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「私ですか!?」

 ――訓練後、教官室に呼び出された私が声を上げると、横にいた降谷が軽く肘でこちらを突いた。卒業式も間近の頃だ。同じく隣にいるのは伊達と、松田。それから他の教場の生徒も並んでいる。
「ああ、それぞれよく頑張った。当日はしっかり受け止めるように」
 鬼塚はいつもは見せない笑みを口元に浮かべて、私語を指摘することもなく、私の肩を軽く叩いた。それだけでぐっと込み上げるものがきて、鬼塚に「まだ早いだろ」と苦笑いされてしまう。

 警察学校の卒業式には、それぞれ成績優秀者への表彰がある。トータルは勿論、武術や拳銃など技能の成績もだ。私のそれは、逮捕術だった。伊達は次席として、松田は柔道。松田に至っては「ボクシングじゃねえのか」と口を尖らせていたが、満更ではなさそうだ。
 正直松田と共に呼び出された時にはついに何かやらかしてしまって、退校処分になるのでは(――事実、飲酒はしたので――)と思ったけれど、本当に良かった。

 教官室から寮に行く道のりは、嬉しくもあり、同時にやや物寂しくもある。「まだ早いだろ」と鬼塚は言った。それだけ、卒業が近づいているのだ。彼らと同じ寮へ向かって歩くのも、あと少し。初任補習科で帰ってくるとは分かっていても、卒業するのを億劫に思ってしまうくらいだ。
「なんだよ、しょぼくれた顔するなって」
「だ、伊達班長〜……。いや、早く寮からは出たいんだけどね……」
「気持ちはわかるさ、良い奴らだったからな」
 そう、良い奴らだったのだ。
 正直、高校のときの友達と同じ空間で過ごしても、ここまでは思わなかったかもしれない。彼らも、彼女たちも、良い人だった。目指す場所が同じというのは、それだけ強い想いなのかもしれない。

「卒業しても、会えないわけじゃないだろ」

 はぁ、と呆れたように降谷がため息をついた。
 とはいえ同じ職種といっても、配属先によって大きく仕事は違うし、今のように頻繁に顔を合わせることもないだろう。あんなに鼻もちならないと思っていた澄ました顔も、なんだか恋しいと思えてきて私は思い切り彼の腕に抱き着いた。降谷は大きな声で「やめろ、痴女!」と失礼極まりないことを宣う。
「お前、んなことしてっと諸伏に嫌われんぞ」
 松田が軽く背中を突いて言うので、私は慌てて背筋を伸ばす。それは駄目だ。
 降谷はきょとんとこちらに大きな目つきを向けて、私を見ると何度か瞬かせた。そして悔しそうに、今度は私の腕を握ってくる。

「……お前やっぱりヒロ狙いじゃないか」
「今は! 今はだから!! これはマジだって!」
「くそ、道理で最近高槻さん、高槻さんって……」

 降谷の悪態から思わぬ言葉が飛び出たので、私はえっと身を固まらせて、それからニヤついてしまった。そんなに私の話をしてくれているなんて、可愛いものだ。できたら録音してほしいなあ、なんて邪な願いを口に出さないようにぐっと堪えた。

「付き合ってるのか」

 降谷が拗ねた風に尋ねた。私は素直に「付き合ってないよ」と答える。隣から松田が茶々をいれるように「じゃ、手は繋いだ?」と尋ねたのに、一瞬言葉を詰まらせただけで男三人が揃って感嘆の声を上げた。観察力が高い奴らって、こういうときには厄介だ。

「早く告っちまえば。前も言ったけど」
「――……卒業する前に言っちゃおうかと思ったけど、やめる」
「まだ好きじゃねーとか言うのかよ」
「好きだけどさ、好きだけど……まずは警察官になりたいし」

