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 少年は、それから毎日のように交番にやってきた。餌付けした野良猫のように、顔をだすと「高槻さんいる?」と尋ねていく。相変わらず名乗りはしなかったけれど、おかげで彼の新しい怪我だとか、栄養状態は把握することができた。

 署長は相変わらず私の顔を見ると叱りつけるようになったけれど、香取だけは「どうしてああしたんだ」と理由を尋ねてくれるようになった。
 ――例えば、保護をされたとして。その先にあるのは、俺や夏乃と同じように、不器用な愛の繰り返しだ。きっと施設に入っても、同じように物を盗むし、今度は彼が指示をする側に立つかもしれない。だって、今まで十数年、そうやって生きてきたのだから。

 彼が犯罪者になるのは忍びなくて、なんて話すと、香取はその強面を顰めながら「それは生安課や、児相の仕事だよ」と諭してきた。まったくもって正論である。

 毎日のように顔を出すから、さすがに何か呼び名がないと不便で、二週間ほど経ったあと、私は彼に「何て呼ぼうか」と問いかけた。
 少年は、その特徴的なパッチリとしたどんぐり型の瞳をこちらに向けて、少し拗ねたようにパイプ椅子を揺らす。露骨に不機嫌になったのが分かったので、私は苦笑いをして首を振った。

「違う違う、あだ名とかないの? ボクちゃんとか呼ばれたくないでしょ」
「……シモン」

 シモン、諮問、指紋。外人の名前なのか、聞き馴染みのない発音だった。彼は細い腕をぷらぷらと宙に浮かせながら「前の飼い猫」と付け足した。その日から、彼の名前はシモンになった。
 
 ――シモンは俺とは違い、とても賢い子だった。見た限り中学生くらいだとは思うが、その年齢にしては一つ抜けた視線を持っていた。兄だという男が、シモンを使い走りにするのも、恐らく彼が人に見つからない術を身に着けているからだ。
 そうなると、やはり彼の兄を逮捕するのが一番だろうか。しかし、覚せい剤の所持および使用、家庭内暴行――懲役五年程度か。上から強要されたと訴えられれば、執行猶予がつくかも。未成年なら猶更だ。

 細い腕に青々と痣が浮かんでいるのを見て、私はその痣を親指で擦るように撫でた。
「痛かったでしょ。骨折れなくてよかったよ」
「……あのくらいじゃ折れたりしないよ。高槻さんの腕は綺麗だね」
「そうだね。あ、でも此処は小さいときにできた怪我のまんま」
 私はちらっと前髪を持ち上げて、額に一筋はいった傷跡を見せた。幼い頃に階段の角でぶつけて切ってしまい、痕が残ってしまったのだ。化粧をすれば分からないくらいだけれど、触れると周りの皮膚と感触が異なった。
 シモンは私の額を、細く深爪の指先で僅かに撫でて、「本当だ」と呟いた。


 その賢さといい、少し不愛想で気の強い喋り方といい、降谷が小さくなったらこうだっただろうか。否、彼ならもう少し喧嘩っ早かったかも。そう思えば、彼より少し大人びているかもしれない。
 ――外国人みたいな金髪に、焼けた肌の男。
 シモンがそう話した男は、きっと降谷のことだ。どうして私のもとに彼を行かせたのかな。どうして、メールが返ってこないのか。聞きたいことばかりが彼に募る。

「……高槻さん?」
「あ、ごめん。なんでもない……私パトロールに行くけど、シモンは?」
「じゃ、俺も学校行く」
「お、えらーい。行きにアイス買ってあげるよ」

 交番の裏に停められた自転車の鍵を持って、私は裏にいた上司に声を掛ける。シモンは学校に行くわりには手ぶらで、不真面目だなあと少し笑いながら、太陽に当たれば倒れてしまいそうな少年の横に立った。





「へえ……ゼロが、そんなこと」

 彼は向かいの机に腕を乗せて、何度か頷いてから考えるように視線を落とした。降谷について、やはり一番最初に話すべきは諸伏ではないかと思ったのだ。非番が被った日を見計らってメールを送れば、二つ返事で『良いよ』と返ってきた。

