08

「へえ、大学生かあ」

 ――松田、とぶっきらぼうに名乗った彼は、助手で「ッス」と控えめに頷いた。このあたり、大学が多いからなあ。彼の指定した駅へと車を走らせながら、少しだけ世間話をした。やっぱり、どこか無愛想で淡々とした喋り口だったが、話す内容はそうでもないので、元からそういう男なのかもしれない。
「二個違いでしょ。敬語じゃなくても良いよ」
「――あんたは、この辺に住んでんの」
「うん、結構近くかな」
 へえ、と淡々とした返しが返ってくる。彼と話してからほんの二十分ほどだったが、その口調にも何も思わなくなってきた。この季節だから、もう就職を決めた後だろうか。あまり聞くのもどうかと思い言わないが、ずいぶんと解放されたような空気感がある。
 窓から見える、ぽつぽつと灯り始めた街灯が光のラインのように通り過ぎていくのを、彼はぼうっとした様子で眺めていた。小説をどっさりと運んで眠りこけていたし、どこか気まぐれそうな人だ。
 
 駅のロータリーにハザードを焚いて車を止めると、松田は持っていたショルダーを握って、こちらに向かって笑みを向けた。彼の笑顔を見たのはそれが初めてだ。笑うと、幼い風に見えた顔がますます幼く見えた。

「ありがとな。また会った時には礼するよ」
「気にしないで。楽しんでおいで」

 車から出ていく男に手を振ると、そのダウンジャケットがよろめいた。後ろからドン、と押されたようで、その口から小さく「うお」と声が漏れる。

「陣平ちゃん、彼女いたなら言えよな!? 今見掛けてびびったんだけど」
「るせ、彼女じゃねーし、教えもしねーよ」

 背後を振り向いた松田が、何やら鬱陶しそうに手のひらでもう一人の男を追い払う仕草をした。どうやら、彼が噂の罰金制度を課した友達らしい。私を松田の彼女だと勘違いした様子のまま、彼は興味津々――と言った風に開いたドアの中を覗き込んだ。

「ども〜、陣平ちゃんのマブタチの萩原です」
「……萩原くん」

 こちらを覗き込んだ、ニコニコっとした笑顔に、驚いて目を丸くした。私が名前を呼ぶと、彼はぱちっと目を開けて「みずきさん」と返事をするように私を呼ぶ。

「え? みずきさんって松田と付き合ってたの」
「だぁから、ちげーっての」

 どす、と萩原の脇腹に付いた肘打ちは、案外良い音を響かせた。――もしかして、萩原が言っていた『幼馴染』というのは。以前、飲み屋で彼が言っていた言葉を思い出す。確かに、一言で表すのは難しいような、なんて納得しながら、私は苦笑いを浮かべた。





「へぇ〜、世間って狭いねえ」

 萩原はジョッキを傾けて、感心したように頷く。車は、近くにあるパーキングに停めて、彼らの誘いに乗り一緒に夕飯をとることにした。最初は「俺たちだけ飲むのも」と萩原が運転を変わろうかと渋っていたが、夕飯だけでも十分だと断った。
 一杯目は遠慮がちだったが、今は我が物顔でジョッキをしっかりと握りしめている。ちなみに、松田は一杯目から特に気にした様子もなかったが――。

「本当に。二人が幼馴染だったなんて」
「幼馴染っていうか腐れ縁だろ」
「あはは、それ、萩原くんも言ってたよ」

 さすが幼馴染、と茶化したら、松田は少しぶすくれた様子でジョッキを呷った。萩原ほど太い首ではなかったが、目立って飛び出た喉仏がゴクゴクと鳴る。
 通しでだされた枝豆の皮を剥き小皿に出して、それを摘まんだ。肉も食べなと差し出された焼き鳥も、串から肉を削ぐようにして皿に移した。

「ビックリした、二人が付き合ってるって思ったんだから」
「なんでそうなるの。私がフラれたの知ってるくせに」
「いやあ、陣平ちゃん案外手が早いところあってさ……いでっ」

 イカの唐揚げをモグモグと膨らんだ頬の中にいれながら、松田は勢いよく隣に座る長髪を引っぱたいた。これもまた、なかなかに小気味良い音が響く。萩原がテーブルに突っ伏すようにして項垂れると、松田は松田で勝ち誇ったように鼻を鳴らしていた。

