友達の名前はね――っていうんだよ』
『なにそれ、酒の名前じゃん』
『そうそう。だって組織に潜入してたんだから。コードネームなの』
『俺は好きだけどな、普通にその酒』
『へえ。どんな味なのかな、私も大人になったら飲みたいなあ』

 頭の中に響く声に、薄っすらと嫌な汗が滲んだ。ぷつぷつと首の後ろを伝っていくのが分かる。
『スコッチ』
 という名称が、何故だか痛いほどに頭を反響していた。ぐらつく足元をなんとかおさえて立ち上がろうとすると、冷たい指先が私の額に触れる。

「大丈夫?」

 尋ねた優しい声色に、私は泣きそうになりながら支えられたのだ。

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Shhh...