05


 じゅう、と残り僅かなエナジーゼリーを吸う音が響いた。
 普段はあれほどに口うるさく身だしなみを気に掛ける高槻にも、それを気にしていられない時はある。今のように、捜査が困難を極め修羅場に差し掛かると休日もへったくれもあったものではないからだ。難しい顔で捜査資料を眺めながら、彼女はオフィス用の眼鏡を外し椅子の背もたれへ溶けるように凭れ掛かった。

「う〜……」

 目の下の隈が、蛍光灯の眩い灯りでクッキリと際立つ。担当する事件を同じくした面々も、そのぐったりとした様子に同情した。以前重要人との接触があって以来、そのコンタクトは彼女に任せている。もちろん記録を取り、近くに誰かが待機していると言えど、その精神的な疲労は相当のものだろう。
 はあ、と重たいため息を零すと、高槻はパソコンに表示されたメールに向き直る。
 次の会合への招待をなんとしてももぎ取るためだ。一回目は、以前の抱いた疑いが晴れなかった所為か、中々上の人物とは引き合わせてもらえなかった。こういうものは、何度か数をこなして信用されるしかない。

「ねえ、ちょっと休憩したら? 私たちもいるんだから」

 上官である上原が、その肩を優しく擦る。
 彼女もまた休みなど取っていなかったが、タフさには自信があった。高槻は知識もあり洞察力も申し分ないが、体力に欠ける部分がある。そんなところを補えたら――上官として、今は同じチームとしての助言のつもりだったのだ。
 
 高槻はくりっとした丸い目で上原を見上げ、瞳の表面にウルっと涙の膜を張る。

 色素の薄い、茶がかった瞳が波打つように見えた。もう少しでその涙が零れるのでは――というとき、高槻は「由衣さん」と声を震わす。

 ――ああ、そんな追い詰めなくとも!

 恐らくその場にいた数人が同じように彼女を憐れんだだろう。
 あとで美味しいものでも買ってきてあげよう。少し休ませてあげないと。そんな考えが脳裏に過る。普段は活発な彼女も、まだ若き警察官なのだと実感した――その時だった。彼女ワッと顔を覆ってさめざめと肩を震わせた。


「――……ない」
「うん、どうしたの?」
「も、諸伏警部が足りないんですぅ……う、ぐすっ、ぐす……」


 ――あ、この人めちゃくちゃ大丈夫だ。

 感想は大なり小なり、しかし誰もがそう考えただろう。当の本人は至って真面目に落ち込んでいるし、どうしたものか。上原は困惑しながら肩を叩く。

「前は泣いてなかったじゃない……」
「だ、だってぇ〜……! あの時はしょうがないって思ったけど、今は会えるのに会えないんですよ!! 無理、残り香がありすぎます!」
「今だってしょうがないわよ。諸伏警部も聞き込み頑張ってくれてるんだから」

 そうですけど、高槻は露骨に視線を落とした。

「でもこんな興味も知性もない男とずっとやり取りしてて、優雅で知性溢れるエロティックな男に励まされたいと思うのは普通じゃないですか……」
「え、エロ……」

 上原は思わず体を強張らせてしまう。そんなことも構わずに、高槻はメールの更新ボタンを連打しながらハァ、と欝々しい様子でため息を零した。その目に涙の筋はない。本当に精神的にタフなのは、もしかしたら彼女かもしれないとも思った。

 しかし、その目がパっと一件のメールを目にした途端に覚醒する。一番下までスクロールすると、捜査一課の一員らしく厳しい表情で立ち上がった。

「次の会合の招待です! 時間は週末の夜八時――同伴者を一人連れていけるそうですが」
「同伴者――。難しいわね、あまり目立つ人を付き添わせることはできないし」
「由衣さんが適任だと思います。男だと警戒が強くなる傾向にあるので……」

 輪郭に手を沿わせて、一度判断を仰ぐべきだと呟きながら高槻はパソコンに向き直る。ディスプレイに目を走らせていると、そのキーボードに滑らせた指先に誰かのものが触れた。耳元から、低くゆったりとした声色が囁かれる。


