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 薄っすらと暮れる陽ざしに反射する携帯を、軽く持ち直した。
 新調した自分用のグレーのスーツに掛かった髪の毛は、残った夏の暑さに蒸れて、軽くクリップで捻り上げておいた。よれた化粧は直したつもりだけど、厚塗りになってはいないだろうか。鞄から取り出したコンパクトを覗いた時だ。

「よっ」

 ――カシャン
 後ろから掛かった声に、私は動揺してコンパクトを取り落としてしまった。
 アスファルトにぶつかった鏡が、無残な叫びをあげる。私はそれを見送って、それからゆっくりと声の持ち主――この度の幹事だ――へ視界を持ち上げた。彼は学校に通っていた時よりも、少し伸びた髪を軽く掻き上げてから、口元を引き攣らせた。
 私はみるみるうちに不機嫌になった顔つきで彼を見上げると、思い切り彼の革靴を踏みつぶした。ぎゃあっと駅構内に響いた大きな声に、数人が振り向いたが、やがて興味を失くしたように再び日常が流れ出した。




「ごめんって〜。今度新しいの買ったげるよ」
「ハ〜……陣平、言ってやれ。金じゃ心は買えないって」
「機嫌は買えるけどな」

 こいつ、と私は松田の手の甲の皮を軽く抓った。
 彼は一瞬ぱっと携帯を離したけれど、すぐに面倒そうにこちらに視線を向けた。警察学校を卒業し、丁度一年と少しが経つ。本配属が決まり三か月ほど、ようやく今の仕事に足がついてきた感じだ。こうして、同期たちと食事をする余裕もできるくらいには。最初の一か月は返ったら即寝てたので。
 松田と萩原は、言っていた通りにそのまま機動隊への配属になった。他の者は大抵が交番勤務なので、彼らが異質なのだ。その訓練は相当厳しいらしくて、特に松田など未だ舐めくさった態度をしているけれど、体つきが一回りほどガタイよくなったように感じる。

「お、もう揃ってるな」
「悪い。遅くなった」

 続くように個室の扉を開けて、顔を出したのは伊達と諸伏だ。彼らは同じ署に所属されたらしく、顔を出すときは大抵同じタイミングだった。伊達はジャケットを羽織らずワイシャツにネクタイだけを締めていて、さながら会社の重役だ。

「伊達班長のネクタイ渋いっすね……」
「ほんっと。とても巡査には見えないわぁ……」
「あはは、班長、この間先輩に敬語使われてたもん」

 諸伏が肩を竦めながら席についた。ちょうど私の斜め前の席だ。私は机の下でガッツポーズを握ると、隣に座っていた萩原がふっと可笑しそうに笑った。
「……あんだよ。器物破損の萩原は文句あんの」
「二つ名みたいにしないで、ごめんって言ってるじゃん」
「なに、どうしたの」
 面白いことを嗅ぎつけたように、その猫に似た顔つきがずいっとこちらに近づいた。少しウキウキとしているように見えて、可愛い。私よりも少し濃いグレーのジャケットは、そのスッキリとした顔つきによく似合っていた。少しだけ鼓動がドキリと鳴った。

 私がその顔に言葉を失っている間に、一杯目の飲み物とツマミが運ばれてきた。私もつい先日、二十歳の誕生日を迎えたので、めでたく合法的に酒の席にいることができる。――のだが、何故か私に回されたのは大きなジョッキに注がれたオレンジジュースだった。

 注文をしたのは、確か萩原だったと思う。みんな生で良いよね、と確認をしていたように記憶しているのだけど。
「だって百花ちゃん、酔うとロクなことにならないから……」
「俺も飲まない方が良いと思う」
 と、諸伏まで苦笑いして言うものだから、私は過去を思い返して少し申し訳なく身を縮こまらせた。しょうがないので、飲むのは家くらいにしておこう。同期たちとグラスをぶつからせて、心地よく音が響いた。

