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 青く広がった空を見上げる。
 高層マンションの爆弾事件から、暫くが経つ。私はその冷たい空気を吸い込んで、薄い雲のかかる澄んだ青空へフウと白い息を吐きだした。今でこそ、「あんなことがあった」と思い出にもなったが、当時は世間も含めてひどい騒ぎだった。思い出しても、警察官という職業の難儀さを実感するほどだ。

 一月六日。
 マンション内の住民を人質に取る、大掛かりで計画的な犯行。これには二人の男が関わっていた。一人は、私が電話ボックスの中で見かけた男。ネットの記事の通り、彼が事故に遭ったのを見て、もう一人の犯人が逆上し、遠隔操作のスイッチを押してしまった――。それが、萩原が処理にあたっていた爆弾だったのだ。
 しかし、萩原は最初から人員を離れさせて解体に臨んでいたようで、殉職というのはネット記事の語弊だった。それぞれ無傷ではなかったが、命は取り留めている。確保された犯人の説得により、もう一人の犯人も逮捕された。

 もし、少しでもズレていたら。萩原が住民の避難作業の間に、止まった爆弾を前に防護服を脱いでしまっていたら。もし、あの時犯人の片割れが死んでしまっていたら。もし、フロア内の人員が一人でも死んでいたら――。

 そう思うと、今でもゾっとする。死は人を可笑しくする。きっと、誰かが一人でも命を失っていたら、犯人も恐怖で固まり自首することはなかったかもしれない。もとより、誰かを殺すような予定とは思えない犯行であった。

 萩原は、この事件を機に同期たちのなかでも異例の早さで昇進をした。もちろん、機動隊は続けられず、配属自体はやり直しだ。まるで殉職者だと、萩原自身も少し情けなく笑っていた。



 ――ざわざわと人混みが流れていくのを、白く小さなカップを片手に見送った。
 携帯を開き一瞥すると、私はその人混みの中から、目当ての人物を探した。飲み干した甘酒は、私の吐き出す息を温める。
 メールで、もうすぐ着くとあったのだが。あたりをキョロキョロと忙しなく見回していると、整備された一方通行を少しばかり逆らうようにして、見覚えのある姿を捉えた。周囲よりも一つ飛びぬけた頭。真っ青な空によく映える、黒く艶のある髪が冷たい風にぶわっと波打つ。

「百花ちゃん!」

 へら、と垂れた目つきが笑う。私も、その慣れた体温に駆け寄った。待たせてごめんと、スーツのジャケットを片腕抜いた姿の男は肩を竦める。私よりも、彼の吐く息のが白く空気を染めた。

「お疲れ、本当に今から初詣で良かったの?」
「楽しみに帰ってきちゃったし。てか、百花ちゃんマジで行事運良いよね」
「萩原よりはね」

 私が笑うと、萩原もククっと可笑しそうに喉を鳴らした。彼の言う通り、私の出勤は滅多にイベントごとに被ることはなく、反対に彼の出勤は殆どがそういったものに重なるのだ。今日は非番の日だったが、クリスマスイブからクリスマスにかけて当番が入っていた時は、彼なりに悔しがっていたのを覚えている。
 つい思い出し笑いをした私を見て、萩原は意地悪そうに「えぇ〜」とこちらを覗きこむ。

「なあんか、ヘンなこと考えてただろ」
「なーんも。お腹空いたから行こ」

 私は手に持った厄落としの絵馬を軽く持ち上げる。カラン、と付け根についた鈴が鳴った。「はいはい」、歩き出した彼の歩調は相変わらず、口調と同じようにゆったりしている。けれど足が長い分歩幅は広くて、結局私が歩くのと丁度いい。

 去年買った絵馬を奉納すると、そのまま参拝する大きな列に並ぶ。それほど有名でない地域の神社だったが、やはり初詣となると人は多い。ポテトやタマセンの焼ける香り。賽銭を握りながら出店にばかり目をやっていたら、萩原が横から声を上げて笑った。

「そんなにお腹空いた?」
「かなり。何食べる?」
「俺はなんでも。百花ちゃん、どうせそんなに食べれないでしょ。余ったの貰うよ」

 そう、残念ながらこの体の胃袋はそれほど大きな方ではない。食欲だけはあるが、胃の大きさが比例していないので、ガッツリした油モノを買いこんでは結局食べきれないでいる。すっかり見透かされた習慣に、私は悔しく「う」と言葉に詰まった。
 萩原は私とは反対に、食欲こそそこまで旺盛なほうじゃあないが、割かし何でもペロリと平らげてしまうのだ。こればっかりは体格もあるのかもしれない。

 私が僅かに口を尖らせると、萩原は苦笑いをして「気にしないで」と言う。まあ彼もこう言ってくれているので、言葉に甘えて好きなものを食べることにした。二人で参拝を済ませてから、串焼きとお好み焼きを買い、ビニールを片手に先ほどとは反対側の道を歩く。串焼きに掛かったたっぷりのタレが、途中で包んだ紙袋を浸していて、やや早足になる。

