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 日差しは夏よりも鋭く肌を刺すけれど、その痛みを秋風が掬うような季節。シモンが交番を尋ねるようになって、三週間が経つ。パトロールと一緒に学校まで送っていくのが、二人の間で暗黙の了解になった頃合いだった。どうしても時間は昼頃になってしまうけれど、それまで学校に行っていなかった様子を聞くと、十分だろう。

「見た? 今の子たち、スカート短ぁ」
「……なんで高槻さんが喜んでるんだよ」
「そりゃ、まあ。綺麗な脚見たら嬉しいでしょ」

 すれ違った女子高生を振り向きながら、シモンのほうに顔を寄せると、彼は少しうんざりとしたようにため息をついた。口元は、呆れたように笑っている。拗ねるような言動ばかりだった彼だが、ずいぶん柔らかな口調になったものだ。もう少し心を許してくれたら、彼に生活安全課のことを相談してみようか。

 自転車を引きながら、彼の通学路を並んで歩いていた。ちょうど商店街の通りを歩いていた時、路地で猫がにゃあと鳴いたのが聞こえた。シモンも「あ、猫」と足を止めたので、私もつられて足をとめる。音のほうを見ると、金色の瞳がこちらを警戒するように見つめている。
 ツンとしていて、瞳孔は丸っこくて、諸伏の瞳を思い返す。尻尾の付け根あたりをふりふりと振る動きに、つい力が抜けるように笑ったら、シモンは「駄目だよ」と咎めた。

「ん? なにが」
「猫。見つめちゃ駄目だ。威嚇してると思われるから。こうやって、ゆっくり瞬きして」

 数秒かけて瞬きをしたシモンに、向かいにいる猫は応えるようにふにゃふにゃと重たく瞬いた。おお、と感動して声を上げたら、猫は驚いたように再び目をパチリと開ける。呆れた視線が横から刺した。そういえば、シモンは前に猫を飼っていたと言っていた。だから猫の習性が分かるのだろうか。

 私は少し悔しくて、その場にスタンドを立てると、腰を屈めて猫のほうに指を差し出した。シモンはそれを見て、私の肩をぐっと下ろした。細く力のない指先だ。「もっと下、人差し指出して」、彼はぶっきらぼうにそう言った。

「本能だよ。猫は鼻で挨拶をするから……」
「へえ、すごい。なんでも知ってるね」
「うるさいなあ。静かにして、猫が寄ってこないだろ」

 彼の指示通りに、静かに座って待つと、確かに猫はこちらにぐっと首を伸ばして鼻先を近づけてくる。細められる瞳、警戒心が強そうな態度。シモンを二人息を潜めていると、後ろからシモンのものではない――大きく力強い手が置かれた。


「う、わっ!!」


 私は驚いて体を揺らし、手を警棒が携えられたほうへ引き返そうとした。もしかしたら、シモンを追っていた男かもしれないと危惧したのだ。その拍子に、どうやら驚いたらしい猫が息を吐くような威嚇音をたてて、私の手をバシっと叩き去ってしまった。引っ掛かるような痛みに手を引っ込めると、手の甲からじわじわと鮮血が滲んだ。爪が当たったらしい。

「ご、めん。大丈夫?」

 呆然と手の甲を見つめる私とシモンに、控えめだが聞き覚えのある声が話しかけた。背後を振り向くと、私たちを影にするような大きな体が、こちらに向かって屈んでいた。ベージュのジャケットを羽織った彼は、大きく垂れた目つきを「しまった」と言いたそうに歪めていた。
「あ、うん。ちょっと切れたけど」
「いや、なんかチョコマカやってるな〜って思って……あんなに驚くとは」
「今度刺激したら噛むから」
 手の甲を軽く擦りながら言うと、「猫かよ」と萩原はその大きな口を開けて笑った。手の甲の怪我くらい、警察学校時代に山ほどしたし、帰ってから消毒しようと適当に考えていた。猫が威嚇したのには驚いたけども。
 シモンは萩原のことを知らないから、少し吃驚させてしまったかもしれない。彼は当たりが良いし、中身も飄々として接しやすい男だけれど、体格は大きいし警官らしからぬ風貌をしているから。

 私は隣でしゃがむ少年に視線を戻し――そして、言葉を失った。ひどく怯えた表情で、私の手の甲をじっと見つめるシモンを見て、直感的にやってしまったと思った。私にとって交通事故が引き金のように、彼にも引き金がある。

