46


「ごめん、ちょっと頭痛がして……」
「やっぱり昨日の抜けてないんじゃないか、顔色悪い」

 大水槽の前にあるベンチに腰を掛けて、諸伏は心配そうにこちらを覗きこんだ。彼の瞳って、日本人にしては少し色素が薄い気がする。降谷まで露骨じゃあないけど、水槽が跳ね返す光が、彼の瞳をゆらゆらと照らして、不思議な魅力がある。
 大丈夫、と笑って返すと、彼も少し息をついて眉間の皺を取った。

「諸伏くんこそ大丈夫? 調子悪そうだったし」
「あ……うん。大丈夫、ちょっと吸いたくなっちゃって」

 彼は色素の薄い瞳を、やや気まずそうに泳がせた。降谷が言っていたなあ、と思い出す。諸伏は大きな水槽を見上げて、「でも、綺麗だったからつい」と言った。ロマンチックな男だと思うけど、そういうところも嫌いじゃなかった。
 ツンとした鼻先に、降り注ぐ光があたって綺麗だ。その光が遮られたと思ってふっと顔を上げると、ちょうど目の前を大きなウミガメが泳いでいった。
「おお、人乗れそう」
 その悠々とした姿に独り言が漏れてしまって、諸伏は小さく噴き出してこちらを見遣る。
「なにそれ、浦島太郎?」
「そう、浦島百花」
 にっと口角を持ち上げたら、彼はお腹を抱えて笑った。笑いのツボが浅いところも、可愛くて好きだったりする。頬杖をついて、ニコニコとそれを見守っていると、彼はギクっと体を固まらせた。
 そしてポケットを探るような仕草をしてから、はっとして手をとめた。多分、煙草を探ったのだ。俺も吸っていたから分かる。

「吸いにいく? 良いよ」
「……ううん、高槻さんまだ未成年だろ」
「そうだけどさ」
「それに、いつも吸ってるわけじゃないんだ。なるべく吸わないようにしてるし――」

 降谷が「いつもは禁煙している」と言っていたのが頭を過ぎる。諸伏はハア、と大きく深呼吸をした。恐らく気を紛らわせているのだろう。――禁煙って、辛いんだよな。ふと苛々した時とか、スッキリしたい時にはどうしても手が煙草を求めてしまうのは分かる。
「何かあった……?」
 降谷の言葉を思い出していたら、彼も諸伏のことを気にしていたような気がした。ふと気になったので聞いてみたけれど、諸伏は一瞬黙ってからニコリと何事もないように笑った。へたくそな笑い方だった。
「あっただろ」
 その笑い方を問い詰めるように言うと、彼は一変して瞼を伏せ、視線を落とす。子どもたちが大きな水槽を見上げてはしゃぐ声が聞こえた。

「いや、その……」
「言いたくないなら良いけど。でも心配はしてるよ」
「ごめん、どんな顔したら良いか分からなくて」

 諸伏は少し自嘲気味に笑って、ごしごしと目頭を擦った。一瞬、泣いたのかと思ったが、そうではないらしい。痒かったのか、それとも癖だろうか。目じりがほんのり赤みを帯びて見えた。


「言いたくなかったら良いんだけど……萩原と付き合ってる?」


 随分ストレートに聞かれて、私は勢いよくむせ返った。目を引ん剝くようにして彼を見るけれど、冗談めかしてはいない。これが冗談だったら、ずいぶんと演技が上手いことだ。一番最初に出た言葉は否定や拒絶というより「え、なんで? どうして?」とひたすらに疑問だった。
 どうして、と言うと諸伏はまた言葉を濁して「昨日さ」とごにょごにょ言うので、ああこれは酔っ払て何かやらかしたのかと思った。萩原も悪ノリするところがあるし、諸伏は生真面目そうなので勘違いをしたのかもしれない。

「ない、ないない。てか彼氏いないし」

 急に馬鹿らしい気持ちになって、ぶんぶんと手を大きく振ると、諸伏はまだ気持ちが晴れないように視線を曇らせている。

「記憶ないからアレだけど……本当にないよ。これだけは断言する、あのウミガメに誓って」
「今会ったものに誓うなよ……。ふ、はは、分かった。分かったから、そんな真面目な顔して祈らないで」

