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 私は一度大きく寝返りを打って、すぐ隣から響くシャワーの音を聞いていた。

 二日目に宿泊するのは昨日とは打って変わり、小綺麗なホテルだ。二人一部屋だったので、今は鈴奈がシャワーを済ませているのを、私はボーっとして待っている。さすがに二日連続の飲みはキツいと思ったのか、それとも昨日のことで懲りたのか――。ほとんどの生徒は大人しく部屋に直行していた。私も少しキツいと思っていたので有難い。

「百花、電気消すけど良い?」

 私が天井をただ見上げている間にも、彼女は髪を乾かし終わっており、学校では見慣れたスッピンがこちらを一瞥した。太めの眉がキリっとしていて、やや頬には赤みが差している。可愛いなあ、鈴奈は。ふしだらな想いを胸に隠しながら「おやすみ」と布団を被った。

 部屋には時折シーツが擦れる音と、エアコンが空気を入れ替える音が静かに響いている。

 寝れなかった。だって、そうだろう、寝れないよ。
 本当に触れるだけだったけど、確かにあれは諸伏の唇だった。あのあと少し見つめあって、諸伏は何事もなかったように立ち上がったけど。今でも思い出せる、少し乾燥して冷え切った唇、ちょっぴり触れた粘膜から広がった苦い煙草の味。女の子が吸うみたいな、苦さの中にほんのり甘い匂いがした。

 ――どうしてキスしたんだろう。
 それは諸伏への問いかけでもあり、自分への問いかけでもある。
 嬉しいかどうかと言われたら、嬉しい。当たり前だ。だって私は彼のことが好きなのだから。なら諸伏はどうなんだろうか。遊び半分でキスをするような男には思えないけれど。

 云々悩んで、また布団に潜る。
 すべての悩みを吹き飛ばすくらい、彼とのキスは魅力的だった。衝撃でもあり、何故だかひどく馴染むような気がした。一瞬のことだったのに、宇宙を揺蕩っているとも思えるくらい。あと何度でも、キスをしたいと思うくらい――。

「ね、寝れね〜……」

 寝返りを打ちに打っても、諸伏のことが頭から消えない。
 規則正しい寝息は隣のベッドから聞こえた。まさか、彼女を起こして話し相手にさせるなんてできやしない。私はパジャマを脱ぎ捨てると、部屋着用のTシャツを被って、一日目に履いたデニムを引っ張り出した。
 時計を見れば丁度日付を超えたくらいで、少しくらいうろついても良いだろうと思った。


 ホテルの外に一歩出ると、案外外は賑やかだ。やはりホテルが建つような観光地ということもあるのか、ちらほら居酒屋の灯りが灯っていた。東都より田舎に思えるけれど、案外空は変わらない。ここが明るいからか、山岳救助の時に見た空が印象深かったからか。そういえば、あの時は諸伏のことをただ不安そうな可愛い人だと思っていたなあと数か月前を思い返していた。

 飲み物でも買って帰ろうか、ぼんやりホテルの周りを一周歩いていた時に、何か言い争うような声がした。酔っ払いも多いだろうし、喧嘩だろうか。警官の一端として、念のため様子を見ておこうと声のするほうへ向かうと、その声が聞き覚えのあるものだと気づいた。

「――だから、女もいるけどそういうんじゃねえって……。何がそんな不安なんだよ」

 普段から気だるげな声が昂っていて、別人のようにも聞こえるが、ホテルの駐車場でフェンスに凭れかかるようにしたシルエットは、間違いなく彼のものだ。声を掛けるのもなあ、と思って暫く遠くから様子を伺っていたが、視線に気づいたのか男はハっとこちらを振り向いた。 

「……分かった、分かったから。切んぞ、もう夜遅い」
『――!! ――――!』
「一回落ち着け、明日になったら連絡する」

 人の視線で昂っていた感情が落ち着いたのか、彼はまだ何か言いたげな通話相手からの連絡手段を切ると、大きくため息をつきながらこちらを睨んできた。
「見てんじゃねえよ」
「ごめん、たまたまなんだけどさ……」
 松田はポケットに手を突っ込みながら、駐車場にある車止めをひょいっと乗り越えながらこちらに歩み寄る。松田の顔は見るからにうんざりとしていて、少し気まずくもありながら「今の彼女?」と聞いてみた。彼は小さくそれに頷く。