「うお、やばいやばい! タレ零れるって」
「だからさっき食べなって言っただろ」
「萩原が歩きながらだと行儀悪いって言ったんじゃんか!」

 わあわあと言いあいながら、階段を上る。エレベーターでも良かったのだが、もしものときに室内を汚すのはやや忍びない。二人で勢いよく階段を駆け上がった。一段飛ばしでも間に合うほどの体力がついたのには、この職業に感謝しなければいけない。

 コートのポケットから鍵を取り出し、扉を開ける。急いで大皿の上に乗せると、はぁとリビングへへたりこんだ。それから顔を見合わせて、二人で破顔し、柔くキスを交わした。あたたかくて、柔らかな唇だ。下手をしたら、私よりも柔らかいかもしれない。

 タレのたっぷり浸った串焼きは、少し固かったけれど、すきっ腹には天国かと思えるほどに美味しかった。



 ――高層マンションの爆発物事件から、三年が経つ。
 事件があったのは一月六日だったから、正しく言えばあと少しで三年か。傍にいてほしいと泣いた萩原と、付き合い始めたのはそれからすぐの話だった。提案したのは私の方だ。

 好きになるかは分からないけれど、一度付き合ってみてほしい。

 まだ寝た切りの彼に、私も車いすに乗ったまま告げたら、萩原は痛むだろう体を勢いよく起き上がらせて、それから「いでぇ……」とベッドに沈んだ。それが可笑しくて、横で声を上げて爆笑してしまったのは、記憶に強い。
 
 諸伏への感情が好き、だったと思えば、やっぱり未だに萩原を好きだとは言えなかった。萩原はそれでも良いと何度も言った。諸伏が帰ってくるまでの恋人で良いと。友達のような感覚のままで良いと。
 彼の言葉通り、彼との時間は友達同士のようで、穏やかで心地よい。
 ビリビリと電撃のあるような、胸がギュウっ切ないようなものではないけれど、私はその時間も好きだった。

 上官たちは萩原が事故で片手を失くしたのを知っていたし、警察官同士で身元もはっきりとしていたから、同棲の許可は思ったよりもすんなりと下りた。
 ――萩原を支えてやってくれ、機動隊の命を救われたらしい同僚たちにそう肩を叩かれたが、言っちゃ悪いが、この男は手先が器用なので、既に私の手伝いなど必要がない。着替えも料理も、その手首の先と左手で問題なく済ませている。


「失礼だなあ。書類とか作るのは手伝ってもらってるだろ」
「そんだけじゃん。ちゃんとリハビリ行ってんの?」

 箸でお好み焼きを裂きながら尋ねると、今度は萩原のほうがその人よしな顔をグっと固まらせた。一緒に住んでみて分かったことだが、彼の面倒くさがり屋といったら、松田にも張るものがある。彼らが昔から相性良く付き合っていたのがよく分かるほどだ。

「ま、こうして動いてんだし……?」
「そういって薬飲むの忘れて痛い痛いって夜唸ってただろ。今度やったら美和子ちゃんに言いつけるから」
「アー、やめてやめて。佐藤さん上官にもスパルタなんだから」

 美和子、というのは今の萩原の同僚だった。すっきりとしたショートヘアの小顔な美人で、萩原の悪さをちょくちょく教えてもらう仲だ。美和子曰く、「高槻さんの言うことなら聞くから助かる」とのことで、互いにウィンウィンな関係なのだ。

 萩原はその広い肩幅をがっくしと落として、エーン、と棒読み極まりないウソ泣きをする。あまりに野太い声色の泣き声が可愛くなくて、私は噴き出しながら大きな体に飛び込んだ。ケロイド状の痕が残った右手首が、私の顔に掛かった髪を器用に分ける。
 髪も、ずいぶんと伸びたものだ。すっかり高校の頃の長さまで戻ってしまった。

「すぐに寝ると牛になっちゃうぜ」
「大丈夫。牛になっても多分可愛いから」
「それどういう自信? ったく……」

 見上げた顔は、嬉しそうに、幸せそうに、少しだけ呆れたように、綺麗に微笑んだ。


 
 これが、ただの少女漫画だったのなら。ただの恋愛ストーリーだったのなら。
 きっとこれがエピローグだった。そのくらいに、私は幸せだったし、彼との穏やかな時間が続けば良いとも思っていた。立派な警察官にも、今までよりは近づいた。

 違うのは、この穏やかな生活のために、私が追いやったものがあること。その証拠に三年間、私は前世の夢を一度も見たことがない。あの時の『思い出せ』という声には蓋をした。

 これが、ただの少女漫画だったのなら。ただの、恋愛ストーリーだったのなら。これはきっと、エピローグだったのに。

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Shhh...