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 目の前にいた男は、幻のようで、しかし街灯を背にしっかりと地面に影を落としていた。「本物?」と、心の声が口から飛び出ると、諸伏は以前のようにぷっと噴き出して「偽物っているのか」と笑う。はは、と爽やかに笑う顔。笑うとくしゃっと寄る皺。以前のまま変わってはいない。

 どうして、だとか。どうやって、だとか。
 
 聞きたいことも、言いたいことも山ほどあったのに、彼を目の前にすると何も言葉にできなかった。ただ、その少し冷たい体温を恋しいと感じる。ポケットの中に入れられた手は、震えてはいないか。掴んで、撫でて、確かめたいと思った。

 私はジっと彼の姿を見つめる。視線に気づいた諸伏が、少し肩を竦めて笑った。じり、と一歩彼のほうに近寄ってみる。諸伏はクラブの屋上と違って、逃げることなくそこに立っている。
 近づく足取りが、一歩一歩と早くなる。街灯二本分くらいあった距離を、私の足が縮める。まるでテレビの中。恋人と再会したかのようにタタッと彼に駆け寄って、勢いよく胸板と胸板の間を辿った、ヘソとの間あたりに拳を入れる。

 さすが鍛えているだけあって、拳が少し痛んだけれど、諸伏の籠ったような唸り声に私の心はスーっと晴れた。

「げほ、ちょ、やめて……」
「このヤロー、心配した! あいつらだって、ずっと心配してた……!!」

 私は体勢を立て直した、男にしては薄い肩に拳を三度ほど押し付ける。傍から見れば女に「バカバカ〜」とされるけしからん男かもしれないが、絶対痛い。ソタイに入ってからは空手の稽古にも顔を出すようになってたし。
 でも、諸伏は何もいうことはなかった。その顔を見上げると、申し訳なさそうに、眉が下がっている。彼自身が「そうされて当たり前」に思っているようで、なんだか腹が立った。


 ――そう、私は腹が立っていた。

 諸伏を目の前にしたら絶対泣くだろうとか、もし彼が私を責めたらどうしようとか、萩原に申し訳がたたないとか――。そういう感情を全部置き去りにして、ひたすらに怒っていた。自分自身、まさかそんな感情が生まれるとは予想外だったので、行き場のない怒りをすべて拳に乗せた。

「……大丈夫なの」
「え?」
「大丈夫なのかって聞いてんの」

 まだ怒りが篭った声色で尋ねると、彼は苦笑いして、小さく頷く。

 「もちろん。それを伝えたくて会いにきたんだ。訳あって連絡はとれないけど」

 私はその言葉に、ホ、と息をついた。それが以前のようなわざとらしい笑みではなく、青年らしい、柔らかな笑い方だったからだ。「そっか」、私は頬を少し緩めて、息をつくように呟く。

「なら、良いんだ。がんばって」
「……うん。またこっちのゴタゴタが落ち着いたら顔出すって、アイツらにも言っといて」

 諸伏は苦笑いしながら、私の拳を宥めるように柔く告げた。彼が無事なのだ。それで良い。今は諸伏のことを信じて待とう――と、心に微かに希望が光った。フードの奥にある瞳が、柔らかく細められた。ツンと吊った目つきが、和らぐのが、私は好きだった。

 彼が柔らかく笑うから、なんだか胸の奥がキュウっとして、その腕を引き留めたくなってしまう。――いや、駄目でしょ。自制心が、なんとか腕を戻そうとしたけれど、ついグレイのパーカーの裾を、私は引いた。

「――ごめん、十秒で良いから。触ったり、しないから」
「…………分かった」

 いつもよりも、少しだけ長い沈黙だった。
 呆れたように諸伏が笑う。この後は、しばらく会えないと思って良いだろう。こうして挨拶をしにきたということは、私や伊達たちが彼を追っていることに気づいたのだ。一体何の仕事かは分からないけど、誤って表立ったところで接触してはまずいと、そう思ったのは分かる。

 彼は覚えているだろうか。白いパーカーを着た姿で、私と撮った写真を。二人で撮った写真はあれ一枚で、でも大切な写真だった。――世界が輝いて見えたの、と夏乃が昔言っていた。その通りだ。あの一枚だけで、色鮮やかな感情が生まれるのだ。

 十秒、経つか、経たないか。
 その間際で、私はくん、と鼻の奥を何かがつくような感覚を覚えた。
 湿った地面を乾かすような風が吹いて、緑の葉が舞った。たぶん、その時に香った。――煙草の、匂いだった。

