09
部屋にチャイムが鳴り響くのと、教師の持つチョークがぽきりと二つに割れるのは、ほぼ同時であった。現代文の教師はチャイムの音を聞いて慌てて板書を済ませてしまうと、「今日はここまで」と号令を掛ける。ほとんど意識がまばらになっていた生徒たちは、号令と共に物音を大きくした。
私も小さく息をついて、机の上に出ていた用具を鞄に仕舞う。そして、もう一度、今度は先ほどよりも長く息を吐いた。
数日前、友人に声を上げて以来、私はクラスの中で孤立していた。
元から友達が多いほうではなかったし、噂は水面に一滴垂らした淀みのように薄く広く浸透していくものだ。挨拶を無視されるわけでもなく、露骨に避けられたり物を隠されるわけでもない。ちょっと仲の良いグループから抜けて、話す人がいないだけ。ただ、なんとなく、周囲から私の居場所はないと言われているような気がした。
特に辛いのが、この昼休み時間だ。
何せ、昼食を一緒に摂る子がいない。噂が広まっているクラスの中で、「一緒に食べよう」なんて誘う勇気もないし。トイレに篭るのは流石に嫌だ。せめて昼食をパンとパックジュースにして、携帯を弄りながら時間を紛らわせるしかないのだ。
なんだかパンをもそもそと食べている間さえ、後ろ指をさされているような気分になる。私はトイレでも行こうと携帯を持って席を立ち、廊下に出ようとした時だった。軽く肩を叩かれる。振り向いて、意外な姿に私は目を瞬いた。
「松田さん、めずらし」
『メシ食ってないだろ』
「だってあの空気の中にいつまでもいれないし」
――松田は以前と変わらずに、私の周りをよく漂っている。家や通学路も殆ど近くにいるが、唯一学校の中、私が学生業に勤しんでいる時間だけは、彼はふらりと姿を消す。――曰く、学校なんて窮屈な場所、もう一度経験したくはないらしい。
まあ、私も大人になってからもう一度授業を聞けと言われてもつまらないだろうし、そんなものだろう。下校時間になれば大抵どこかからふらふらと姿を現すが、学校で声を掛けてくるのは珍しかった。
私はちらりとクラスのほうを一瞥する。
私が数日前まで入っていたグループは、今日も楽しそうに机をくっつけて、スナック菓子をテーブルの上に広げ談笑している。その机が一つ減ったことなど、何ら意に関していないように。
ふと、彼女たちの一人と視線が合った。私が慌てて逸らすと、そのグループが何やら声をあげて笑った。それが、すごく嫌だった。
気まずく首筋を掻いていると、松田は小さく欠伸を漏らす。そしてくいっと親指を背後に向けた。
『行くぞ、メシ持ってこい』
「……どこに?」
『良いから、早く』
説明くらいしてくれても、と思うけれど、特にするべきこともなかったので、彼の言葉に従うことにする。机の横に引っ掛けていたコンビニのビニール袋を取ると、のそのそと歩くそのシルエットを追いかけた。
階段をいくつか登った先、さもここがゴールだと言いたげに『ほら』と、松田は立ち止った。私はその扉を見て、顔を些か歪める。
「ここ、屋上じゃん」
私が言えば、松田は当然のように頷いた。
「いや、屋上は立ち入り禁止でしょ。鍵かかってるし」
『立ち入り禁止――って言われたことあったか』
「そりゃあ……ないけど」
確かに、言われたことはない。けれど、そもそも鍵がかかっているし、鍵がかかっている場所は基本的には立ち入らないのではないか。ないけど、と口を尖らせた私を見て、松田は軽く笑った。――『じゃあ良いだろ』と。
『んなもん、書いてない校則が悪い。ルールになきゃ自由に使うだけだぜ』
「さっき現代文でやったけど、揚げ足取りって知ってる?」
『コイツのことか』
ぎゅう、と軽く頬を抓られた。強い力ではなかったけれど、伸びていく頬に「痛い痛い」と非難の声をあげる。松田はフン、と鼻を鳴らした。私は伸びた頬を手でおさえながら、その偉そうな表情を睨んだ。
「ていうか、鍵掛かってるって言ってるのに」
『鍵? はっ、こんなん鍵とは言わねえ』
「言うよ」
