重たい瞼を持ち上げる。ああ、億劫だ。外は雨模様で、それが更に俺の気持ちを削いだ。
でも、起きなければ。もう二度と昇らなくて良いと思っていた朝日は、今日も昇ったのだから。やることはたくさんある。ありすぎて、確かにその方が置いていかれた身を慰めることができるのかもしれない。
まずは葬儀会社に連絡を取った。
幸い、事故を担当してくれた女性警官は親身な人で、死後の手続きを纏めたメモを一枚渡してくれた。それを見ながら、酒の飲みすぎて掠れた声で、葬儀の連絡をする。死亡届に押した印鑑は、ハジがわずかに掠れた。養護施設にも連絡を取り、彼女の荷物の行き場と葬儀の日程を話した。
健康保険証は後日返すとして――火葬許可証は、連絡した葬儀場が代わりに請け負ってくれるらしい。
――あまりにも、現実感がなかった。
体は動くけれど、それに一片として心がついてこない。
ただ、ゲームの中でキャラクターを動かしているような気分だった。誰かが一人いなくなったところで、世界はこれほどに変わらないのだと知った。テレビをつけても、いつも通りの時間にいつも通りの番組が流れる。水道も、ガスも、電気も点くし、いつも五月蠅い隣人の犬は今日も元気に吠えていた。
でも、確かに妹は、死んだ。
一目見ればそれが分かるくらいに、助かりようのない事故をした。
一番の恨みどころであるトラックの運転手も、事故で亡くなったので、この感情をどこへぶつけたら良いかが分からなかった。しかし、一つ言えるのは、もう何もかもどうでも良かった。
別に、もう、テレビ番組がつかなくたって、水道もガスも電気も通らなくたって、隣の犬がくたばったって、なんだって良い。
だって、俺に何が残ったというのだろう。
あの子の他に、何か一つでも俺に残ったものがあるだろうか。
俺は彼女が握っていたという、薄っぺらな紙を眺めた。あの女性警官が、気づかわし気に渡してくれたものだった。妹が、俺に映画の内容を説明するために一生懸命に記したメモだ。それだけが、あの子の残したものだった。
いっそ、映画など観に行かなければ良かったのだろうか――。
あの子がテストをがんばったご褒美にと言って強請った姿を、あの両親のように放っておけば良かったのだろうか。いや、結局無理だ。そんなこと、俺にはできやしなかった。じゃあ、あの子が死ぬのは運命だったとでも言うのだろうか。
「そんなこと、あってたまるか」
誰もいない部屋の中に、吐き捨てるようにつぶやいた。
それから何でもなくただ天井を見て、ぼんやりと数時間。ろくでもない、こんな人生だ。生まれたときから愛されもしなくて、友人だって恋人だって結局上っ面だけの関係だ。メリットがあるから、一緒にいるだけだ。
あの子だけだったのに。
俺に似て、少し内気な子だった。初めての人には壁を作るけど、根っこは優しく明るくて、俺とは違って、正義感の強い子だった。俺で、良かったのだ。こんなどうしようもないような男が代わりになるなら、なってやりたかった。
俺は呆然としたまま、服を着替えた。
ただ、部屋にいると、あの子のことばかり考えてしまうから。今日は日柄が悪いらしく、葬儀は明日だ。
いつもと何も変わらない道を歩いた。
変われば良いのに。ぐちゃぐちゃになってしまってれば良かったのに。
踏みしめても変わることのない、アスファルトの感触を苦々しく思いながら、歩いた先は映画館だった。ぼーっとしながらチケットを取って、ぼーっとしながらポップコーンも買った。あの子が買っていた、コラボグッズ、とかいうやつ。
昨日の行動を反復するように、一人席に着く。
あの時はほとんどブザーを一緒に入ったから知らなかったけれど、冷静に周りを見ると意外にもあの子くらいの女の子が多く座っていた。こういうアニメ映画とかって、てっきり子どもや男の客層が多いと思ってた。普段見ないから、なおさらだ。俺の知っているキャラクターなど、せいぜい真ん中を飾るメガネの少年くらいだった。
