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「高槻さん!」

 顔を合わせた冬樹は、その丸い人懐こい瞳を輝かせてこちらに駆け寄った。前見た時よりも少々ふくよかになっただろうか。驚くほど細っこかった手首が、角ばった印象を僅かに消していた。その顔色を見る限り、どうやら生活に問題はないようだ。
 シモンと呼びかけて、私は咳ばらいをして名前を呼び直す。それを聞いて、冬樹はひどく擽ったそうにしていた。

「東都の中だと、もしかしたらまた兄貴たちに会うかもって……しっかり話をしたら、担当してくれた警察官の人が色々考慮してくれたんだ。戸籍とか調べられないようにして、少し遠くの施設に行くんだって」
「そっか。じゃあまた引越しなんだ、大変だね」
「良いんだ。信じられない人ばっかりじゃないって分かったから――俺なりに、信じられる人を探してみるよ」

 冬樹は私が支えるようなこともなく、少年らしく、しかし真っ直ぐに笑う。もとから賢い子だ。彼がうまく前を向く支えの一端を担えたなら、それで良いと思った。
 それからは、殆ど愚痴のような他愛ない世間話だった。今までサボっていたせいで勉強がまったく分からないだとか、新しい施設に行ったら広い土地があるらしく、サイクリングでも始めようかとか。
 とにかく彼の話には未来があった。これからどうしよう、と今から先を見据えていた。職員が、冬樹を前向きだと言っていたのが理解できる。

 暫くして、職員が冬樹を呼びに来ると、その丸っこい目つきが私のほうを見上げた。今までキラキラと前だけを見据えていた瞳が、少しだけ影を落としてニコっと笑う。

「……だから、心配するなよ。俺はうまくやるから。俺の人生だからさ」

 ――冬樹の言葉に、ドキっとした。私が、もっとうまくやれたのではと危惧していたのを、すべて見抜かれていたように思う。前世を合わせれば何周りも離れた少年に見抜かれたのは少し恥ずかしくあるけれど、前世があったからこそ冬樹のことを気に掛けれたのだと思う。それには感謝しなくては。

「うん。またそのうち手紙書いて、遊びに行くから」
「わかったよ。そっちの兄ちゃんもありがとう、前は助かったから」

 冬樹が萩原のほうに向きなおって頭を下げると、萩原も間延びした口調で「いえ」と言った。

「あと、俺のことを助けてくれたあの兄ちゃんにも。ありがとうって言っておいてほしい」
「――うん。分かった」

 一瞬失った言葉を、なんとか言いなおす。ありがとうと言えたら、良いのだけど。うまく取り繕った表情だけは、きっと重ねた年齢の賜物だ。

「……冬樹って、名前。良い名前だよ。大事にして」
「だろ、母さんがつけたんだ。冬に生まれたから冬樹だって――笑っちゃうだろ」

 嬉しそうに、幼さの残る頬を僅かに染めて彼は笑っていた。諸伏が夏乃のことを語っていたことを思い出した。夏に生まれたから、夏乃だと。もしかしたら、彼らは姉弟なのかもしれない。そうは思ったが、敢えて前を向く冬樹に言わなくてもと、そっと口を噤んだ。いつか彼らが、互いに受けた傷をかさぶたにできる日があれば。そのクリクリとした丸い目と視線を合わせて、私も笑った。





 冬樹が部屋に帰ってから、少しの間担当してくれた職員と話をした。彼の今後の個人情報は丁重に扱うので、すぐには連絡ができないかもしれないらしい。私もそのあたりについては学校で学んでこなかったので、なるべく細かいところまで把握しておきたかった。気が付くと冬樹と別れてから一時間ほどが経っていて、いつのまにか空気を読んで退室してくれたらしい萩原を探しに行く。

 都築というらしい職員に頭を下げ、駐車場に向かうと、恐らく小学生あたりだろう子どもたちが派手なロードスターにわらわらと群がっていた。

「すっげー、次は俺乗せて―!」
「ずりい、次は俺って言ってた!!」

 ひょっこりと運転席から大きな図体を覗かせた彼は、一人の少年を抱えて楽しそうに笑っている。どうやら順々に、自慢の愛車の運転席を体験させてやっているらしい。少年たちはスポーツカーのような見た目と、そのしっかりとしたハンドルを握って嬉しそうに目を輝かせている。

