わるいおとこ
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目の前の男が話しかけてきてから、もう30分……いや一時間くらいにはなる。最初こそ普通に聞いていたが、やや周りから死角になっているのをいいことに太ももを撫でたり腰を抱いたりするものだから、正直グラスで頭をかち割ってやりたかった。
今回の比較的大きなES上層部のパーティーには、言わば自分を売り込みに来た。沢山の人と繋がりを持っておきたいと思って参加したのだ。こんな男ひとりに関わっている暇もないが、不躾に離れて機嫌を損なうのは危険だ。
何より、さっきから体の調子がおかしい。微かに指先は震え、息も上がっているし、体は熱い。さっきお手洗いに行った間に、グラスに何か入れられたのかもしれない。
「あのさぁ、なまえちゃん。今日俺と抜け出さない?」
「……」
耳元に囁きかけられると、腰が砕けて力が入らなくなる。何も言えないでいると、不意に、ポンポンと薔薇の花が落ちてきた。
「こんばんは!貴方の日々樹渉です☆ お話中にすみません、緊急の仕事ですので御容赦ください!」
聞き慣れた声の主は、気付かぬ間に私の隣に腰掛ける。彼は軽やかに男を牽制し、私の肩を抱き寄せる。男は相手が悪いと察したのか、二、三社交辞令的な挨拶をしてさっさと逃げてしまった。
「……英智が反対したのもわかりますねぇ」
「渉さん……?どうして……」
「さあ?私はどこにでも現れますから、貴女が私を呼んだからかもしれませんねえ!」
「……ごめんなさい、あの……は、離して、もう帰りますから、」
彼に抱き寄せられた状態でいると、益々変な気分になる。硬い胸板も、程よく筋肉のついた腕も、美しい声をあげる喉元も、今はどれも扇情的に見えて見てられない。
「そんな身体で一人にはできませんよ、さ、お水を飲んで。お送りします、プリンセス」
彼はにっこり笑って私に水を飲ませ、体を支えながらパーティー会場を後にした。会場前でタクシーを拾い、彼が知らない住所を運転手に告げる。どこだろうとは思いながらも、もうろくに言葉を発することすら出来なくなっていた。
車に揺られながら、自分の体が恐ろしいほど変わってしまっているのを噛み締める。頭がふわふわしてなんだか心地好い。渉さんが、心配そうにこちらを見ている。
──着いた先は、どうやら彼の自宅らしかった。彼に連れられ高層マンションに入り、エレベーターに乗って彼の家に向かう。
「逃げなくていいんですか?貴女、男のひとり暮らしに連れ込まれてるんですよ」
エレベーターが静かに動く中で、彼は私の腰を抱き、そう言ってみせた。でもいまいち何を言ったらいいのかわからなくて……いや、何を言われているのかわからなくて、黙って彼を見つめ返した。
「ふふふ……頭、回っていないみたいですね。まぁ良いでしょう」
エレベーターを降りて、角部屋の彼の家に連れ込まれる。彼の家は、なんだかすごくいい匂いがした。渉さんの匂いだ。ボーッとした頭に、彼の匂いが心地好いという事実だけはすんなり入ってくる。
彼に導かれるまま寝室に入り、ベッドに横たえられる。私の上に覆い被さった彼の、美しく長い髪がカーテンのようにさらりと落ちてきた。
「助けてもらえたと思いましたか」
「……う、ん……」
「残念でしたね、獲物を横取りしただけですよ。苦しいでしょう?身体が熱くて切なくて仕方ないでしょう?ふふふ、安心してください。ちゃんと楽にしてあげますよ」
整った顔が近づき、反射的に目を瞑る。すると、間もなくして、ぴた、と冷たい感触が額を覆った。……冷えピタを額に貼られたらしい。
「なあんて……冗談ですよ、ゆっくり休んでください。私はリビングにいますから、お水もここに置いておきますね」
「わ、……渉さん、待って、」
さっと身を翻し離れようとする彼の腕を咄嗟に掴む。きっとすぐ振り解けてしまうくらいの弱い力だったのに、彼は止まって私に振り向いてくれた。
優しい微笑に何と言えば良いのかわからず、ただ今更になって申し訳なさと情けなさが込み上げてきてしまって、ぼろぼろと涙を流してしまった。
「おやおや、どうしました」
「ご、ごめんなさい、い……行かないで、お願い……」
泣きながら懇願する私に溜め息をつき、彼はベッドの縁に腰掛け私の顔を覗き込む。今度は微笑など浮かべず、表情を隠したままの彼と目が合った。
「行かないで、というのはどういう意味です?そんな状態の貴女をただ見守るのは、申し訳ありませんができませんよ」
「……でも、でも……わたるさんに、触れててほしい、ひとりにしないで……」
「我儘なプリンセスですね。……触れていいんですか?」
コクリと頷けば、彼の大きな手が私の視界を覆う。そして、唇に柔らかな感触が当たった。見えないまま、彼の高い鼻が時折鼻や頬に当たる感触や、甘く漏れる彼の吐息をジッと甘受していた。やがて彼の手が離れると、もうそこにいつもの彼はいなかった。
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