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 頭が痛んだ。警官の手から渡された紙切れ一枚を、俺はただ茫然として眺めていた。映画を観る前に立ち寄った店で、妹がペーパーに書きなぐっただけの落書きだ。遺書でもなんでもなく、あの映画の人物像だけが描かれている。こんなもの、と思った。こんなものが残っていたってしょうがないのだ。俺はアイツがいなきゃ、映画なんて観ないし、アイツがいなきゃ話をするような奴もいないのに。
 そう思ったが、涙が零れたそのヘタクソな矢印を捨てられなかった。握りつぶすこともできなくて、ただ大切に、飛んでいきそうな紙っぺらを両手で押さえた。

『――! ――!!』

 妹の名前を何度も読んだ。警官は隣で、ただ涙を流す俺を見ていたような気がする。ショートヘアの女性警官だ。何か見覚えがあるような――他人事のように夢を見ていた私は思った。

 夢は反転する。それまでの記憶をかき混ぜるように、思い出したいものを掘り返すように、部分的な記憶を映しては消え、映してはまた消えた。両親の愛を求めていた記憶、妹を失いすべてを諦めてしまった記憶、家を出た解放感と寂しさに焦りを覚えた記憶――。

『――さん』

 スクリーンの向こうにいる、金髪の青年の記憶。思い出せ、思い出せ、思い出せ! 夢だというのに、頭が割れるように痛んだ。塞いでいた穴が、無理にこじ開けられるような。私≠フ意思がそれを拒んでいるような。


 俺はスクリーンの向こうで、何を見ていたのだろう。





「――ッは」

 無意識に力んでいた背中や腕が攣るように痛んだ。頭を押さえながら目覚ましを止める。頭痛には慣れていたと思ったが、ここ最近激しくなっているような気もした。

『あんまり眠れなかったら、電話して――』

 ふと、諸伏の優し気な声色を思い出した。頭の奥からじわりと染み出るように、涙の膜が浮かぶ。電話なんて、できないくせに。と僅かに湧いた怒りすら、自分へのいら立ちに変わった。

「……っあ〜! 駄目だ、うん。駄目」

 なんだか未練たらしくて面倒な女になってしまったようで、私はぶんぶんと首を振った。いつまでも諸伏の選んだ道を、一方的にああだこうだと言っても仕方がないのだ。これは私ではなく、彼自身の人生なのだから。

 私は出勤着に着替えながら、昨夜眺めながら寝落ちした携帯を確認する。松田から貸した漫画を返せと催促のメールが入っていて、私は返信を済ませると簡単な朝食を摂り、寮を出た。諸伏の作った食事が、無性に恋しいと思った。



―――
――


 日が落ちると肌寒い気候に、ストールを羽織ってなじみのある扉を抜けた。嫌いではない騒音がガチャガチャと響いていて、私はその中からひときわ目立つ真っ黒なシルエットに駆け寄る。どん、と勢いよく背中をどつくと、不機嫌そうに癖毛が振り向いた。
「お前、力加減ねーんだよ」
「松田だって私に加減しないでしょ。はい、漫画」
 トートバックを渡すと、彼はそれを受け取って律儀に中身まで確認していた。どれだけ信用をしていないのだか、と思ったが、実は一ページ寝落ちてしまったときに折れたページ端があった。バレてはいないようだが、もし言及されたら素直に謝っておこう。

 どうせ来たのだから一回くらいやっていこうかと、いつものレーシングゲームへ足を向けた。松田はスロットの換金をしていて、どうやらその表情から見るに今日は儲けている様子だ。薄めの唇が得意げに笑みを浮かべていた。

「やーい、不良刑事」
「は、馬鹿言え。違法行為なんてやってねえよ」
「でもギャンブルでしょ」
「しっかり台見極めてやりゃギャンブルにもならねえ」

 そう言うだけあって、彼はゲームセンターやスロット屋では負けなしなのを知っていた。元々器用なのもあるが、松田の言葉通り、透視能力でもあるかと思うほど当たる台を選ぶのだ。以前クレーンゲームで競った時にも、アームの強さや台の種類を見比べながら、アームやケースなど感じさせないほどスムーズに景品を取得していた。