「酒は飲まないから、ちょっと付き合え」

 重たそうな足取りが、ホテルの入口へと向かう。向かったのはホテルの中にあるバーラウンジで、松田は適当にノンアルコールのカクテルを注文してくれた。松田はさらっとハイボールを頼んでいた。「注文しないっていったくせに」、私が言うと彼は口元をニヤリとさせて「一杯は飲むに入らねー」などと言うのだ。そんなわけないだろ。

 丸氷をからからと揺らすのがやけに様になっていて腹が立つのだが、彼はぐいっとグラスを呷ると肩を落とした。

「……いつから付き合ってんの」
「ちょい前。お前らとトロピカルランド行ってすぐくらい」
「上手くいったんだ、良かったじゃん」
「まあ、それは良いんだけど」

 松田はややはにかむように頬を綻ばせる。かちかちと、忙しなくメールを弄っていた彼の顔を思い出した。あの思いが叶ったのなら喜ばしいことだ。酒を一気に呷ったせいか、少しだけ息を熱くして彼は言葉を続けた。

「女ってさあ、付き合う前はあんな可愛いのにな」
「――……それ、今なら聞かねーフリしてやるくらい最低な言葉だけど?」
「本当のことだろ。付き合うってなると、なんでアレやコレやっつうか……」

 彼はムシャクシャしたようにその癖毛を掻きむしった。
「たかがダチとの旅行だろ。それも大人数の……一対一で会ってるわけでもねえし」
「今、まさにこの状況じゃない」
「お前は女とは思ってない」
 こいつ、その酔いつぶれた頭を三発ほど叩いてやろうか。
 その衝動に駆られたけれど、確かに私も松田のことを異性として見ていないのは確かだった。彼女としては多分、そういう問題ではないと思うが。しかし今から一人ため息をつく松田を放って部屋に戻るのも松田に悪い気がする。甘ったるいノンアルコールで口の中を潤しながら、少し考えた。

「松田の中ではさ、付き合わないって選択肢はないの」
「……あ? なんだそれ。セフレってこと?」
「まあ、うーん、大体そういうこと……。付き合わなきゃ可愛いんでしょ」
「お前が言うか、ソレ」

 は、と意地悪そうに松田が鼻で笑った。同じような笑い方でも、諸伏とこう差があるのはなんだろうか。口もとを引きつかせて「良いから」と彼の言葉を促す。私の処女は今関係ないのだ。

「嫌だから」
「……何が?」
「嫌だろ。自分以外の男とセックスやキスしてるなんて。それを手っ取り早く形にする方法がカップルじゃねえの」

 ――妙に納得した。確かに、嫌だ。
 諸伏が他の人とキスをしている姿を、想像すれば血が沸騰するような気持になる。これはモヤモヤとかそういうのではなくて、怒りだ。なるほど、嫉妬という感情はこうやって生まれるらしい。

「じゃあ、何がそんな不満なの」
「旅行に行くだなんて決まった時には伝えたし、向こうも納得してたのに。いざ来てみりゃメールと電話が鳴りやまねー。それって俺に信用がおけないってことだろ」
「まあ……そうなのかも……?」
「放っといたら浮気するって思われてるみたいでムカつく。あれやこれや制約されんのも柄じゃねー」

 と、松田は飲み終えたグラスを新しいハイボールに取り換えてもらった。飲んでないのは一杯目だけじゃないのか。私は松田がぶつぶつと呟く言葉に適度に寄り添いながら、こんな自由奔放に生きる男でも、恋だけはままならないのだなあと難しく思った。

 見せてもらった松田の彼女は前髪を掻き上げ風に分けたギャル風な子で、どこが好きなのと言うと「気が強いのに泣き虫なとこ」と、ほんのり口元を持ち上げた。「帰ったら仲直りできると良いね」と言うと、もう一度ため息をついて、頷きながらハイボールをゴクゴクと喉に流し込んでいた。
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Shhh...