 大きなシルエットに両手を組んで誓っておいたら、案の定諸伏はけらけらと笑ってくれた。彼の真面目で冷たい顔つきが、砕けたようにパっと笑うのが好きだ。私は機嫌よくニヤリとした。
「ズルいな。笑わせたもの勝ちみたいなの」
「ズルい〜? 策略って言ってよ」
「策略、な」
 今度は彼が、片眉をピンと吊り上げて意地悪そうに笑った。挑発的な顔はあまり見たことがなかったので、私は見た瞬間に顔を熱くして目を見開いてしまった。「なんで驚くんだ」、諸伏がまた笑うから、「ダーク諸伏を見たから」と答えた。笑った顔は相変わらず可愛い。

「そっか、付き合って……ないのか……」

 彼は水槽を見上げて、まるでホっとしたかのように独り言ちる。
 ――これって、もしかしてヤキモチなのではないか。
 だって、萩原と付き合っていると思って、それで禁煙を破るくらい苛々していたのだ。嫉妬と呼んでも過言ではないんじゃあないか――。自惚れる、これは自惚れてしまってもしょうがない。
 諸伏には申し訳ないが、私はその事実は嬉しかった。前から好意的には接してくれていたけれど、彼も少なからずこちらに思うところがあるのでは、と期待した。

 しかしどうも、それを直接態度に出すのは、だらしないような気がして気が引けた。
 なんとか口元がニヤニヤとするのを押さえて、一度咳き込み、感情を整える。ちらっと諸伏のほうを見て「どうする」と尋ねた。

「煙草、吸いに行く? みんなはイルカショー観に行ったみたいだけど……」
「……いや、ちょっとこっちのほう回ろうかな。さっき、余裕もって見れなかったから」

 諸伏はイルカショーとは真逆にある、小さな水槽が並んだアクアリウムのような通路を指した。大水槽とは違って、ちまちまとした熱帯魚や貝、クラゲが展示されているゾーンだ。彼は立ち上がると、こちらを少し振り向いて、やや強張った風に笑った。

「……行く?」

 たった一言。
 その一言で、私は先ほどの気が引けた≠ニいう事象を引っ繰り返されることになる。私は彼に引きずられるように少し強張った顔のまま立ち上がる。まるで、本当に十代になってしまったようだ。
「い、行く」
 吐き出した言葉はどもってしまった。
 格好悪いなあ、と決まり悪く思ったけれど、諸伏が行こうと言ってくれたから、そんなことも気にならなかった。

 諸伏は、魚を見るのが好きなようだった。
 水族館だから当たり前なのかもしれないけれど、他にも人が集まるような、ラッコやアザラシ、ペンギンのいるゾーンもあったけれど、彼はちまちまとした小さな水槽を宝物のように覗きこんでいる。
「魚、好き?」
「ん、ああ。好きだよ、釣りもするし」
「食べるのかよ」
 当然のように熱帯魚を眺めながら言うから、笑ってしまう。
 諸伏はカクレクマノミを眺めながら「これは食べないよ」と大真面目に言った。それもまた面白くて、肩が揺れた。揺れた肩がぶつかった。自分より固く骨ばった体だ。

「こっちは淡水魚?」
「みたい……見て、オオサンショウウオ」
「あは、なんか良いね、コイツ」

 サー、と水が流れる音がする。海水魚のゾーンとは、水の匂いが違った。どこか涼やかな音が流れる中で、岩に隠れた茶色い影を諸伏が見つける。その場にしゃがみこんで水槽を覗くと、諸伏も横に座り込んだ。目の前をキラッと鱗をきらめかせた魚が泳いでいく。

「うん。愛着湧く顔してるよな」
「どこが目? あれって」

 髪を掻き上げてそののっぺりした顔を覗きこむようにしていたら、彼の黒い髪が視界の端でさらっと揺れた。
 私はそれに惹かれるように視線を上げていた。彼も水槽に映り込んだ私を見たのか、涼やかな顔をこちらに向ける。しゃがみこんでカーペットについていた手に、不安そうな彼の手が重なった。なんとなく、あの日の続きな気がした。多分、お互いに、あの夏祭りを思い出していたと思う。

 相変わらずその唇は色っぽいな。暑い体温が記憶にあったけれど、キスをした唇は冷房で冷えていた。少しだけ、煙草の苦さが舌を痺れさせたかも。
 本当に、触れただけ。唇と唇の皮膚の感触を味わっただけ。だけど、確かに私としての、人生で初めてのキスはそれだった。

prev さよなら、スクリーン next

Shhh...