「まあ、儲かってんなら奢ってもらうか」
「なんでお前に奢るんだっての」

 意地悪そうに、松田はククっと喉を鳴らした。
 ケチだなあと、わざとらしく可愛い子ぶって口を尖らせてみると、松田は露骨に顔を歪めた。いや、可愛いだろ。傍から見たら絶対可愛かったという自信はある。

「自分が可愛いってツラしてんじゃね」
「だって今のは可愛かったと思うんだけどな……いたっ」

 こんっとノックをするように額を叩かれた。彼は私が愛用しているレーシングゲームに軽く腰を掛けて、無造作にハンドルを弄った。私も隣にある機体に軽く腰を下ろし、松田と向かいあうような体勢になる。延々とクレーンゲームから軽快なメロディが流れていて、多少の無言は流してくれるような気がする。

 松田はなにげなく画面を眺めると、フ、と息をつくように笑う。
「お前、まだ一位とれてないの」
 画面上に映し出された名前を見て、彼は小馬鹿にするように言った。私は少し言葉を詰まらせる。そうだ、実はあれから何度挑戦しても、一位にはなれないのだ。こんな辺鄙なゲームセンターなので、一位以外のスコアは大したことがないのだが、チーターでも使ったのではと思うほどスコア差が開いている。
「強いんだよな、この人」
 大きく派手な冠を被せられた『ヒカル』というユーザー名を、軽く指でなぞる。いつかは越してやると決意しながら、シートに両手をついて僅かに拗ねた。


「お前さ、萩のことどう思ってんの」


 何気ない世間話の一つのように、松田は告げた。私はそこで萩原の名前が出たのが意外で、ぱっとサングラスの掛かった気だるげな顔を振り向く。サングラスを僅かにズラして覗いた瞳は、気だるげながらに此方を射抜くような眼差しだ。

「どう、って……?」
「よく一緒に出掛けたりしてんだろ。この間もそうだしよ」
「そりゃ、松田もそうでしょ。同じようなものだと思うけど」

 まさか、私と彼の間に何かあると思っているのだろうか。
 私はそれが少しおかしく思えて、半分笑いながら答えた。松田はそれに対して、苛々したように癖毛を掻きむしる。普段は感情の通りに生きる松田が、こうしてクシャクシャと頭を掻くのは大抵、思うように事が進まない時だ。

「……高槻、まだ諸伏のこと好きだろ」
「――うん、そうだね」

 松田の意図が分からず戸惑ったけれど、彼には既に嘘をつく必要もないので、目線を逸らしながら深く頷く。結局のところ、諸伏の姿が見えることがなくても、つい彼のことばかり考えてしまう。ふとした日常にも、物にも、その姿を思い浮かべてしまう。
 
 松田は、ハアと重たくため息をつく。掻きむしった髪の毛は、元の癖毛よりもひどく癖を表していた。彼が何を言いたいのか、私にはいまいち掴むことができないままだ。やけに喧嘩腰な態度に、私は眉を吊り上げた。「なんだよ」と言えば、また彼はため息をつくだけだ。


「本当は分かってるだろ。見てみないフリすんな」
「……ね、何のこと」
「萩のこと。――……アイツがお前のこと好きって、気づいてるだろ」


 私は「は」という口の形を象って、そのまま数秒固まった。
 萩原が私のことを好きだと、そう言っているのだ。間違いなく。理解ができなかった。「気づいてるだろ」だなんて――。松田がどうしてそういうのかも分からない。

「応える気ねえなら、早めに言ってやれ。高槻のことは嫌いじゃねえけど、アイツがああなのは見てらんねえから」

 松田は、それだけ言うと、コインを入れてレーシングゲームを始めた。普段は見ているだけにしてはコツを掴むのも上手いほうで、途中でクラッシュするとひとりでに悔しがっている。私は、その様子を眺めながら暫く黙りこくっていた。
 まさかそんなわけがない――と、言い訳をするような言葉だけが、頭の中をぐるぐると渦巻いている。

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Shhh...