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 秋の屋上は肌寒いが、生ぬるい教室の中にいるよりもずっとマシだった。
 私はそれから、昼休みになると松田に教わったようにヘアピンを使って屋上に訪れる。今ではブランケットまで持ち込んで、自分の城のようにフェンスに凭れていた。最近では貯水槽の影になる場所ならば、風が直接当たらないことも分かってきた。
 昼休みは、屋上で好きなジュースを飲みながら、好きな雑誌を読む。それが最近の日課だった。一度踏み出してしまえば、これが案外、友人に合わせてニコニコとしていた以前の昼休みよりも快適に思えたりする。
 クラスの中は相変わらずだったけれど、松田の教えてくれたこの屋上が、心の逃げ場のようになっていた。嫌なことを言われたり、一人でいるのがつらくなったときは、決まってここを訪れる。そのルーティーンがあるだけで、心に僅かな隙間が生まれる。

 いつものように、屋上に出ると、白い靄が目の前を煙らせた。ココアに口をつけながら入り口を跨ぐと、近頃ようやく見慣れた生意気そうな目つきと視線が合う。「松田さん」、名前を呼べば、彼は無言のまま小さく手を挙げた。

 彼と初めて出会ってから、一か月が過ぎようとしていた。
 例の爆弾騒ぎの後は、案外砕けて付き合えていると思う。最初はその素っ気ない態度に壁を感じていたが、近頃はそれが彼の素なのだと気づいた。基本的に何に対しても無気力で面倒くさがり、短気に見えて案外冷静で穏やかな部分がある。例えるなら気まぐれな猫――というか。(そういったら、たぶん怒るだろうけど。)
 松田という男のことが少し分かってこれば、私も警戒心が解けて、気兼ねなく話すようになってきた。――まあ、単に友達がいなくなってしまったので、ほかに話し相手がいないとも言う。

 彼との会話はテンポが良いし、何より最初から自分の一番弱いところを曝け出しているような気がするので、気を遣う部分が殆どなくて楽だ。たまに調子に乗っていると、びしっと手の甲で叩かれるのも、実はそんなに嫌いじゃない。

「これ可愛いなあ」
『んなに高くねーじゃん。買えば』
「そのへんのお店じゃ色のバリエーションがないんだよね。もうちょっと大きな手芸屋さんとか行かないとさ」

 雑誌に載っていたブローチの作り方を見ながら、今日の昼食を齧る。購買で買ったメロンパンは、少しべたついていたけれど甘みが強くて美味しい。松田はくあぁ、と欠伸をもらしながら腕を枕にしてフェンスに頭を凭れさせる。そもそも、幽霊って睡眠が必要なのだろうか。

 くせ毛をクシャっとさせながら目を閉じる横顔を見つめる。こうしていると、やはり整った顔つきだ。初めて会った時も、同級生とは異なる大人っぽい顔つきに、アンバランスな子どもみたいな目つきが光っていて、ドキリとしてしまった。世良ほど派手な顔つきではないけれど、生前はさぞかしモテただろうと思った。
 私の視線に気づいたのか、チラ、と片目が開いてこちらを見た。『何見てんだ』と尋ねる松田に、私は「生きてる時はモテてそうだなって」と素直に返した。彼は、フン、と一度鼻を鳴らしたきりで、多分肯定したのだろう。

 正直に言うと、私は生まれてから恋人というものができたことはない。好きな人、憧れの先輩――そういったものに出会ったことはあるが、どれも想いを告げられないままに終えていた。だからだろうか、そういう態度の松田が、尚更私の知らない世界に住む人間に思えた。
「え、彼女とかさ……やっぱいたの?」
 私はほとんど好奇心を隠し切れず、どきどきと尋ねてみた。松田は面倒くさそうに頭を掻く。
『面倒だから作ってねえ』
「なんで!」
 そんなに格好良いのに、勿体ない。やあやあと私が食い下がると、松田がぽすんと私の前髪を押さえつけるようにして手を置いた。そこで、私は少し自分の言葉を思い直した。
 何で――だなんて、どうしてそんなことを言ってしまったのか。彼は死んでいるのだから、何で、どうしてだなんて言ったって、今更変えることはできないのに。しまった、言いすぎてしまったなあ。
 制するような手のひらに、私は軽く口を噤んだ。ごめんと謝ったら、それはそれで悪いような気がしてしまって、無言のまま少し項垂れる。

