09


「だっははは! 待って、みずきさん最高〜!」

 大口を開けて笑う萩原の横で、私はむすっと口を尖らせていた。萩原は、酔うと笑い上戸になるらしい。先ほど私が箸を滑らせて、掴み損ねた枝豆を松田の額に飛ばしたのを、十分以上は笑い続けている。
 松田は酒が入ると睡眠欲が勝るらしく、私の飛ばしたグリーンのピンボールがすこんっと額に当たっても、うつらうつらと変わらずに船を漕いだままだ。
「もう、やめて……。わざとじゃないんだってば」
「うっひひ……あはは、ハ〜……。ごめんって、でも、ぶふっ、面白すぎて」
 クックック、と彼は喉の奥を鳴らすように笑った。
 その頬はこの間のように血色良く色づいていて、私は時計を見ながらそろそろ帰ろうかと考えていた。さすがに体格の良い二人が酔いつぶれたら、私にはどうしようもない。今ならば松田は怪しい所だが、萩原はまだ歩くことができそうだ。

「ねえ、そろそろ帰らない? ついでで良かったら送ってくよ」

――そう提案したら、萩原も笑っていた目じりを拭いながら頷いた。会計に向かうと萩原が私の分の代金まで払おうとするので、私は慌ててその手を止めた。確かに男女の性別の差はあるが、その前に社会人と学生だ。むしろ私が全額を払っても良いくらいだと思っていた。
「うーん、でも女の子に払わせるのもなあ」
 萩原は太い眉を下げながら、少し口ごもった。
 なるほど、相当のレディファーストらしい。私はため息交じりに、彼の高い位置にある額を軽く自分の長財布で叩く。

「それを言ったら、私は社会人の前で財布を見せられるのも癪なの。お互いさまってことで、割り勘で良いでしょ」

 もちろん、萩原がズルズルと引きずっている松田も合わせてだ。
 松田のぶんはひとまず萩原が立て替えていたが、私は彼に自分のぶんの金額を手渡す。萩原は暫く納得いかなそうにしていたけれど、私が財布を鞄にキッチリと仕舞うと、ようやく観念したようにお金を受け取った。


 松田の体は萩原の横に立てば小柄にも見えるが、決して平均値と比べ小さい方ではない。しかし、萩原は手慣れた様子でヒョイとその肩を担いでいた。どうやら、背丈があるだけでなく、体もしっかりとしているのだろう。
 ぐーぐー、と鼾を響かせる彼を後部座席に押し込んで、行きは松田が乗っていた助手席に萩原が乗った。彼はシートベルトを締めながら「人の運転は久しぶり」と笑った。私もエンジンを掛けながら、それに相槌を打つ。

「車、好きなの?」

 彼の口ぶりから、いつも運転するのは彼なのだろう。先ほどのレディファーストっぷりだと、それも納得だが。私は眼鏡の位置を直しながら尋ねる。

「うん、まあ。父親が昔修理工場をやっていてね」
「そうなんだ。じゃあ結構詳しい?」
「並みほどには。ほら、だから機械とか弄るバイトしてんの」

 なるほど、家具修理のバイトはそういうわけだったのか。
 社会人になってから思うことだが、手に職があるというか、スキルがあるのは良いことだ。あればあるだけ自分の中の選択肢は増えるし、決して無駄に終わることはない。私はもとより好奇心が旺盛なほうだし、一つのことにのめり込むと並み以上には出来ないと――そう思ってしまう節がある。その中で、機械というものとだけは相性が悪かったので、彼が少し羨ましかった。
 
「へえ、じゃあ将来は工学系とか……」

 そこまで口にして、しまった、と思った。
 彼らが大学四年生だと知った時から、自分のなかで勝手にNGにしていたワードだった。将来に関すること、就職に関すること。もしかしたら杞憂かもしれないが、もし悪い結果だったら、傷を抉ってしまうと思ったからだ。
 萩原とは最近会うことも多かったし、松田も良い人だとは思うが、傷を抉って良いほどの関係ではないと分かっていたから。

 私はハンドルを握ったまま、ちらりと萩原のほうを一瞥した。
 赤になった信号機に照らされた、しっかりとした高い鼻筋。暗闇の中で、飛び出た鼻と、それから少し厚い唇だけが光でチラっと光っているように見える。濃く短い睫毛の隙間から、彼の瞳が私を映した。
 