「うん。多分だけど……でも、私の知り合いでそんな人、他にいないし」
「ゼロのこともだけど、高槻さんも大丈夫? こっちまで話が回ってきたけど」
「マジか……。私の仕事じゃないってのは分かってるんだけどね」

 諸伏に仕事のことで心配されるのは、同期としてやや情けない。まさかそんな話が出回ってるとは予想外だったので、空笑いで誤魔化すと、諸伏は眉を下げながらも、優し気に笑った。

「いや、伊達班長はさすがの気概だって笑ってたよ。俺でもそうしたかもしれない」
「――嘘。諸伏くんだったら、もっとうまくやってるよ」

 諸伏だったら、もっと器用に済ませたはずだ。松田なら叱られても気にもしないだろうし、萩原だったら上司を乗せたかも。学校でも、警察は組織だと散々口酸っぱく言われたのだ。

「確かに、警察官は治安を維持し秩序を守る――そういう機関だ。けれど、俺は高槻さんのしたことは、言葉通り良心に従った=A正義のある行為だと思うよ」
「自分勝手、だったとしても?」
「結果的に彼を救えないなら、それは自分勝手だ。請け負ったからには最後まで、彼が安心できると思えるまで、君が付き合ってあげるんだ」

 諸伏の言葉は力強かった。語り口こそ穏やかでいつものトーンと変わらない彼の声色だったけれど、私が不安げに彼を見つめると、彼もしっかりと見つめ返した。

「それは、俺たちを救いたいといった、高槻さんにしかできないことだから」

 そして、ニコっとその口元がほほ笑む。ただの居酒屋の照明だったけれど、まるで彼の瞳を太陽が照らしているようだった。綺麗だ。彼の言葉を聞いていると、私が一人間であるのと同時に、一警察官であるのだと強く自覚できる。

「それに、ゼロも――きっとそう思ったから、高槻さんの名前を出したんだと思う」
「降谷くんが?」
「だって、考えてみろよ。その子の特徴はどう見ても虐待を受けた子に当てはまっていたんだろ。いくらなんでも、警察はそこまで無能じゃないぜ」

 確かに、彼の傷跡は特に隠された様子もない。私であろうと、他の上官であろうと、傷だらけのか弱そうな少年が追われるのを見て黙っていることもないだろう。きっとすぐに他課と連携を取り、彼を保護し、家宅捜査に入ったはずだ。
 それにも関わらず、降谷が私の名前を出したのだったら――託されたと思って良いのだろうか。何かの理由があって、自分が動けない代わりに、私を頼ったと思っても。

「う、うぅ〜……」
「え、泣いてる……泣いてる!?」
「だって、降谷くんがそうだって思ったら、嬉しく思えてきてさぁ……」

 姿は見せなくても、私のことを信用してくれたのだと思えた。メールは返せなくても、過ごした日々を忘れてなどいないのだと。
 諸伏くんは慌てたようにおしぼりを此方に手渡して、前私がしたように軽く髪の表面を撫でてくれた。本当に、髪だけを掬うような力加減が、彼のぎこちなさを感じる。私はぐっと込み上げた涙をなんとかおしぼりに吸い込ませて、それからフワフワと髪を撫でる諸伏の力加減に笑った。
 諸伏は、上手くできなくてごめんと苦そうに眉を歪める。私はスン、と一度鼻を啜ってから、大丈夫だと笑って見せる。彼は安堵したように一度肩を落として、それから思い出したように口角を持ち上げた。

「そうだ、俺らの署に回ってきた高槻さんの話……なんて言われたと思う?」

 諸伏は珍しく、少し悪戯っぽく、得意げに片方の口端だけを持ち上げていた。私が首を斜めにすると、手元にあったショットグラスを持って、中身を軽く揺らした。

「鬼塚教場がまたやらかした――、って言われたんだよ」

 その言葉一つで、同期たちのやんちゃぶりが目の前にいるように思い浮かんだ。自分まで風評被害を被っているというのに、彼の表情は至極楽しそうで、子どものような笑顔だった。

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Shhh...