『安心しな。マジで面倒だっただけだ』

 気にするなと、言葉にはしなかったが、彼の頭を軽く叩く仕草が語っていた。私もそれに小さく頷く。
 松田は、無気力で面倒くさがりで、物事を冷静にみる男だ。だけども、優しい人だった。普段から欠伸をしたり気だるそうにしたりすることが多い彼が、今のように少し眉を柔くして、小さく笑う顔。その笑顔を見ると、私も自然と頬を緩めた。


「なに笑ってるんだ?」


 急に背後から掛かった声に、私はびくっと肩を揺らして振り返る。私と揃いの青い制服が風に靡いて、長い脚が纏う短いスカートがふわっと揺れた。――松田が小さく『おお』と呟いたのを、私は聞き逃さなかった。このエロ親父。後でしっかり言っておくけど、あれはスパッツである。

 世良は私の隣にひょいっと軽そうな腰を下ろす。松田とは少し違う、固めの癖毛が私の肩に触れた。
「最近、教室に行ってもいないからさ。どこに行ったのかなーって後をつけてたんだ」
 私が話す間もなく、そのハスキーな声は語りだした。彼女の話し方には、厭味な風がない。
「そしたら、手慣れた様子でピッキングしだすんだから、驚いたよ。意外と行動派なんだなぁ」
「ああ〜……それは、ちょっと悪い先輩から教わって」
 あはは、と苦笑いをすると、後ろから『誰がだよ』と非難の声が飛んできた。本当のことなのだから、しょうがない。私の表情を、グリーンアイはジっと見つめた。しばらく私が空笑う表情を見つめて、それから彼女も僅かに口角を緩めた。

「聞いたんだ、ボクのこと庇ってくれたって」

 急に、私の胸の奥がどくっと鳴った。僅かに視線を逸らす。庇った――と言えるのだろうか。だって、その前には私は彼女たちと同じことを言っていた。急に帰ったことは謝ったけれど、まだ胸の根っこには罪悪感が眠っていた。
 世良は私のそんな気まずさなど気に掛けることもない笑顔で、「ありがと」と言う。特徴的な八重歯が覗いた。
「……あ、あのね。私、実は……」
「ボク、そういうこと言われるのは慣れてるんだ。別に気にしたこともないし、ほら、前も言ったけどボクはボクが好きだから」
 世良は軽く首を傾げて、細い肩を内側に入れるように竦めた。
「でもね……百花くんがそう言ってくれたって知って、嬉しかったんだよな。もしかしたら嫌われちゃったかも、とか思ってたからね。それに、ボクの大切な人も守ってくれたし」
 そして、女優のような顔立ちを、いつものような無邪気なものではなく、眉を上げてニヒルに微笑んだ。


「ボク、キミのこと好きになっちゃったかも」
「……へっ」
「Cheers(ありがと)!」


 ちゅ、と頬に柔い感触が落ちる。私は頬を押さえて、彼女の姿を見守ることしかできなかった。呆然とする私を見て、世良がいたずらっぽくニヒ、と笑う。みるみるうちに顔やら耳やらが熱くなっていくのが、自分自身でもありありと分かった。

 ――いや、違うのだ。分かっている。彼女の言う好きというのは人として、ということであり、彼女がハーフで帰国子女であることも知っている。知っているのだが、それとこれは話が別である。

 顔が真っ赤に染まっていった私の肩に、世良はそのくせ毛を擦りつけるようにスリスリと凭れかかった。私よりも少しばかり浅黒い肌は、触れると温かかった。
 だって、だって――「へへ」だなんて、可愛く笑う彼女が先ほどの彼女と同じであると認めたくないほど、色っぽく格好良かった。
 
 私の魂が抜けていくのを、松田はやはり欠伸を零しながら、傍らで見守っていた。


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Shhh...