 その口元に、笑顔がなくなっていると気づいたのはその時だった。

 先ほどまで、何があっても笑っていたのに――いや、寧ろ、出会った時から笑いを絶やしたことのほうが少ないだろう。私はドキドキと体を固まらせた。触れてはいけないことだっただろうか。
 私は信号機が青になるのと同時に、「ごめん」と謝ろうとした。その言葉に被さるようにして、萩原が口を開いた。


「俺らね、警察官になるんだ」


 ――しみじみとした、感慨深そうな声色をしていた。
 今までの萩原の、少し茶目っ気があるような声よりも、いくぶんか固く芯が通ったような雰囲気があった。その口元には、それまでのどの笑みとも違う、柔く優し気な笑顔が浮かんでいる。笑みと言うのだろうか――一文字の口端が、本当に僅かに持ち上がっていただけだった。
 ぎこちないような気がしたけれど、なんだか、それは彼の本音だったように感じる。こんなに嬉しそうだと思った自由な笑顔を、私はこの人生の中で初めて見たかもしれない。

「俺ら、ってことは……松田くんも?」
「そ。大学卒業したら、警察学校……ってとこに行って、次の秋には配属される予定さ」
「へえ……」

 その言葉を聞いて、私は彼らの姿を想像した。
 警察というと、やっぱり一番最初に思い浮かぶのは交番の警察官の姿だった。このあたりは治安も良くなくて、頻繁に酔っ払いの仲介やパトロールをする背中を見かけることがある。もちろん、そんなこと警察の業務の一部なのだろうが――。その制服を纏う、彼らの姿が頭の中に浮かぶ。
 青信号に照らされた瞳が、冴え冴えとした青を放っていた。


「ふふ、なんか良いね。似合いそう」


 私は彼らの姿を想像して、声を漏らして笑った。
 「そうかな」と、固い声色が問うから、またやってしまったかと思った。やっぱり、笑うのは良くなかったか。そりゃあ、そうだ。本人たちは真剣に志しているのだから、いくら想像に安くても笑うのは失礼だ。

「えっと、ごめん。馬鹿にしたわけじゃなくてね」
「……似合うって思う?」
「うん、あんまりに想像しやすくて……ちょっと笑っちゃった」

 ごめんね、と謝れば、萩原は再び静寂の音を車の中に響かせた。萩原は、その静寂を自らの笑い声で破る。酔いは抜けたと思っていたけれど、酒が残っていたのだろうか。
 案内された松田の住むマンションに着くと、彼は目じりを拭って私を振り向いた。

「煙草が意外って言ったり、警察が似合うって言ったり、みずきさんはいつも皆と反対のことを言うね」
「……そうなの?」
「うん。でも、嬉しい。やる気出た」

 ぐっと拳を作って、彼は歯を見せて笑った。――良かった、どうやら怒っているわけではなさそうだ。私も彼の笑顔につられるようにして笑った。萩原は、今日は松田の家に泊まることにしたらしい。シートベルトを外して運転の礼を言う彼に、別に送っていくのに、と告げた。萩原は、眉をぐっと下げて困ったような表情を浮かべる。
「送り狼になったら困るからね」
「送るの私なんだけど」
「確かに。送られ狼?」
 肩を竦めた様子に、私も声を出して笑う。二人でグッタリと眠りこけている松田の体を引っ張り出すと、彼は先ほどのようにひょいと腕を首に回し松田を担いだ。外の空気は、冷たい。天気予報によれば、来週には初雪が降るとのことだ。

 マンションのエントランスまでその体を支えるのを手伝い、松田の部屋の鍵をポケットから探しだした。それを萩原に手渡したら、今日はこれで帰ろう。担ぐのとは反対側の手に、チャラン――とバンドのグッズが付いた鍵を差し出す。
 大きな手のひらが、それを受け取る寸前に、萩原の声が呼び止めた。――「ねえ」、少し子どものようにも感じるような呼び止め方だった。

「……また、会いてえな」

 垂れ目の奥にあった瞳が、ゆらっと揺れる。
 私は素直に驚いていた。そして、同時に嬉しかった。私たちは、友達ではない。街中で出会っただけ。知り合い以上、友達未満の薄っぺらな関係だ。萩原の世界は自由で、鮮やかな青に色づいていて、私は心の底では彼と仲良くなりたかったのだろう。
 ただ、私はその心を手繰り寄せる方法を知らなかった。どうやったら、人は自分のことに興味を持ってくれるのか、わからなかった。

 それは、あまりに単純な一言だ。
 私は鍵を手渡しながら、ゆっくりと頷いた。「私も、また会いたい」。子どもでもいえるような言葉を、口にしたのは、生まれて初めてだった。