「お前にだけは言われたくねえんだよ、色ボケ野郎」
「俺ぇ? 別に手早くないだろ。じっくりじわじわアピールするタイプだから。ねー」
「ねって言われても……」

 私は苦笑して、皿に移した焼き鳥を口に運ぶ。彼らの色恋関係など、見たこともないのだから――あ。そういえば、萩原を会った時に思い切り平手を打たれていたのは見たけれど。「寂しくさせちゃった」――と。確か、そう言っていたような気がする。
 出会った時のことを思い返していたら、松田はまるでテレパシーで頭の中が通じ合ったかのように、例の彼女の話題を振り始めた。

「そういや、前の彼女もアレだったんだろ」
「……今その話すんなって」

 ニヤっと、松田はニヒルに口角を持ち上げた。どうやら萩原にとってはあまりいい思い出じゃないのだろう。(――ビンタされていたし、当たり前か。)松田とは対照的な、少し厚めの唇を苦く歪ませていた。
 私は聞いてはいけないようなことだろうと思って、「お手洗い行ってくるね」と席を外そうとする。萩原が、慌てたように「そういうんじゃないよ」と弁解した。

「ごめん。追い払おうとかしたわけじゃなくて……」
「もともと二人で飲むつもりだったでしょ。気にしなくても良いのに」
「ホラ、みずきさん気遣っちゃっただろ」

 じろり、と垂れた目が松田の方を一睨みした。松田は私の方を見ると、軽く片眉を持ち上げ「悪かったよ」と言った。――本当に、気にしなくても良いのだけど。二人がそう言ったことを互いに言い合えるほど仲が良いのは十分にわかったし、そう思うとやはり自分が邪魔なのではと思う。
 私はビールと同じジョッキに注がれたウーロン茶を飲みながら、早めに出ていこうかと時計を一瞥した。もしかしたら、気づいたのだろうか。いや、一瞬だったし、それは私の勘繰りすぎか。萩原が、ぽつりと話し始めた。


「浮気だったんだよ。結構な率で浮気されちゃうんだよね、俺」


 はぁ、と重くため息をつきながら、彼は揚げ豆腐を手元で半分に切る。私は、驚いた。浮気――。今でもそれが発覚した瞬間の、グルグルと良くない考えばかりが頭の中が巡り、手元が震える感覚を覚えている。まさか勘違いだろうと思い込みたい心情と、絶対に浮気だと囁く理性。

「寂しくさせた研二くんが悪いのー、だっけ。情けね」
「うるせえなあ。なんでいつもこうなるかね」

 『寂しくさせた研二くんが悪いの』――。
 その台詞が、姿しか見たことのない彼女の姿で再生された。私は、沸々と、ぐつぐつと、怒りが湧くのを感じた。ジョッキの取っ手を持つ手に、つい力が篭ってしまう。
 ――寂しくさせた方が悪い!? そんなわけないでしょ!
 かくいう私の元彼の浮気理由も、『疲れたから』だったっけ。ふざけるな、それだけで、あんな人生が一つ終わってしまったような――そんな気持ちを味わえと言うのか。


「……悪くない。絶対に、萩原くんは悪くない」
「お、おぉ?」

 
 震える声で、私は切り出した。どうして浮気をしておいて、浮気を『された方』が悪役にされなければいけないんだ。あの時は泣くしかなかったけれど、冷静に考えたらアイツらの主張することは可笑しい。
 
「寂しいから何、疲れたから何……! そんなの、浮気するやつの勝手な都合じゃない」

 私は熱くなった感情のまま、目の前にいる萩原の手をガシっと掴んだ。正直、この瞬間にひどく親近感が湧いていた。まさか同じ日に浮気が原因で別れたとは、思いもしていなかったからだ。

「浮気はしたほうが悪い。絶対に悪い」
「へえ〜……。お前、コイツと付き合ってみたら? 多分女の言ってたこと分かんぜ」
「松田くん!」

 叱咤するように彼の名前を呼ぶと、松田は軽く舌を打ち「悪いって」と言った。案外、押しに弱いらしい。意外な一面だ。
 手を取られたままの萩原は、驚いたように一瞬固まったが、すぐにいつものように柔く笑った。

「ありがとさん。そんな風に言ってもらったのは初めてかも」

 照れくさそうに、少し体温を上げて、眉尻が気持ち下がる。――手を取った私も私だったが、その表情を色々な人に見せているのなら――。少しだけ、私は彼の元彼女に対する怒りが収まるのを感じた。