08
私は家に帰ってから、黒い癖毛頭を探した。
彼に伝えたい、この高揚を。爆弾を解除している時とは違う、ドキン、ドキンって高鳴る鼓動を。確かに怖かったけれど、本意なわけじゃなかったけれど――、校舎から出てきた世良の姿が、一瞬でも自分に重なった気がした。嬉しくて、頬が熱くて、そのことを松田に伝えたかった。
しかし、彼の姿が見当たらない。ここ一週間、いつだって数メートル以内を浮かんでいたと言うのに。私がそわそわと廊下をうろついていたら両親が心配そうに眺めてきたので、慌てて自室に戻った。
確かに、四六時中いてほしいわけじゃなかったけれど、今くらい話をしてくれても良いのに。そう思ってしまうのは、やはり身勝手だろうか。それとも――。
「成仏、しちゃったのかな……」
独りごちると、言葉は虚しく自室の中に響いた。迷惑だったはずだ。私は幽霊に関わりたくなくて、まして犯罪者探しだなんてもってのほか――だったはず。でも、私は自分の言葉に肩を落としていた。
ふと部屋を見回す。せめて、お礼だけでもと思った。警察官たちが私に向けた感謝の気持ちは、本来松田に向けられるものだ。私じゃない。――私は親に音が聞こえないよう、こっそりとベランダから屋根伝いに下に降りる。
夜の街は、昼よりも幽霊がクッキリと浮かんで見える。力がどうこうなるのかは知らないが、単に透けた姿がよりクリアに見えるというか、そういう感じだ。だから、私にとって夜道はさして恐ろしい場所ではなかった。幼いころは、よく外で彼らと遊ぶために、心配性な両親に黙ってこうして抜け出したものだ。
夜の空気がツンと肺の奥に入り込んでくる。ぱかぱかと浮かぶスリッパで、不釣り合いな固いアスファルトを踏みしめた。辺りを見渡しながら、そのシルエットを探す。やっぱり、もういないのかな。十分ほど住宅街を歩いて、諦めかけた時に、ふわっと光る霧が目の前を遮った。――違う、煙だ。煙草の煙。
その煙の奥に、彼は何かを見上げながら立ちすくんでいた。闇に溶けるような真っ黒なスーツに駆け寄ると、彼はフウ、と煙を空に浮かばせた。
私が駆け寄ると、昼間よりもやや気だるそうに見える視線がこちらを振り向く。彼を目の前にしたら、先ほどまで伝えたいと思っていた感情がうまく言葉にならなくて、「あの」「その」と何度か言い淀む。
松田は、指に煙草を挟んでフ、と呆れたように笑う。片方の眉を器用に下げて、フィルターを噛んだまま私の頭を軽く撫でた。
『……悪かったな。怖い思いさせて』
不遜な態度を潜めた姿が、そう告げた。その言葉に、私は出かかった声を固めたまま彼を見上げた。
『素人を巻き込むなんて、そもそも警察官がしちゃいけねえことだった。昔から頑固なところが抜けなくてな』
――悪かったよ。松田は今一度、私に向かって謝罪をした。
違う、私が言いたいのは、彼の謝罪に対する許しではないはずだった。でも言葉が出てこない。何を言ったら良いのか、分からない。
『――そもそも、死人が現世に関与しようとすんのが可笑しいんだ。俺の言ったことは忘れてくれ』
どこか優し気に。まるで、私に気にするな、とでも言うように、彼は笑う。いつもは子どもみたいな目つきが細められて、煙草の煙と共に深く息をついた。くるりと踵を返す、彼の手を慌てて掴んだ。
「あ、ありがとう」
どもりながら告げた言葉に、松田は不思議そうな表情をした。僅かに、その首が傾げられる。
「私、本当は世良ちゃんのこと、守りたかったと思う……。危ない目にあったり、人から嫌な言葉を向けられるのも、嫌だなって思ったから」
――あれ、なんで私、ここで世良の話をしたのだろうか。自分で言葉を紡ぎながら、頭の中では整理できていない。殆ど感情の赴くまま、しどろもどろな言葉だった。だから、その。繋げる言葉を探しているときに、松田が『落ち着け』と笑った。
たった一言、掠れた声が笑った。煙が一緒に吐き出されて、太い眉が八の字に下がる。
こんなふうに笑うんだと、想った。思い出せば、彼が声を上げて笑うのを、この時に初めて見たかもしれない。
ぐるぐると巡っていた言葉たちが、彼の笑い声一つで、すーっと落ち着いていく。冷たい空気に手を摩りながら、私は呟いた。
「……幽霊は、魂の歩く道なんだって」
『なんだって?』
「昔、おばあちゃんが言ってたの。幽霊は、死んだ人が最後に、この世に忘れ物がないかって魂が歩いている道なんだって。だから、忘れ物がないってわかれば、みんな黄泉の世界に行くんだって」