「わぁかったから。焦りなさんな。ほおら、おいで」

 俺だ、俺だと先急ぐ子どもたちを、大きな図体はひょいっと抱いて運転席へ座らせる。順番が来ず寂しそうにしている、体格の小さな少年を萩原は抱きかかえた。常に口角を上げている口元を、ニヤっとさせてから、ぐるんっとその場で一回りしてみせる。彼は警察学校にいる中でも頭が一つ他の生徒から抜けていた長身なので、子どもからしたら宙を浮いているような気持ちだろう。


「君には特別な車をあげよう、ケンジ トゥエンティートゥー」
「ぶふっ」


 あまりに不意打ちすぎて、思い切り噴き出してしまった。なんだ、それ。ゴルゴみたいな言い草だ。22が年齢だと気づいたのは、萩原が私のほうを振り返って、ニヤけた顔を固まらせた時だった。男にしては白い肌がカーっと赤く染まっていくのが、少し離れた位置からでも見えた。
 その間にも少年が「行け! トゥエンティートゥー!」と指をさして叫ぶものだから、私はもう我慢できなかった。腹を抱えて思い切り笑ってしまう。 

「あは、あははっ、トゥエンティ……ふふ」
「そう笑うなってぇ……」

 ひとしきり笑ってから、萩原は頭を掻いて少年の体をぽすっと地面に降ろした。彼らはまだ萩原に構ってほしそうに、長い脚元をうろうろとしていたけれど、萩原が「また今度な」と笑えば、聞き分け良く遊んでいた宿舎に帰っていった。素直な子たちだ。微笑ましくその小さな頭たちを見送ると、萩原が助手席の扉を開けてくれた。

「あ、ごめん。ありがとね」
「いえいえ。お嬢様の言いつけなんでね」
「誰がお嬢様だよ……」

 トゥエンティートゥーめ、と一言余分に言い返すと、萩原はまだ恥ずかしそうに眉を歪めていた。こんなに思い切り笑ったのは久々な気がする。冬樹のこともあって、気持ちがスッキリとしていた。空も薄く長い雲を裂くように夕空を広げていた。

「子ども、好きなの? 慣れてるよね」
「そうでもないさ。高校の体験学習で保育園行ってただけ」
「へえ〜。じゃあ元から好かれやすいかんじなのかな」

 確かにもとから朗らかではあるが、彼の印象はどうしても軟派な男だったので、あんなにも打ち解けているとは思わなかった。子どもは賢い。私が子どもだったころ、本気で遊ぶつもりのない私のことを察していた子もいた。言動とか、そういうのではない。きっと雰囲気や、子どもならではの勘が働くのだ。

「子ども嫌いに子どもは寄りつかない、ってね」
「俺が子ども好きって? 本当に思う?」

 揶揄うようにくつくつと笑う横顔は、わざと悪ぶる子どものように思えた。きっと、好きなんだろうなと私にも伝わる。

「……良いな」
「ん?」
「萩原の子どもだったら、幸せそうだな〜と思ってさ」

 車窓から、通り過ぎる木々を眺めながら私は笑った。彼が父親だったら、きっと最後まで愛してもらえるのだろうな。時には悪友のように、時には宝物のように。今の人生の父親はとても良い人だ。それでも、脳の中にこびりつくのは前の父親だった。愛をあれだけ与えてもらっても埋まらないくらい、大きな穴だ。

「どうだろうね。百花ちゃんみたいな子どもだったら、一生嫁に行かせないかも」
「それは想像できる」

 あはは、と私は声を上げて笑った。夕陽が綺麗だからと、萩原は少し遠回りをしながら自宅までハンドルを握る。そういうところは気障な男だなあ。こう毎度臭い台詞を言われては、将来彼の嫁になる人が大変そうだ。風に靡いた前髪から、キラキラと揺れる波のような瞳が覗いていた。

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Shhh...