66


「クリスマス、ですか?」

 出勤後、香取に真っ先に聞かれた単語は耳を塞ぎたくなる文句で、私はうんざりとしながら聞き返した。十二月に入ると、街中はクリスマス一色。どこを見ても鮮やかな赤色と、ベルの音が響くような季節だ。
 そりゃあ、私だって用事の一つや二ついれたくはあった。去年のクリスマスは仕事詰めだったし、今年は非番の日だったので夜くらい諸伏と過ごせたらと思いもした。頭に渦巻く考えを遮るように、香取が「用事あんのか」と食い下がるので、小さなため息とともに首を横に振った。

「ないです。ありません。どうせ香取さんもないでしょ」
「お前なあ……俺は仕事なんだよ。し、ご、と」

 私はハイハイと聞き流しながら、壁に掛けられた新聞社のカレンダーを一瞥する。――あの時松田は、萩原のことを一方的に忠告すると、それ以上彼について言及することはなかった。真偽は別として、本当に萩原のことを考えて言ったのだと、それだけは確かだ。いい加減で規則にはルーズだが、根っこは正義漢で友達想いな男だから、冗談ではないことは分かる。

 ちょうどそんなことに頭を悩ませている真っただ中だった。萩原からの一通のメール――クリスマスイブ予定を聞かれて、私はドキリと体を強張らせた。松田も香取も、あんなことを言うからだ。心を落ち着けてからメールを開けば、数人の恋人がいない同期が集まるから一緒にどうだ、という内容だった。ほら見ろ、別に下心などないじゃないか。私は遠くにいる松田に、勝ち誇るように笑みを浮かべた。

『寂しいもの同士どうですか』

 という文字につけられた、涙を流すような顔文字が、いやに萩原の顔に重なった。本当にこんな顔をしていそうだなあ、とTの並ぶ目を見てクスリと笑う。

 香取に機嫌よく「予定できました」と言えば、彼はその強面を絵に描いたような愕然とした表情に変えて、それから一日はずっと「女って……」とぼやいていた。





 仕事を終えてから、折角なので一度寮に戻り着替えをした。いつもであれば通勤着のまま向かうところだが、今日くらいは洒落こんでもバチはあたらないだろう。いつも着るものとは違う、上半身シルエットのすっきりとしたVネックのツイストワンピースだ。少し背伸びをしただろうか、と揺れるピアスをつけながら鏡と睨みあったが、似合ってはいるので良いかと思いなおした。

 ティントの上から、いつもよりグロスは多めで。伸びた髪は後れ毛だけを覗かせて、他はクリップで上に捻り上げた。
「うん、クリスマス仕様っぽいじゃん」
 会いに行くのはただの同期たちだけど――というのは見ないふりをしておいて、私は目の前の出来に満足し、何度か深く頷いた。鈴奈たちに会うのも久しぶりだ。機嫌よく、私は目的の居酒屋へと足を向けた。





 すでに定番の部屋になりつつある、角の大部屋に向かうと、十名少しの同期が酒を呷っていた。当番に当たった者は参加していないと思うと、中々涙ぐましい独り者率だ。当然のように伊達と松田がいないことに、悔しさは感じる。

「お、高槻今日は女っぽい!」
「いつも女なんだよ、バカ」

 仕切りをあけた瞬間に飛ばされた野次に笑いながら返して、私は酔っ払いたちの隙間を縫い鈴奈の隣に座った。鈴奈も、今日はいつもより少し大人っぽいセットアップで、切れ長の瞼に引かれたネイビーのアイラインが綺麗だった。二人で「今日可愛い!」と互いを褒め合いながら、今日最初の一口を味わった。

―――
――


 鈴奈は、学校時代に飲んだ頃よりも多少は自制が効くようになったようで、明らかに以前よりピッチが落ちていた。しかし他の同期から『最近気になっていた彼』の話題を振られると、うるうるとそのクールな目元に涙を溜めて、そこからはもう駄目だった。教場の男たちが皆沈黙するほどに酒を浴びるほど飲み、あんな奴とぼやく。
「結局ね、私のことなんて見てなかったの。私のことなんてさあ……」
 ぐすぐすと鼻を啜る姿に、酒で緩くなった涙腺から涙がポロっと零れた。その細い肩を抱き寄せて酒を呷る様は、傍から見れば相当な酔っ払いだっただろう。