 
『――最近は禁煙してたんだけどな』


 懐かしく、降谷の声がどこからか頭を揺らした。
 諸伏からは、基本的には煙草の匂いはしない。あまり頻繁に吸う性質でもなく、おそらく彼自身も煙草を止めたいと思っていたから。

 本当は、知っている。
 彼がむしゃくしゃしたり、やりきれない時に、我慢できずに煙草に頼ってしまうこと。煙草のケースを探すようにポケットを探ること。

 ――私は彼の顔を見上げた。諸伏はいつもと変わらないような、少し惚けたような表情でこちらを見下ろしていた。

 
「大丈夫じゃ、ないんだ」


 その表情に言葉を投げると、ニコっとしていた口角が一瞬ぴくりと動いた。
 無性に泣きたくなった。どうして大丈夫だなんて言うんだ。どうして、少しでも頼ってくれないんだ。そして、何より、彼の嘘があまりにも上手いことが――、悲しくて悔しくてしょうがなかった。

 前よりも更に自然に、嘘くさくない表情。見ても気づかないくらい、柔らかくて、青年のような彼そのままで。よく考えたら分かることだ。大丈夫かだなんて、尋ねたほうが間抜けだっただけの話。大丈夫なわけがないのに。


「――もう行くよ」


 掴んでいた裾が、するりと抜けていく。私はぐっとそれを掴みなおした。厚手の生地に皺が寄る。諸伏は表情を朗らかにしたまま、「離してくれ」と言う。私は彼を睨みつけて、首を横に振った。

「……駄目。ちゃんと言って、何をしてるのか」
「言えないんだ。事情くらい、分かるだろ」
「――前、三階から男を撃ったのは、君?」


 ひくり。あまり大きくない目元が引き攣る。彼はその口元から笑みを消して、フウと大きくため息をついた。手首を力強く引かれる。振り払おうと思い切り上に振り上げた手も、ぐっともう片方の手で押さえられた。そのまま、背後にあった一本の街灯に、背中を押し付けられる。
 強引な手つきで、打ち付けた背中がジンジンと痛んだ。その痛みを知らせるように、街灯もわずかに震えていた。
 
 ポケットの中に入れられていた手に、黒い手袋がはめられていることに気づいたのはその時だ。彼は私の手首を纏めて下で固定したまま、表情を消してこちらを見据える。

 つんっと高い鼻先が触れるほど近くにあるのに、そこに諸伏はいなかった。
 まるで、別の男に成り代わったようだった。そのくらい、彼の表情は冷たい。諸伏の涼やかな目つきは、感情がないとこんなにも冷たく恐ろしく見えるものかと思った。


「……そうだよ」


 低く、どこか甘い囁きが答える。
 先ほどまでの笑い声が嘘みたいな響きだった。にこにこと笑っていた瞳の奥が、苛立たし気な濁りを見せている。


「君のことだって、今すぐにやれるさ」


 ニコ、と口元だけが笑う。目の奥は、先ほどから揺らがず私を見据えている。初めて、諸伏に対して怖い≠ニいう印象を抱いた。促しているようだ。怖い思いをしたくなかったら、温かい場所に帰れと。ちらりと目線を上げると、まだマンションの明かりは零れている。

「……そしたら、君はどうすんの」

 私が口を開いたら、諸伏は解せない、と言いたげに眉間に浅く皺を寄せる。

「殺したら、君はどうすんだよ」

 誰が、その手を掴めば良いんだ。
 彼と正義の道が違ったって良い。助けてと震える手を、私は掴んでいたい。隣り合った道でも構わないから、そこにいてほしい。
 手袋で包まれた手のひらに、チョンと動く指先だけで触れた。冷たい。当たり前か。諸伏は驚いたように手を見下ろしてから、少しその目元に悲哀を滲ませた。


 纏め上げられた腕が、上に持ち上げられる。それから、ぐっと顔を近づけて、殆どキスをするのではないかというところまで唇を寄せた。殆ど、吐息も同然だった。いや、息よりも小さかったかも。唇だけの動きと、ほんの少し漏れるだけの囁きが、私の唇の感触に言葉を落とす。
 言葉は、二つ。おそらく唇の動きだけでもわかるよう、端的にまとめられた単語だ。


 ――アブナイ

 ――スキ
 

 だから、追わないで。そんな語尾がつきそうな、囁きが、夜の中響くこともなく、私の肌にだけ響いた。すぐにクラっと頭が揺れて、口元に白い布が充てられているのには少し遅れて気付いた。――ちくしょう、そんな狡い男なんて、大嫌いだ。

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Shhh...