それは、例えば未練とかと呼ばれるのかもしれない。初めて出会った時に松田に話さなかったのは、隠していたわけではなくて、それに確証はないからだ。幽霊たち自身も、私にも分からない。ただ、彼らが消える時、清々しいような表情をしていることだけは確かだった。
「もしかしたら松田さんの忘れ物は、そういう事件への……心残りなのかも」
『お前、よく回りくどいって言われる?』
「五月蠅いなあ。だからさ、私……捜査協力、するよ」
何が言いたいのか、と結論を急かす男に結論を叩き出せば、松田はその目を大きく見開いた。元より大きな瞳は、見開くと周囲の灯りをキラリと取り込む。その中に、口を引き結んだ不細工な表情の私が映っていた。
『……途中で無理っつっても、ケツ引っ叩いて追いかけるぞ』
「け……それは、嫌だけど」
『安全とは言えねえ』
その後、二、三の押し問答が続いた。彼の言葉はまるで私が捜査協力をすることを拒んでいるような口ぶりだった。ああいえばこういうし、こういえばそういう。分かっている、分かっていて、申し出ているのだ。
私は僅かに唇を尖らせて、彼の反論に被せるように言った。
「私しかいないんじゃ、なかったの」
つん、と言い切った言葉に、松田は噴き出し、今度は先ほどよりも大きく口を開けて笑った。彼があまりにも笑うから、私は益々口をひん曲げて、子どものように拗ねた。笑いが収まったころ、ようやく松田は目じりを拭いながら頷く。
『そうだった。お前しか、いねえんだわ』
私は彼の言葉に、笑った。そうでしょ、と言いたげにしていたら、松田は軽く私の額を打つ。額を押さえて、私は彼の方を軽く睨んだ。『なんだよ』揶揄うように、薄い唇が笑う。
「……ねえ、ちょっと一つ、良い?」
◇
「百花〜! 見て、これ可愛いでしょ」
そう笑う黒髪の彼女の耳元には、私のものではない、少しシンプルなデザインのイヤリングが揺れていた。私はそれに苦笑いをして頷く。傷つかないかと言われたら嘘になるけれど、心はそれほど重たくない。
友達といろいろと話をしていると、廊下から元気の良い声が飛び込んだ。特徴的な呼び方と、女の子にしてはハスキーな声色。振り向けば、グリーンアイはやや不安げに私の方を一瞥した。
「ふ、なにあれ」
黒髪の少女が、笑う。「ていうか、あの子女なんだよね」「レズじゃない? 狙われるかもよ」「いや~、案外男狙いだったりして」――続くようにせせら笑う声たち。分かるよ、同じ方向を向いていないと不安なんだ。新しいイヤリングを耳に下げた少女が、私のほうに大きな涙袋をぷっくりとさせるような笑いを向けた。
「ね、百花。あの子無視しちゃいなよ」
「うん、そうしなって」「変な子だし」「話し方とか馬鹿っぽいよね」――続く声に、私は息を少し吸った。
誰かに合わせることは楽だ。こういう時にも、一人に擦り付けてしまえば、残りの多数は楽をできる。
一緒じゃないことは不安だ。自分とは違う他の全員が、私を指さしている気がする。あれって変だよね、と噂をしている気がする。脇役がでしゃばることに、厳しい視線が刺さるような気持ちになる。
それは、私が一番よく知っていた。
けれど――それに逆らったとき、風が通ったみたいに心が軽かったことも、私は知ってしまった。
ちらりと、傍らに視線を向ける。
私にしか見えない影は、そこに立っている。昨夜私と交わした約束の為だ。彼の言う捜査に力を貸すかわりにと、私が頼んだこと。女子高生たちの中でポツンと際立つ黒色が、私の心を落ち着けた。
彼は、あの時――導線を切った時と同じように、私の手を包むように握った。
私は緩やかになる鼓動に、少しだけ笑った。隣に立つ男も、唇をニヤリとさせていた。
「……世良ちゃん、そんな子じゃ、ないよ。すごく素直だし、良い子だと思うな」
怖かった。集団から一歩踏み出すこと――群れからはみ出ること。露骨に、その場の空気が固まる。ピリっとした空気が、私にも伝わった。私はそれから逃げ出すように、世良の待つ廊下のほうへつま先を向ける。
『最後にビビったな』
「無理、今のでわりと限界だって」
真顔で、周囲に聞こえないくらいの声色を零すと、松田はクツクツと笑った。さあ、世良に先日のことを謝りに行かなくては。背後から聞こえる声が私の心を刺したけれど、これからどうしようと不安はあるけれど、不思議と後悔だけはなかった。
――私の手を、繋いでいてほしくて。勇気が出る……気がするから。
できたら私だって、私のことを好きでいたい。あの警察官たちが真っすぐに敬礼してくれた、あのままの私になりたい。心の奥にあった願いが、欲求が、沸々と私の身を熱くさせるのだ。
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