「百花ちゃん、鈴奈ちゃん、こっち」


 抱きしめた肩の体温が大分熱くなったあたりで、大きなビール用のジョッキに注がれた水が差し出された。私たちは二人揃って、冷たい水を喉に流し込む。ぼやけかけた視界が気持ち程度にスッキリとして、私は差し出された大きな手もとを辿った。

 卓に肘をついて苦笑いをしている萩原は、以前見た時よりも伸びた前髪を軽く掻き分けた。切らないのかな、髪の毛。鬱陶しそうに鼻筋に掛かった髪へ指先を伸ばすと、弾かれたように萩原が顔を上げた。触れた髪は、冷え切った指からすれば暖かかった。サラリ、と指を逃れるように流れていく。

「萩原あ……」
「あーあー……駄目だこれ。だから強いのばっか飲むなって言ってるでしょうに」
「飲んでねーよ、ふつうのしか……」

 私はむっと眉を吊り上げる。少しばかり頭のなかの考えは纏まりづらいが、飲みすぎる前に制止が掛かった所為か、いつもよりはハッキリとした意識を持っていた。たいてい、飲んだ時は三杯あたりから記憶がなくなるのだが。(――近頃は、いい加減自覚してきた。前世の自分とは体質が違うらしい――)

「ほら、お水いっぱい飲みな。また後から気持ち悪くなっちゃうから……」
「ありがとぉ〜……。ありがとね……うん、ありがとう……」

 ごくごくと喉を鳴らしながら、私は彼に礼を述べた。萩原は一度きょとんとしてから、何故だかくつくつと喉を鳴らし始める。人が礼を言っているというのに、馬鹿にしたように笑うだなんて、ひどい男である。

「ひでえ男だ……萩原はひでぇ男」
「えぇ……? 寧ろ優しいでしょ。こんな男中々いねえよ」
「ひどいよ、男なんてみーんなひどいモンだ……、どーせ最後は夢がだいじだって、どっかいっちゃうんだ」

 男も女も関係ないかもしれないが、これはとある個人に対する愚痴なので、男で良いのだ。冷たい机に突っ伏すように項垂れると、大きな手が私のセットした頭を柔く撫でた。――はいはい、そうだね。なんて、軽く慰める手つきが優しい。

「もろふしくんはさあ、私のこと好きだったのかな」

 ぎこちなく、指先の固い皮が額を掠める感触が恋しかった。萩原はピクリと指先を跳ねさせて、それから息をつくように柔らかく笑った。

「――そりゃ、そうじゃない? 俺から見ててもそう思うよ」
「ほんと? じゃあ、好きだけど捨てちゃったのかあ〜。チューしても駄目かよ〜……」
「ちゅー、したの」

 驚いたように強張った声色に、私は僅かに首を傾げて「したよ」と答えた。振り返った萩原の表情は、明らかに驚愕の色が滲んでいて、私はもう一度反対側に首を傾ける。あれ、言ってなかったっけ。言ってなかったかもしれない。

 ああ、そうか。萩原は確か、私のことを好きなんだとか、松田が言っていたような気がした。そんなわけがないのに。松田もたまには面白い冗談を言うもんだ。それを思い出したら面白くなってきて、私はフフフと思い出し笑いをする。

「ふふ、萩原って好きな人いるのかあ」
「どこ情報だよ、それ。も〜……、折角綺麗にしてんのになあ」

 私の襟元をぐいっと直しながら、萩原は苦笑して、私と目線を合わせるように腕に顔を凭れさせた。二人して視線が机と並行になっていたので、なんだか変な気分だ。世界の向きが変わってしまったようだと思った。
「私、きれい?」
 ニヤニヤと尋ねると、萩原は「口裂け女じゃん」だなんていうのだ。やっぱりひどい男だ。私が口を歪ませて反対を向こうとしたら、まるで赤ん坊の寝返りを止めるように、突っ伏した腕が軽く掴まれた。

 しょうがないなあ、と呆れた笑顔。その微笑んだままの厚い唇は、くらくらとする額へと落とされた。私の最大の誤算は、驚きのあまり意識がハッキリと戻ってきてしまったことだ。ぎょっとして額を擦るように指を持って行くと、私以上に目の前の男が、唇を緩く開けたままゴクリと喉を鳴らしていた。

prev さよなら、スクリーン next

Shhh...