「あれ、今日は鈴奈ちゃんいないんだね」
「鈴奈は今日当番だからね。萩原は?」
「今日は公休。陣平ちゃんもね」

 ちら、と松田のほうを見ると、彼は「おー」と気だるげに相槌を打った。それから、すっと私のほうに大きなジョッキを差し出した。はてと思いながらジョッキを見つめていると、彼は「一口くらい飲めば」と視線も寄越さないままに言うのだ。

「じ、じんぺ〜……」
「だっ、その声やめろ。成人祝いだよ」
「成人祝いが生一口は、やっすいなー」

 そう思いながら、まだ冷えていて水滴を浮かせたジョッキに手を付ける。ごっくん、と大きく喉を鳴らして飲むと、蒸すような暑さもどこかに吹き飛んでいくようだ。ぷはっと大きく息を吐くようにジョッキから口を離したら、松田は鼻で笑いながら「飲みなれてんな」と言った。
 この世界でビールを飲むのは初めてだったが、これはクセのようなものだ。ビールは大好物だったから。そういうわけじゃないけど、と名残惜しくジョッキを返すと、彼もゴクンゴクンと出っ張った喉ぼとけを大きく鳴らした。

「ゼロはまた来てないのかよ」
 飲み終わった後に、松田は少し拗ねるような口調で言った。
 ゼロ――諸伏が使っていた、降谷のあだ名だ。松田や萩原も、時折彼の本名と混ぜるように使うことがあった。初任補習科で学校にいるときも、そのあと実地研修がある間も、彼は案外こういった集まりに顔を出していた。表向きはヒロがいくなら」だったけれど、同期の前だと少し澄ました顔が和らぐのを知っていた。
 彼がこういった場に顔を表さなくなったのは、本配属が決まってから――。時折、こちらが送ったメールにぽつぽつ返信は来るけれど、顔を合わせたのはずいぶん前な気がする。

「大丈夫、元気にはしてるよ。少し忙しいみたいだ」

 フォローを入れたのは諸伏だった。
 彼も少し寂し気に眉を下げていた。ぐいっとジョッキを呷ってから、やや気まずそうにしている。
「まあまあ、降谷ちゃんって昔から優秀だったし? 陣平ちゃんはマブダチだったから、あいつがいないと気に入らないのは分かるけどさ。俺もいるし元気だせって」
「だあれがテメーとマブだって?」
「いやいや、マブっしょ。ちゅーしよ」
 少し酒気を帯びた顔が、私の背後を通って松田のほうに唇を突き出した。ここ最近の飲み会で分かったことだが、萩原は酒に強いほうではない。ただ、自分の飲むペースを分かっているので、楽しく酔えるタイプの酒飲みだ。今も酔った風には見えるが、気まずそうにした諸伏を庇いたかったのだろう。

「まあ、寂しいよね。こういう時に気持ち悪いなって一蹴してくれないもんなあ」
「それ、ゼロに伝えてやって。勝手にやれって言われるよ」

 諸伏が揶揄うようにケラケラと笑ったので、私もつられて笑った。折角なので、今の会話を降谷にメールしておこうと思って携帯を開いた。すると、ひょいっと私の携帯が掠め取られる。
「貸せ、俺からも打ってやる」
「えぇ、じゃあ俺も」
 と、松田と萩原がそれぞれカコカコと何かを打ち込む。それを回すように伊達と諸伏も、それぞれ降谷の連絡先を知っているはずなのに。最後に戻ってきた携帯の画面には、彼らのメッセージがそれぞれ打ち込まれていた。

「……諸伏が食われるって書いたの誰だよ、絶対松田だろ!」
「うるせえ、酒がまずくなんだろ」

 松田は、意地悪そうにその口角を持ち上げたのだった。

『 諸伏が食われる はよ
 陣平ちゃんがなきそうです
 メシ食えよ
 助けて! 』

 助けて、と打ったのは恐らく諸伏だと思うのだけど、これは私に食われるという文に対してだろうか。ちょっと拗ねたようにそちらを睨んだら、諸伏は悪いことをした子どものように軽く歯を見せて笑ったのだった。
 私は最後の分に、ひっそり『皆寂しがってる。がんばって』と付け足して、降谷のメールアドレスに送信しておいた。

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Shhh...