 好きだけどね、と三回目。念を押しておいた。
 彼のことは好きだが、それに人生を全て振ることは考えていなかったからだ。だって、これは折角の二度目の人生。好きという感情だけに没頭して、最初の目標を失いたくはなかった。それから、今まで知らなかったけれど、案外恋愛体質らしい自分自身の感情の制御がまだうまくできていないのだ。
「多分、諸伏くんも今はそういうんじゃないと思うから」
「……うん、そうか」
 降谷は少しだけ表情を和らげて頷いた。
 彼にも、きっと何か成し遂げたいものがあるのだろうと思う。真面目な彼が、きっと遊びでキスをしたわけではない彼が、「ごめん」「付き合おう」のどちらの返事もないのは、きっとそういうことではないかと。

「だから降谷くん。卒業した後もご飯行くときは誘ってください。お願いします」
「現金な奴だな……」

 そう言いながら、そのあと寮に帰ってすぐに彼は携帯の番号を交換してくれた。だって好きなのだから、会えるときは会いたいし。待ち遠しく思えば、仕事も捗ることだろう、きっと。
 松田は未だに理解できなそうに頭を掻いていて、だけどその単純さは嫌いじゃなかった。日が暮れると、涼やかな風が身を冷やすような季節だった。




 
 卒業式自体は、入校式と変わらないほどの長さで、訓練どおりの内容なので、思いのほか緊張感はない。答辞は相変わらず首席を貫き通した降谷が読み上げた。彼は入校のときと変わらない声の覇気で、教官たちに指導の礼を述べていた。鬼塚がうっかり眉間を押さえているのを、私は僅かに口角を持ち上げてみていた。
 松田の返事は相変わらず覇気がなくて、諸伏はやっぱり降谷と同じように背筋をピンとさせていて、萩原はそれを見てニコニコと笑っていて、伊達は一人前を見据えていた。
 ――そうか、あの時から、そうだったのか。
 私は名前も知らなかった彼らの背中を思い出しながら、今度こそどもることなく返事をして立ち上がったのだ。

 

 それよりも心が痛んだのは、いったん寮の掃除をして、荷物を纏めなければいけなかったことだ。あれほど狭いと感じたベッド、蒸し暑かった個室、何より配属の辞令が鈴奈と離れてしまったのが悲しくて仕方がなかった。
 卒業式よりも、その荷物を引き払うのが嫌で、重たく荷物を持ち上げたら、鈴奈が薄っすら涙を浮かべながら私に抱き着いてきた。
「いつも心配かけてごめん」
 と、彼女に謝ると、彼女も涙ぐんだ声で何度も頷いていた。また三か月後、この部屋に戻ってくるときには、彼女に心配を掛けないようにしよう。


 帰りの駅に向かっているときに、背後から名前を呼ばれた。
 荷物は持っていなかったから、きっと誰か近くの人に預けたのだろう。降谷なのだろうな、となんとなく予想はできた。

「諸伏くん、卒業おめでと」
「高槻さんも」

 にこ、と笑ってから、暫く沈黙が続いた。
 ――何を話すわけでもなかった。その時僅かに名残惜しくて、やっぱり好きだと言ってみようかと心が揺らぐくらい、彼の表情が魅力的だった。諸伏は暫く言うのを迷うように視線を左右させて、私と同じように口を噤んだ。

「……その、また、お化け屋敷行こう」

 五分ほど沈黙を続けてから、切り出したのは諸伏のほうだった。私は顔を綻ばせて「もちろん」と頷いた。彼は肩を竦めると、軽い敬礼をして踵を返す。

 あまりにあっさりしていたけれど、思えば三か月すればここに戻ってくるのだから。私は今一度宿舎を振り向く。彼の後姿はあまり特徴がなくて、他の生徒と混ざると見つけづらい。けれど、やっぱり予想通り、降谷の横に丸っこい頭を見つけた。降谷といると、まるで子どものように歯を見せて笑うのを知っている。今の彼もそうなのだろうか。


「またね」


 私は届かないだろう声を、その丸っこい頭に投げかけた。
 この言葉を伝えておけば良かった。感情のままに生きてみれば良かった。生涯を貫くような後悔を一年後になって知るのだが、それはまた先の話である。


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Shhh...