「いえ、私が行きましょう」


 バっと振り返って、高槻は口を半開きにしたまま顔から耳から鎖骨までを真っ赤に染め上げ、何も言えないままに目をひん剥いた。傍から見てもわかるほどに動揺している。最早彼女の顔に先ほどまでの真剣さは一ミリも――否、別の方向では真剣そのものとも言えるかもしれない。

「諸伏警部! お戻りですか」
「ええ、関係者に粗方話は聞けましたから。どうやら今回の会合には上層部の誰かが参加するそうです。妙に情報を隠したがるような素振りでしたから、確かかと」

 彼は真剣な眼差しのまま、高槻のメール画面をスクロールしていく。ツンっと手入れされた爪先が手の甲を掠めるだけで、彼女は人生の終わりのような嘆きを零した。その顔には「もう手は洗いません」と書かれているのが、捜査チームにはありありと見えていた。

「高槻くん、今回で仕掛けましょう。ぜひ相談したいことがあると、なるべく切羽詰まったように返信できますか」
「あ、はぁい……」
「……聞いてます?」
「一言一句一呼吸漏らさず」

 はあ、とぼんやりした視線ながらも耳を傾けてはいるようなので、諸伏は意に介さないことにした。メールの履歴を眺めていると、彼女が逐一次に繋がるような布石を落としていることも読み取れる。ターゲットに話を持ち掛けるときのために、それらしき単語を怪しまれない程度に、何通かに一度含ませていた。その鮮やかさには、つい微笑みが浮かぶ。目下から「ひぇっ」と怯えたような声が零れた。

「わ、笑った〜……。仕事の疲れもぶっ飛びました……」
「また馬鹿なことを――」

 ふ、と諸伏は思わず吐息交じりに笑い声を零してしまった。
 普段であれば冷たく一蹴するところであったが、諸伏の精神も疲弊していた。
 彼もまた、この捜査にプライベートの時間の多くを割いてきた一人である。特にここ数日は裏取引の関係者に聞き込みや取り調べを行っていたこともあり、根を詰めていた。普段はぴしっとしたシャツやジャケットに、座りジワが目立つのはその所為だ。
 そうであるからなのか、ないからなのかは分からないが、諸伏の目にはいつも通りの間抜けとも思える表情が妙に愛着を孕んで見えたのだ。彼女が仕事をした上でそうであると知れば、尚更。


「百尺竿頭に一歩を進む、慢心せずに努力するのは良いことです」


 ぽん、と大きな手のひらが彼女の頭に乗る。
 手の甲だけでも散々騒ぎを起こした今の高槻には、その温度はこの世のものとも思えなかった。危うく鼻血が伝いそうになるのを、間一髪指で防ぐ。指が次第に血液を伝わせていくのを見て、諸伏は小さく苦笑を零した。

「良いことですが、もう少し冷静になれませんか」

 デスクにあるティッシュを取って、ぎゅうと鼻を摘ままれる。高槻はうるうると目を潤ませながら小さく首を振った。

「む、むりでふ……」
「彼女は最近ずっとこんな調子で?」
「さっきから少し様子は可笑しかったですが、警部が来てからは限界が……」

 上原が苦笑交じりに肩を竦めた。
 諸伏はそうですかと相槌を打ってから、彼女の隈のできた目元や、手入れされていない毛先を見遣る。それは決して汚らしいものではなく、警察官の使命に身を捧げている者の勲章だ。
 乾いた指先がそっと目元をなぞった。涼やかな瞳が細められる。
 ゆったりとした仕草に見惚れていると、背後からそんな諸伏の襟首をむんずと引っ掴む手が現れた。浅黒い肌に心当たりはある。


「ったく、お前仮眠室から逃げ出しやがって! はやく寝ろっつっただろうがよ……」
「ぎゃ〜! 国宝をそんな風に扱わないでください!文化財保護法違反で五年以下の懲役または百万以下の罰金ですよ!?」
「上原ァ、こいつも貰ってくぞ。仮眠室にぶちこむ」


 大方ロクに寝てないんだろ、と大和は精神状態がすれすれの面子を片手で引きずりまわした。仕事に夢中になると食事も睡眠も忘れ去ってしまうのは、彼らの共通点だ――顔の傷を歪ませて、盛大に息をつく。まったくもって、二人して優秀なのだかポンコツなのだか、世話の焼けることである。