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 器用な手つきがネクタイを締める。シャルベのオーダースーツをきっちりと着こなし、男は車のミラーで髪型を軽く整えた。日本人ながらに小洒落た服装を着こなす男の口元には薄っすらと笑みが浮かんでいる。

 昔なじみが、己の手柄を譲ってまで立場を戻そうとした一件から暫く経つ。正直所轄の仕事も嫌いではなかったが、認めた男がそこまでして引き戻そうとした――その事実が、彼の心を大きく奮い立たせた。そこまでされたら、応えなくてはね。クールに肩を竦めると、数年前まで勤めていた本庁を見上げた。

 すれ違う同僚たちに軽く挨拶を済ます。皆気の良い男たちで、「お久しぶりです!」「またご一緒できて光栄です」と、暖かに返してくれた。頬もつい綻ぶというものだ。

 ――その頬が、ピタリと固まったのは、ばたばたという聞き馴染みのある足音がしてからだ。解れかけていた心がみるみるうちに固まり、男は自然と溜息が漏れるのを止められなかった。


「も、諸伏さあん! なんで戻ってくるの教えてくれないんですかあ〜!!」


 グレーのレディーススーツを纏った、くるりとした癖毛を一つに括った女――それが、彼のため息の原因である。露骨に涙ぐんだ声が駆け寄ってきて、ブランド物のジャケットにぐずぐずと泣きつかれるのを、男は成すがままに後ろ手を組み立ち尽くしていた。
 



 少し話を遡ろう。
 私は高槻百花――成績優秀者としてキャリアを歩み始めた新米の警察官である。幼い頃から、頭を使うことは苦手ではなかった。物覚えは早かったし、勉学で苦労をしたことはなく、小中高どの学年でも常にスリートップに入る頭脳があった。
 
 警察学校、大学と、どちらとも座学で右に出る者はいなかったし(――術科は別だ。運動はあまり好きじゃあなかった)、将来が楽しみだと教官たちにも背中を叩かれていた。地元――長野の警察学校は、特に上が厳しいと有名だったので、その中で認められるような才能だったことだけは、名言しておこう。

 本配属が始まり、私は意気揚々と出勤した。私の教育係は、諸伏高明警部という、すらりとした立ち姿と、ゆったりした口調が印象的な男だった。諸伏は知的で、学校で出会う教官たちとは異なる雰囲気がある。学校ではよく頭ごなしに怒鳴られたものだが、彼は逐一丁寧に説明をしてくれたし、一歩先を読んで仕事をこなせば薄い唇の片側をニコリとさせて褒めてくれた。
 
 私はこのころ「自分のことを一番頭が良い」と過剰に思っていた節があり、完全に体育会系の男たちを見下げていた。そんな中で、諸伏の存在は大きく、異性として意識するのに時間は掛からなかった。

 とある事件を処理したのち、捜査一課の一同で飲みにいく機会があった。
 私はこの時しかないのではと思った。教育係が外れてしまう前に、距離を詰めなければ。
 諸伏は席の端で、ワインをボトルで頼んではちまちまとグラスに空けている。それが、周りのガバガバと酒を飲む男たちのなかで際立って大人っぽかった。格好いいと、思った。

 トイレに行ってよれたファンデーションとリップを直す。
 おなじ課の上原と比べると――少々劣るかもしれないが、それでも十分に可愛い部類に入るはずだ。くりっとした目つきと、小ぶりな鼻に、幅は大きいが薄い唇。睫毛は綺麗にセパレートしているし、片側に寄せた髪にもヘアミストを掛けた。大丈夫だ。


「諸伏警部、あの」


 いそいそと彼のほうに膝をくっつけた。諸伏はこちらを一瞥すると、「はい」と何事もなさそうに相槌を打った。
「私、諸伏警部にどーしても相談したいことがあって、IDとか……」
 スマートフォンを取り出して、ちらっとそのツンとした目つきに向かって上目遣いをする。諸伏は苦笑しながら「直接言っても大丈夫ですよ」と言う。そういうことじゃない。

 そのあとも、「だって恥ずかしいし」だの「休日とか」だのともじもじ提案してみたが、諸伏はのらりくらりと躱すだけだ。これでは暖簾に腕押しである。
 何を言っても反応がないので、私はじれったく、酒を飲んで熱くなった肩を彼に寄せた。遊び人っぽく見えるのであまり使いたくはなかったが、少し酔っ払ってしまったアピールである。

