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 諸伏が姿を消してから、二週間。
 伊達からサクラのことは口外してはいけないと固く口留めされたので(――まあ、それもそうか)、表向きには諸伏は警察を辞職したことになっているらしい。同期たちの中でも、ああだこうだと憶測が飛び交ったが、結局は地元である長野に遠い親戚がおり、介護する人がおらず諸伏が引き受けたという話に纏まった。あまりに綺麗に収束した噂。恐らく、噂を流したのは萩原だ。

 鈴奈をはじめとした元班員や、萩原や松田たちは、私のことを気遣ってか非番や公休になると頻繁に外出を誘うようになった。松田にいたっては彼女がいるのだから遠慮すればと思うが、彼らといるのはつい心地よく、断りそびれてしまう。
 気づけば風が冷たく枯葉を揺らす季節になっていて、汗ばむような気候も少なくなった。冬樹の裁判が終わり、一時的に東都内の施設に移動すると聞いたので、今日はその施設に行く予定だ。

 養護施設にこうして出向くのは、少し懐かしい気持ちだった。かつて訪れたのは妹だったので、何を手土産にしたら良いのか分からず、とりあえず無難な水菓子を買っておいた。今の季節には少しミスマッチだったかな。そうは思うが、彼の好きなものなどアイスくらいしか知らなかった。

 買い物を終えてスーパーの駐車場に出ると、軽くクラクションが鳴らされる。私が振り向くと、運転席から軽く手を振る姿が見えた。萩原だ。施設が都会から少し離れた場所にあるので、車を持っている彼が声を掛けてくれたのだ。
 派手な赤い外装――マツダのロードスターだ。昔よくカタログで眺めていたが、本物を見るのは初めてだった。派手な彼女を乗せてオープンカーを乗り回す萩原を想像したら、少し面白かった。

「何笑ってんの」

 ドアを開けて低い座高に乗り込むと、萩原がニヤニヤとしながら声を掛けてきた。
「いや、児童養護施設にこの車乗り回していくのかーって思って」
「あちゃ、確かに。そりゃ考えてなかった」
「嘘つけ。本当は子どもに見せびらかしたかったんでしょ」
 シートベルトを締めながら、私も同じように口角をニヤニヤとさせて彼を見遣る。すると萩原は、少しだけバツが悪そうに鼻の頭を掻く。
「ま、いい車だからね。親父のだけど」
「そうなんだ。お父さんも車が好きなの」
「元は経営者だったから……。俺も結構弄るの好きでさ」
 東都のなかでも目立つ赤い外装は、外から見たらさぞ格好いいだろうと思う。そういえば、学校の時も何があったのか、RX7を操縦するところを見かけたっけ。今さらなことだったが、その時の話を尋ねてみたら、萩原は苦笑いしながら武勇伝のように語ってくれた。
 
「へえ……トラックが……。そんな危ないことしてたんだ」
「正直百花ちゃんが倒れた時はビックリしたんだよね。しまった、女の子にショッキングなもの見せちゃったかな〜って、結構焦ったんだよ」

 そう語る彼の車のシートからは、メンソールの煙草の香りがする。それほど前のことでもないのだが、懐かしく思えた。諸伏が血相を変えて駆け寄ってくれたことも、萩原の前で号泣してしまったことも――。それから萩原と、少し仲良くなれたような気がしたことも。

「萩原って、意外と涙脆いほう?」
「え……ん〜。そんなことないけどな。昔から映画とかでも泣かないほうかも」
「へえ。じゃあ、あの時泣きそうになってたのってレアシーンか」
「ちょっ……言わないでよ」

 私が泣いた時につられて涙ぐんだあの表情を、今でも覚えている。置いていかれるのは辛いのだったと、悔いるようにぼやいていたこと。それまで飄々とした男だと思っていた印象の心の根を垣間見たような気がしたのだ。

