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 鏡の中に映る、根本がやや黒ずんだ髪の毛にアイロンを通した。そろそろ美容院にも行かなくては、と思いながら寝ぐせを直し、髪をハーフアップに括っていると、テーブルに置いた携帯が通知音を鳴らす。ゴムを手に掛けながらチラリと一瞥して、私はほんのりと頬を綻ばせた。
 開いたメールの送信主には、萩原研二と記されている。先日、去り際に交換したメールアドレスだ。萩原はらしいと言えばらしいが、連絡のマメな男で、あれから一日と空けずに他愛ないメールを送ってくる。
 道端で猫を見たと添付写真を送ってくることもあれば、自炊のことで分からないことを尋ねることもある。そんな欠かさずに送られてくる一つのメールを、どこか楽しみにしている自分がいるのは確かだった。

 さて、今日はどんなメールだろうか。
 コンタクトを入れて、通勤用のバックを肩に掛け、玄関に行くすがらそのメールを開いた。彼の文章は、案外絵文字などで彩られていないモノクロのメールだ。しかし、彼の口調をよく覚えている所為か、その文字から萩原が喋っているのが想像できる。
 私はメールの内容に目を通し、少しだけ意外に思った。
 他愛ない内容ばかり送られてきていたのに、今日はしっかりと要件が入っていたからだ。鍋の材料を買ったけど、自分も松田も全く信用できないので一緒にやらないか――。という、夕飯の誘いだった。

 私は少し考えた。
 今は繁忙期前なので、残業はなく上がれるだろうが――。鍋をするということは、誰かの家ということだ。彼らを疑うわけではないけれど、女としてあまりに貞操観念がないだろうかと心配になった。
 いや、まあ外聞は悪いかもしれないが、本当に彼らとはやましい事などないだろうし。
 そう考えながら、メールの返信画面を開いて悶々としていると、メールがもう一通追うようにして届いた。

『嫌だったら気にせずに! 友達呼んでも良いからね』

 ――という文に、やっぱりこの心配は杞憂だったかと思ったのだ。
 出会ってからまだ少ししか経っていないが、警察を目指すような誠実な青年たちだ。私は『適当に飲み物買ってくね』と返信をして、仕事用のパンプスに踵を入れた。




「……や、ダメでしょ」

 と、私の前にある席で呆れた風にため息をつくのは、職場の同期だ。桐嶋、というショートヘアの同期は、長い前髪をふわっと掻き上げながら眉間に皺を寄せた。私は僅かに苦笑いを浮かべる。
「でも絶対、やましさはないんだよ」
「分かんないよ〜。大学生の男なんて、ヤリたい盛りしかいないんだから」
「そうかなあ……」
 掻き上げた指先のジェルネイルは、この休日の間に新しいものになっていた。以前までべっ甲風だったものが、ニットセーターのような模様の、マット調のものになっている。ブルーも冬らしくて良いなと別ごとを考えながら相槌を打つと、向かいからその綺麗な指がベシっと私の額に降りかかってきた。
「いだっ」
「あのねえ……。あんまりプライベートのこととか言いたくないけど、時々心配になるから。恋愛とか興味なさそうなのに、惚れたら一直線だもん」
「恋愛とかじゃないって。学生だよ?」
「その言葉、遺言にならないことを祈ってるわ……」
 と、桐嶋は肩を竦めた。彼女の言うことも、正直身をもって感じているので、否定はできない。まさに以前の彼氏など良い例だ。しかし、彼らと萩原たちには、確実に出会った時の印象が異なった。今までの彼氏は殆ど自分から好きになったし、どちらかといえば一目ぼれに近いものがある。一度意識してしまうと、ドキドキとしてしまって、何とか好かれようと思って、彼らの好きなものを網羅していくまでがいつもの恋愛だった。