 諸伏はボトルを二本空けているというのに、ちょんと触れた指が冷たくて驚いた。振れた肩越しに視線を遣ると、涼し気な目つきはしっかりとこちらを捉えている。そして――あろうことか、鼻から抜けるように「フッ」と笑った。もとよりキツそうな目つきの片側がピクリと動き、口元はややニヒルに弧を描く。
 普段はクスクスと笑い、何があっても逆上しないような落ち着いた声。上品な声色が、そのときばかりはやや掠れて聞こえた。

「馬鹿なひとだ」

 ぽつり、と彼はそう吐き出した。
 馬鹿。ばか、バカ。
 それは人生で初めて、罵倒として使われた言葉であった。おかげで理解するまで時間が掛かってしまった。彼は間違いなく、私に向かって馬鹿だと言ったのだ。
 そりゃあ、友達同士でふざけあって馬鹿だと言われたことはあったが、今のはそうじゃあない。紛れもなく諸伏が私を見て、鼻で笑いながら「馬鹿」と――。


「アー、おいおい。コイツできあがってんぞ」


 ひょこりと首を出したのは、色黒の肌に無精ひげを生やした――大和という警部だ。よく喫煙所で諸伏と話しているところを見る。彼はその武骨な手を諸伏の冷たい顔に当てて、だめだこれ、と一言漏らした。
「悪いな、ちょっと醒ましてくる」
 大和は大きな体にそのほっそりとしたスタイルを担ぐと、入口のほうへと向かった。

 ワンテンポ遅れて、私は体中に血が巡っていくのを感じた。
 ――な、なにあれ、エッロ〜……!?
 別にマゾかと言われればそうではないと思うのだけれど、顔やら首やらが熱くなって、ひたすらに諸伏のことしか考えられなくなっていた。
 諸伏が東都大学の法学部を首席卒業した――ということを聞いたのは、それから三日後のことだった。堪らなかった。私のことを本当に馬鹿だと思ってたかどうかは、この際どうでも良い。こんなに胸が高鳴って、誰かを輝かしく見たことはなかった。


 私は以来、彼のあとをついて周った。
 前から教育係ということもあり、現場へは必ず同行していたが、それ以外――昼食、休憩、欠番が別になる日以外はすべて彼の後を追うことに注いだ。最初こそ苦笑で見逃していた諸伏だが、次第に猫かぶることもやめたらしい。
「諸伏警部、はやく連絡先交換しましょうよ〜」
「君が今すぐ海水に携帯を沈めたら、考えますよ」
 ニコニコとしながら冗談まで話す仲になったわけである。幸い諸伏に彼女がいないことは、上原にせびって答えてもらったので判明済みだ。ならばいくらベタベタしたところで構うことはない。


 ――諸伏が新野署に異動になったのは、それから少し経ったころだった。
 私も新野署に行くと駄々を捏ねたが、あろうことか「キャリア」という肩書がそれを邪魔したのだ。しかし、それも今日までである! 私はご機嫌に、諸伏から託された資料を探すべく、分厚いファイルを開いた。






「早速使われてんなぁ」

 声を掛けてきたのは大和だった。ちょうど諸伏が新野署に飛ばされる直前、事件に巻き込まれ大けがをしたらしく、それ以来足を引きずっている。杖をついた独特の足音は、近頃は大和のトレードマークのようなものだ。彼は大きくため息をつきながら、私の手元を覗いた。
「まあまあ、それだけ頼ってくれてるってことなんで」
「どう考えても厄介払いされただけだろ……尊敬するぜ」
 大和はうんざりしたように肩を竦める。普段署内にいるときは八割がた不機嫌な大和だが、彼の口調とは裏腹にやや声色が浮ついているのは私でも聞いて取れた。きっと、諸伏ならば尚更だろう。
「良いんですよ〜私は。諸伏警部と結婚できれば」
 にこっと笑うと、大和は後頭部を掻きながら「いつの話だか」と吐き捨てる。



 ――ここに記すのは、のちに「諸伏さえいなければ優秀なままだったのに――」そう上層部に嘆かれることになる、とある女性警官の日常であった。