「あの時さあ……最初百花ちゃんが泣いたのは、事故現場がショックだったからだと思ったんだよね」

 赤信号を眺めながら、彼は片手で薄く大きな自身の耳たぶを、ふにふにと弄った。正直、否定はできない。夢の中の出来事と重なってしまって、パニックになってしまったのだ。あの時まで、まさか事故がトラウマだと自覚すらしていなかった。私は気まずくて、彼の言葉に返事を返せないでいると、萩原は間延びした口調のまま続けた。

「でも――……俺の前で泣いた時は、確かに俺のことで泣いてくれてただろ。死んだかと思った、って。命を大切にするって約束までしてさあ」

 彼はいじくった耳たぶを軽く指できゅっと摘まんでから、肩を上げて照れ臭そうに笑った。

「人のために、あんなに泣けるなんてすごいなって尊敬したんだ。結構マジメにな」
「……分かる気がする。目指してる警察官が、そうだからなのかも」

 萩原は少し驚いたように視線をこちらに寄越して、私も照れくさくて窓の外を向いたら、苦笑いして窓を開けてくれた。全開にして走るには、少しだけ寒いような風が肌を刺す。

「俺さあ」
 萩原が切り出した言葉に、運転席のほうを振り向いたが、彼もまた長い髪を僅かに靡かせながら、ゆるゆると首を振った。「なんでもねえわ」、とほとんど風に溶けるような声色が言った。
 




 施設は、思ったよりもこじんまりとした規模で、僅かに山道を登った先にあった。近くには地元のスーパーや、陶芸家のアトリエがぽつぽつとあるような場所で、小学校からは子どもの声が明るく響いていた。事務所側から、名前と要件を話すと、施設の職員が軽く礼をして挨拶をしてくれた。
「冬樹くん、すごくいい子にしてます。今は宿題の時間なので、もう少しお待ちくださいね」
「ありがとうございます。元気そうなら安心しました」
「はい、とっても。その前の環境も聞いていたのでどうかなと思いましたが……予想していたよりずっと前向きで、驚いたくらいです」
 優しそうな四十代くらいの女性で、彼女はニコニコと私と会話を交わしてから、ちらっと萩原のほうを一瞥する。明らかに視線が「誰だ」と語っていたので、私は軽く肘で萩原を突いた。

「あ――っと、警視庁の萩原研二巡査です」
「ああ、同僚さんだったんですね。すみません、旦那様かと思って……」

 萩原は、職員に向けた警察手帳を手元から滑らせた。旦那って。私は少しツボに入ったのを、さすがに笑うのはまずいと斜め上を眺めて堪えた。出されたコーヒーに口をつけて暫く会話をしていると、女性職員は他の職員に呼ばれて、「すみません、少し」と部屋を外した。

 萩原のほうをチラリと見遣ったら、ちょうど彼もこちらに視線を向けていて、私たちは顔を合わせて息を漏らすように笑った。あまり声を出しては失礼だと思ったので、互いにクククク、と喉を鳴らすような笑い方だった。

「私、そんな歳に見えた?」
「いや、そんなことないけど。スーツ着てると大人っぽいのかもね」

 訪問だからと思って、新調したスーツを着てきたのだが。思えば、萩原のスーツとやや色が被っていたからか――? それにしたって、夫婦で訪問するような警察はいないと思うけれど。

「長年の勘かね〜……」
「え、どういうこと」
「俺も若かったからじゃない? 同僚で来るなら、大体上官と来るもんでしょ」

 なるほどね、と私は納得して頷いた。確かに、萩原は指導係として組めるような上官には見えないだろう。
「ていうか、そのスーツ新しいヤツだ」
「あー、いつもスーツで出勤しないからね。いつか異動になったら使おうと思って」
 似合ってる、と言ってくれた萩原に、私は笑った。たぶん、顔は引き攣っていなかったと思う。諸伏に見せたくて今までおろしていなかったけど、意味がなくなったから。とは言えなかったからだった。

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