「……違うと思うんだけどなあ」

 しかし、心配をしてくれているのは確かで、彼女は良い人だ。私は桐嶋にニコリと笑って礼を述べると、手元にある資格の参考書に視線を戻した。




 送られてきた住所は、恐らく立地的に萩原の家だ。
 私の家からも近く、もしかしたらそれに気を遣ったのかもしれない。飲むかは分からなかったが、ビールの六缶パックを買っていった。まあ、ビールだったら今日飲まずとも、今度彼らが飲んでくれれば良いかと思った。
 指定された部屋番を押すと、インターフォンの向こうから『はい』とやる気のなさそうな声がする。松田の声だ。私が「みずきですけど」と名乗れば、松田はインターフォンのこちら側にまで聞こえるように『おい、番号何』と尋ねていた。それからややあって、鍵が開いた。私にまで番号が聞こえたけれど、大丈夫だろうか。


 三階まで階段で上がってチャイムを鳴らせば、ガチャリと玄関の鍵が外れる。顔を出した萩原は、黒のスウェットにシンプルなカーキのエプロンを着けていた。男のエプロン姿を見るのは初めてで、私が物珍しく眺めると、彼は少し恥ずかしそうにそれを首から外した。

「いらっしゃい。上がって、あんま綺麗じゃないけど……」
「お邪魔します、これお土産」
「お。良いねえ」

 手土産を手渡せば、彼はご機嫌に口角を上げる。
 出してくれた客人用のスリッパ(――なぜか、レディースサイズ)を履いてリビングまで進むが、男の一人暮らしにしてはずいぶんと小洒落た部屋をしていた。女が住んでいると言っても、信じるかもしれない。
 家具は基本的に白が基調だったし、小さな観葉植物や量販店の質ではないカーペットにソファ、ソファに置かれたクッションまでOLの間では常識になっている家具ブランドで揃えられていた。
 その高級ソファの前にあるシンプルな白いテーブルに、カセットコンロと土鍋が置かれている。先ほどの様子からすると、萩原が前準備をしたのだろうか。鍋敷きがないのが気になるが――。

「あはは、一応説明見ながらやってみたけど、どう?」

 と苦笑いしながら後頭部を掻く彼の言葉に、私は蓋を開けてみた。
「わ、豆乳鍋だ」
 私は思わず声を明るくした。元々几帳面なほうなのだろうか、具材も食べやすく切られていたし、配分も申し分ないように見える。「美味しそう」と自然に目を輝かせたら、萩原が恥ずかしそうに耳たぶを弄った。

「これだったら、私来る必要なかったね」
「いやいや、折角なら食べてって。ほら、自信作だし?」
「お前、さっきまでこれで大丈夫かって五月蠅かったクセに。いつから自信作になったんだよ?」
「みずきさんが美味しそうって言ったときからで〜す」

 ニヤニヤと松田が揶揄うのを、萩原はツンっと顔を逸らしながら小皿を三人に分ける。
 ――おお、小皿もしっかりナルミブランド。
 彼がそういった物が好きなのか、それか付き合っていた人がそういう物を使いたがったのか――。と、考えるのは邪推か。あまり気にしないようにしよう。そう思いながらも、私は食器をいつもよりも少し丁寧に持ち上げながら、豆腐とシラタキを小皿に移す。

「じゃあ、いただきます」
「いただきます」

 二人もしっかりと手を合わせ、まだ湯気の立つ具材を口へと運ぶ。そして、ぱちっと開いた視線は、綺麗に二人のものとかみ合った。彼らの、目がキラリと輝くことといったらない。もぐもぐと租借している間、誰一人喋らなかったけれど、その感情だけは互いに分かっていた。

 ごくん、喉をならしてから、最初に口を開いたのは松田だった。「うめえ」と、シンプルなコメントだったが、私たちは頷いてそれに賛同する。
「冬は鍋、やっぱり染みるね〜」
「うん。豆乳にしたのも正解、疲れた胃に優しいわ……」
「お疲れさん。あ、ビール飲む?」
 私たちはワイワイと言葉を交わしながら、これから萩原の得意料理の一つとなるメニューを突いた。昼は日当たりの良いだろう大きな窓が、白く濁って、それが尚更温かい雰囲気を味合わせるのだ。