何言ってんの、と眉を顰めれば、もう一度その手が頬に伸びてきたので、慌ててひょいと横に避けた。松田は掴み損ねた頬を悔しそうに一瞥してから、ハァと大きくため息をつく。
『お前、髪よくいじるだろ。ほら、ヘアピンとか持ってねえの』
「持ってるけど……」
『一本は真ん中で曲げて……そう。もう一本は伸ばして直線にしろ』
彼の指示通りに、曲げた一本を鍵穴に差し込み、その上から伸ばしたものを入れ、ぐいぐいと当たり処を見つける。数度角度を変えているうちに、鍵が動く場所があった。ピンを回すと、扉からガチャン、と小気味の良い音が聞こえた。
その音を捉えて、松田は機嫌よさそうに口角を上に持ち上げた。そして私の頭をぽんぽんと軽く叩く。声色まで、なんだか弾んで聞こえた。
『高槻、お前やっぱセンスあるな』
「勝手に犯罪技術磨かせないで……」
ピンを取り出したあたりでもしかして、とは思っていたが、一つ知らなくても良い知識が増えてしまった。松田は不思議そうに『シリンダーじゃなきゃこうはいかねえよ』と言う。そういう問題ではない。
『帰るときに同じ方法で閉じときゃ良いんだよ、こういうのは』
彼は言うなり、さっさと扉を透き通り姿を消してしまった。私は小さくため息をつきながら、しかしほんの僅かに高鳴る鼓動を感じながら、ドアノブを捻る。重たい扉は、風に煽られて尚更重たく感じた。
風に押されないよう、少し強い力でぐっと扉を押し開ける。
空は青かった。鱗雲が薄く広がっている。風が強いせいか、電車の車窓のように空の景色さえ移り変わっているように見えた。その青い空に、ぽつんと、松田のシルエットだけが黒く残っていた。たぶん、彼から見たら私の影だけが黒く残っていただろう。
「さ、寒い……」
私は腕を抱えた。もうすぐ十二月に差し掛かる季節。制服のカーディガンだけでは秋風を防ぐことができなかった。しかし、松田がどっかりと我が物顔で腰をおろすので、私も試しにその隣に座ってみる。アスファルトは、陽の光でじわりと温まっている。
空を見上げた。前髪が風に攫われていく。教室の空気よりも、ずっと軽く感じた。
「気持ちい」
一人、感じたことが唇を突いて零れる。
松田は、ポケットから取り出した煙草に火を点けながら片側の口端を小さく持ち上げた。彼には風は関係ないのだろう、私の髪や制服は風に大きく靡いているのに、煙は真っすぐ上に上がっていた。
『だろ』
「……うん。はじめて来た」
『俺も昔、嫌なことがあると今みたいに屋上に逃げてきた。クラスにいるのも校庭にいるのも嫌でしょうがなかったから』
意外だった。松田は自分の行動に自信を持っていたし、顔だって整っている。傍若無人と言われればそうだが、それを当然と思わせるような性格をしていた。私のように、部屋の隅で縮こまっているタイプのようには、見えなかった。
私はそう思いながら松田を見つめると、彼には表情が読み取れたのだろうか。『まあ、いろいろあったんだよ』、松田は煙草を齧った不明瞭な発音で言った。
『俺は、お前と違って可愛げがなかったから。分かってくれねえ奴らなんてクソ喰らえだって思ってたけどな』
「ふ、ちょっと想像できる」
『うるせ』
イッ、と威嚇するように、彼は小さく歯を見せた。私はその表情が面白くて、けらけらと声を上げて笑う。――そういえば、嫌われるかもと怯えないままに、こうして笑ったのはずいぶん久しぶりのように思った。空の下に笑い声が響いて、心地良い。
松田は私の笑い声に、つられるようにクク、と肩を揺らす。そして、指に挟んだ煙草の先を見つめながら、フェンスに凭れてこちらを見る。
『……取り繕わないってのはしんどいが、いつか取り繕わない自分を好きでいてくれる奴がいる。そういう奴を、大事にしてくモンだ』
どこか懐かしむように、彼は灰を落として言った。
私は松田の言葉に、本当だろうか、と胸を鳴らす。本当に、そんな人がいるのだろうか。いたら、良いのになあ。「了解です、先輩」と見様見真似の敬礼をすれば、松田も『おー』と気だるげに返事をした。
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