隣に座った子も、後ろに座っている子たちも、女特有のきゃあきゃあという声で、誰かを呼んでいるようだった。そういえば、あの子も言っていたな。薄っぺらいメモをちらりと眺めた。確か、アムロトオル、とかいう。
「えーっと……なんだっけ?」
そのメモを眺めながら、あの子の言葉を思い出す。
アムロ、という男は本当は警察で、潜入捜査をしていること。妹が書いてくれた酒の絵のところには、スコッチ、それからニット帽の絵にはアカイと書かれている。
三人とも組織(――そもそも、組織ってなんだ?)に潜入捜査をしていて、スコッチはそれがバレて拳銃自殺をしてしまうこと。スコッチとアムロは幼馴染であること。アムロはアカイが、スコッチを助けなかったのを恨んでいること。本当は、スコッチはアムロが駆けつける足音を聞いて自殺をしてしまったこと。
『その人はね、自分の正体がバレる前にポケットの携帯を撃ちぬいたの』
俺は、ふと心臓あたりを撫でた。自殺をした、ということは、きっと胸ポケットだ。銃を押し付けて、彼はどんな気持ちだったのだろうか。怖いのかな。俺も、いっそ死んでしまおうか。
「――……あの」
と、不意に声をかけてきたのは隣に腰かけていた女性だった。俺は驚いて、ふと人差し指で自分の方を指す。彼女は、肩につくかつかないかの短い髪を掻きわけて、静かに頷く。
「その、――巡査です。覚えていないかもしれませんが」
「あ……ああ。私服だったから……」
気づかなかった。と声に出したのだが、殆ど聞き取れないほど喉が枯れていたので、咳払いで終わってしまった。彼女はさほど気にする様子もなく、「映画観に来たんですか」と世間話を続けた。
「……あの子が、好きだったから」
「そうでしたか。私も好きなんですよ」
「へえ、俺は詳しくなくて」
「私も、自分の正義を持った人になろうって思えるんです」
――正義、ねえ。
俺はほとんど興味なく頷く。それなりに美人だったとは思うのだけど、顔はほとんど覚えてない。暗かったし、ちょうどそのタイミングで映画のブザーが鳴ったからだ。彼女もそれ以上話すことはなく、静かに口を噤んでいた。
映画は、俺の目を煌々と照らす。
少し青白っぽい、まばゆい光が、非常灯の灯りだけが灯る客席に降る。
――俺は、その映画を観てただ泣いていた。泣くような映画ではなかったかもしれない。お涙頂戴というよりは、どちらかといえばアクション要素の強い映画だったから。
あの子が言っていたことを、思い出していた。スコッチという彼の親友は、彼のために死んだのだろう。きっと、ひどく虚しかっただろう。
アカイという男を恨むならば、分かる。共感できた。
しかし、スクリーンの中の男は違った。彼は警察官として、ただまっすぐに国を守るために動いていた。機械のように従うのではない。心を燃やし、自分の正義に則ってまっすぐ前を向いていた。
それがあまりに、自分と違いすぎて、ただ、ただ、情けなかった。
悔しく、虚しく、辛かったろうに。全部ぐちゃぐちゃになってしまえば良いと、思ったろうに。
「……屑じゃん、俺」
そうだよ、そうだった。俺はクズだ。ロクでもない、ただの男だ。
なんだかそれに糸がプッツリと切れた気がして、俺はエンドロールの途中で席を立った。「あ」小さく、隣から息が漏れたような気がする。そんなことを気にもせず、映画館を出た。
もう良い。もう良いや。屑なら、屑らしく生きて屑らしく死んでいこう。外に出ると、あんなに曇っていた空から差した晴れ間が、あざ笑うようにそこにあった。スクリーンの灯りなんかよりもよっぽど眩しくて、目を細めながら、踵を返した。
映画に映った男は、『降谷零』というキャラクターだった。
妹が一番好きだと言っていた、安室透が警察として出てくるときの本名だと、彼女が言っていた。妹が死んだのはお前が主役の映画なんてやるからだ、バアカ。アニメのキャラクターに八つ当たりするなんて、俺もいよいよ駄目らしい。