72

 目映い星空の下で震える姿を、思い出していた。
 静まり返った星空を、少し怖いのだと、彼は言っていた。繋いだ手を離さないようにしようと、彼の指先を撫でた夜。今思えば、私が諸伏を特別だと、他の人と違うと最初に思ったのは、その時な気がする。
 
 今もどこかで、震えていやしないだろうか。
 全てを捨てて、前にしか道が見えないのは、恐ろしくはないだろうか。
 また、あの日のように夜を恐れて震えてはいないだろうか。
 
「――さん」

 記憶の中にある、ツンとした猫のような目つきが此方を振り向く。日本人の真っ黒なものよりも、少しだけ色素の薄い色。

「君は上澄みしか見ていないから……だから言えるんだ」
「小さな正義の味方だね」
「大丈夫。正義の味方さ、どこにいたって同じだ」

 諸伏の声、降谷の声、私の声。混ざるように頭の中にガンガンと鳴り響く。上澄みという言葉が、ひどく悲しかった。彼にとって、私の言葉は全てそう聞こえていたのかな。違う。私は、彼が震えていたあの夜の姿であっても、同じように正義の味方だと言ったはずだ。優しくて頼り甲斐のあるだけの君を見ていたわけでは、ないのに――。






 たぶん、小さく彼の名前を呼んだ。
 その拍子に意識が沈むように戻ってきて、私は急にベッドに落ちたような感覚を味わった。寮のものとは違う、清潔な香りと冷えたシーツに周囲を見回そうとして、体中に電撃が走るような痛みを覚えた。効果音でいうのなら、ビキリ、という痛みだ。
 痛みに思わず「いだっ」という声を漏らしたら、仕切りのカーテンがしゃっと開かれた。顔を出した朗らかそうな雰囲気の看護婦が、状況の説明をしてくれた。

 曰く、あの時の容疑者を車から庇い、そのままアスファルトを転がり全身の打ち身。全治には一か月はかかるだろうと言われたが、上手く受け身を取れていたため臓器や骨に異常はないそうだ。庇った男はちょうど頭を段差に打ち付けてしまったらしく、軽く切ってはいたが、転がった分勢いは吸収されていたので命に別状はないらしい。

 私はホ、と安堵の息をついた。
 つい衝動で飛び出してしまったけれど、無事ならばそれでいい。彼は、結局爆弾犯と関係があったのだろうか。私は痛む体の半身をなんとか起き上がらせた。看護婦が止めていたけれど、これが分からないとおちおち二度寝などできないのだ。

 すみませんと何度か断りながら、携帯を開く。一月六日、時刻は夕方の六時を過ぎたころだ。あの女性を送り届けたのが正午頃なので、約六時間気を失っていたのだろう。同期からの心配するようなメールをかちかちと送りながら、ネットにあがったニュース記事を開いた。

「今日の正午頃、高層マンションを人質に爆弾が仕掛けられ――犯人は十億円を要求……」

 そこまでは、私も知っている情報だった。どうやら事件は無事に解決したようだ。記事にもしっかりと男の名前が記されている。私はページをスクロールし、その先に目を滑らせた。

「警察はそれに応じ、マンションの住民は避難し、けが人はゼロ……。しかしその後――……爆弾は爆発、し、対応していた警察官の六名が――」

 携帯を、手から滑らせた。殉職者六名。と、確かにそう記されていた。
 私は困惑しながら、もう一度体の痛みなど忘れて携帯を拾い上げる。手先が震えて、上手くボタンを押すことができなかった。
 なんとか記事の先を読み進め、そこにあった二つの男の名前が全てを語っている。犯人は、二人。自首しようとした男が警察に追い詰められたことに逆上し、スイッチを押したと供述。

「陣平……萩原……」

 愕然と、事実を確認することができなかった。
 対応に当たっていた警察官の名前など記載されていなかったが、ひたすらに首筋にぷつぷつと嫌な汗が浮かび上がるのを感じた。まさか、そんなわけがない。だって、大丈夫だと言っていた。松田は、自分たちの実力なら大丈夫だと笑っていた。
 萩原とだって、前に会った泣き出しそうな顔が最後だ。こんな別れ方、して堪るか!
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。やめて。もう会わなくてもいいから、諸伏のようにどこかに去ってしまってもいいから、死ぬのだけは――やめてくれ。

 違うに決まってる。きっとそうだ。そうだ、電話を――。
 一瞬、指を止めてしまった。どうしよう。もし、彼らが爆風に巻き込まれてしまっていたら。私は彼らを立派な警察官だと、正義のもとに遂行をしたのだと、称えることができるだろうか。
 押せない。一つ、ボタンを押せば、萩原に掛かるはずだ。いつものように笑って、間延びしたような声で、名前を呼んでくれるはずだ。


「……ごめん、ごめんな」


 あんな別れ方をしなければ良かった。
 やっぱり、すぐに友達として好きだと、素直にそういえば良かった。じわじわと浮かぶ涙を拭って、下唇を噛みボタンに指先を伸ばす。ボタンに触れ、あとは力を籠めるだけだというタイミングだった。病室の扉が、力強く開かれる音がした。