「だ、だめ、ちゃんと消毒しなきゃ……」
「大丈夫、消毒するから。落ち着いて」
「だ、だ、駄目だって。し、しんじゃう、しんじゃうよ」
「死なない――大丈夫だよ」

 肩を揺らしても、彼は顔を真っ青にしてぶるぶると痙攣するように震えるだけだ。どうしたらいい、とりあえずこの場から離れたほうが良いだろうか。その小さな手を握って立ち上がろうとした――繋がった場所を、先ほども触れた大きな手が押さえるように重なった。

「……大丈夫。ちゃあんと消毒すっからな」

 言うと、彼は私の自転車に乗せた水筒の蓋を開けて、手の甲に掛けた。冷たく流れるスポーツドリンクに、赤く滲んだ血が薄っすらと色をなくしていく。それは消毒ではなかったけど、確かにシモンの震えはゆっくりとおさまっていくのが、繋いだ手から伝わった。

「ほーら、お姉さんは元気。猫チャンのばい菌もどっかいったよ」
「……うん」
「このお姉さんはね、お兄さんと約束してっから、そんな簡単に死なないの」

 彼はそういうと、「ね」とこちらに首を傾げて問いかけてくる。
 ――絶対に自分の命を大切にする。まだ生きてられるかもしれない時に諦めないし、少しでも生きられる道を探す
 いつだかも、彼はそうして手を重ねていた。私はそのことを思い返しながら頷いた。もしかしたら、泣きじゃくるシモンにあの時の私を重ねていたのかもしれない。彼は穏やかな声で「大丈夫だよ」ともう一度少年に優しく告げた。

 シモンは、その小さな肩を大きくしならせて深呼吸をすると、すくりと立ち上がった。
「……ごめん。学校、行ってきます」
 それだけ告げると、すたすたと早歩きで校門へと向かう。ここから二百メートル、あるかないかの距離だった。しかし、今まではピッタリと校門のすぐそばまで付き添っていた道だ。


「……ありがと、萩原」
「驚いた、あれが噂の隠し子くんかあ」
「誰が隠し子だっての」
「百花ちゃんのこと大好きなんだね」

 
 萩原は、ハンカチをこちらに差し出した。スポーツドリンクが掛かった手は糖分でベタベタとしていて、私は彼に甘えて差し出されたハンカチでそれを拭き取る。
 震える少年を見ていたら、やっぱりもっと上手なやり方があるように思えてくる。今のように、彼自身が歩みだせるような、そんな生き方を示してやれれば良いのだけど。

「そういえば、萩原は公休?」

 彼ら機動隊にはパトロールのような仕事はない。装備具も身に着けていないし(まず、仕事中だったら話しかけてこないだろうし)、恐らくプライベートなのだろう。このあたりは商店街と住宅が立ち並ぶ一画で、彼がまともに「このあたりのスーパーが安いから」なんて理由で訪れない限りは、立ち寄らないような場所だ。現に、深みのある赤色のシャツは、このあたりの路地には明らかに浮いている。

「そうそう。今日はお休み」
「へえ。誰かと待ち合わせ――彼女とか?」
「え、違う違う」
「良かった、伊達班長も松田も休みはイチャついてんだもんな」

 独り者で寂しくなるところだった、と笑うと、萩原は屈めた体を僅かにこちらに向けた。光に当たると、僅かに瞳の奥が紫色に煌めく気がする。長い髪をくしゃりと大きな手でまるめて、少し照れ臭そうにはにかんだ。

「だって、百花ちゃんに会えるかなーって思ってさ」

 会えたなあ、と彼は嬉しそうに大人っぽい顔を色づかせる。――ちかちかと目の前が眩むような目映さを覚えた。なんだよ、たまには可愛いことを言うのだから。

「で、実際会えた感想は?」
「相変わらずの美人ですね〜」
「しょーがない、今から上がったらラーメン奢ってあげるか〜」

 立ち上がって自転車のハンドルを握ると、萩原もまた続いて立ち上がり、「よっしゃ」と歯を見せて喜んだ。最近、ラーメンとハンバーガーしか食べていない気がするけど。まあ、美味しいからしょうがないな。近場のラーメンを調べる萩原を横目に、小さな音で腹を鳴らした。

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Shhh...