「――っ高槻!」


 ばたばたと荒々しい足音で姿を見せたのは、見覚えのある癖毛頭だった。常に気だるげな姿が珍しく、はあはあと息を荒くして、私を見つけると同じタイミングで、鏡合わせのように小さく息をついた。
 ――良かった、彼は無事だった。
 落とした携帯を拾うために床にへたりこんでしまった私を、その掌が掴む。確かに暖かな体温が、彼が生きている事実を感じさせた。
 腕が上げられると、二の腕が痛む。私が軽く顔を歪めたら、彼は私の体をひょいと横抱きにして「行くぞ」とだけ告げた。

 どこに、何をしに。そう尋ねる前に、松田が一言だけ。

「萩のところ」

 ――と。彼がこんなにも必死になっている様子を見たのは、後にも先にもこの時だけであった気がする。しがみついた首も、少し汗ばんでいた。松田はいつもより怖くした表情で、大きくガキっぽい目元に薄く涙を堪えていた。

「お前ら、揃いも揃って、勝手に行こうとしやがって」
「萩原は……」
「連れてくっつってんだろ。巻き込まれちゃいるが、生きてる」

 ず、と掠れた声が啜りをあげた。彼はただ歩幅を大きくして、すたすたと同じ病院の、奥にある病室へと足を向けていた。ぴ、ぴ、と時折心電図の音がするのが、事の重大さを物語るようで、心が軋んだ。


 私の部屋に来た時のように、無作法に足で大きく扉を開く。ぶわっと、白いカーテンが大きく波打った。


「……百花、ちゃん」

 
 掠れた声だった。寧ろ、殆ど息の音だったかもしれない。酸素マスクで音が籠っていたこともあるが、それを聞き取れたのは、私がその呼び方を聞きなれているからだった。彼はこちらを見ると、いつもは艶やかな黒髪をぱさつかせて、ニコリと口角を上げた。

 弱弱しい姿だった。
 松田は、私を彼の隣にある椅子に降ろす。包帯が巻かれた体に、彼があの場にいたのだということはよく分かった。
「良かった」
 私は泣きそうになりながら、息をつくように漏らした。顔が歪むのが分かる。唇が震えた。
「うん」
「良かった。生きてて、良かった」
 ぐるぐると包帯に巻かれた腕に手を伸ばす。
 彼の手を取ろうとして、それから掴もうとした手が届かなかったことに気づく。届かなかった――のではない。なかったのだ。右手の、手首から先がない。断面は綺麗に縫合されていたが、私はただそれを見つめた。

「爆弾の解体するには、手先に分厚い防護具をつけるわけにいかねえから」

 松田が、歯がゆそうに言った。彼の手先の器用さを、その未来を知っていただろう松田が、もしかしたら一番苦しいのかもしれない。松田は溢れそうになった涙をぐっと拭って「煙草吸ってくる」と踵を返した。きっと、彼もまた泣きたいのだと思った。

 ――これは、彼が勇敢に戦った証だ。
 目の前にあった悪意の塊と、自分が生き残るという可能性と、警察としての信念と。
 
 でも、涙は流れた。彼のなくなった右手の先へ、ばたばたとシーツに落ちて音を鳴らす。彼が生きていて、嬉しかった。悔しくもあった。もっとできることがあったのではと、自分を怨みもした。

 止めようと思っても、涙は止まることなく頬を伝って、私は声を上げないまま泣いていた。

 
 ふと、萩原が私を呼ぶ。呼吸だけの音で、私を呼んだ。
 もしかしたら、呼吸器もどこか火傷しているのかもしれない、少し苦しそうな声だった。
 彼が声を張らなくても良いように、私は顔をなるべくその口元へと近づける。


「――約束、守ったんだから、泣かないで」


 白く濁った酸素マスクの中で、萩原が笑った。夕陽の中で交わした、彼との約束。

「生きられるかもしれないときに諦めないし、少しでも生きられる道を探す……」
「暑かったんだぜ、防護服着てんの」
「私がいなかったら着ないつもりかよ……」
「はは、待ちぼうけが長かったからなあ。脱いでたかも」
 
 へらりと萩原は、いつものように太い眉を下げた。薄っすら開いた瞳が、私を見て揺れている。病室の蛍光灯の、白い光を受けて揺れていた。萩原は瞳を細めて、「百花ちゃんが泣いてるの、やだからなあ」とぼやく。

 駄目だ。彼の気持ちをこれ以上裏切るのは、萩原という男自体を否定することになってしまう。たった一度のあの約束を、彼はここまで――。私はまだ震える声で、目じりを真っ赤にしながら言った。

「私、たぶん萩原のこと、好きになれない」
「……わかってるよ」
「友達としてしか、やっぱり、見れないよ」
「うん、それで良いんだ――だから」

 こてん、とその顔がこちらを向いた。黒い髪が顔に掛かる。その隙間から、揺れた瞳が私を見つめていた。力が抜けるように笑った彼の瞳からも、一筋、細く雫が零れていく。重力に負けて、その高い鼻を過ぎっていく。


「そばに、いてくれねえかなあ」


 私は痛む腕を伸ばして、背中が軋むのも振り払って、その弱弱しく笑った頭を抱きしめた。今度こそ、震えないように張った声で、「良いよ」と、返事をした。
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Shhh...