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あの朝の「主治医」宣言以来、セレスの生活は一変した。 彼は薬草室に篭るのをやめ、以前のように共有スペースにも顔を出すようになった。しかし、その振る舞いは、どこか探るようでぎこちない。

特に、向日葵に対して。

「あ、セレスさん!」
その日、中立神域の中庭で薬草の手入れをしていたセレスは、背後からの明るい声に肩を揺らした。振り返ると、三羽のフクロウを従えた向日葵が、ぱたぱたと駆け寄ってくるところだった。

「……こんにちは、子猫」
セレスは努めて冷静に、以前のように揶揄う声色を作ろうとした。だが、声は自分でも分かるほど優しく響いてしまい、彼は内心で舌打ちする。 仮面を一度外してしまうと、再び完璧に着けるのは至難の業だった。

「こんにちは! 今日はお部屋じゃなかったんですね」
「ああ……少し、外の空気に当てた方がいい薬草があってな」
それは半分本当で、半分は嘘だった。 本当は、あの暗い薬草室で一人きりでいると、彼女に「迷子」だと見抜かれた夜のことを思い出してしまい、落ち着かなかったのだ。

「ふぅん」
向日葵は、セレスの周りをぐるりと回り込み、じーっと彼の顔を覗き込んだ。
「……何だ。俺の顔に何か付いているか?」
「主治医による、検診です!」
向日葵は、ぴしっと敬礼する真似をして見せた。
「セレスさん、昨日より顔色はいいですけど……まだ、ちょっと眉間にシワが寄ってます。悩み事ですか?」

その、あまりにも真っ直ぐな指摘に、セレスは言葉を失った。
(悩み事……)
悩み事そのものだ。 この無垢で、境界線を平気で飛び越えてくる少女と、どう接すればいいのか。どうすれば彼女を傷つけず、そして自分がこの温もりに溺れずに済むのか。 彼が今まで培ってきた「大人の余裕」も「恋愛の駆け引き」も、彼女の前では何一つ役に立たない。

「……君のその『検診』は、心臓に悪いな」
セレスは、どうにかそれだけを絞り出した。

「やっぱり! まだ元気ないです!」
向日葵は、そう結論づけると、両手を広げた。
「は?」
「元気の出るおまじないです! えいっ!」

セレスが反応するより早く、向日葵は、その小さな体で、彼の腰に思い切り抱きついた。

「―――ッ!!」
セレスの思考が、完全に停止した。 全身が、まるで凍りついたかのように硬直する。 腕が、肩が、どう動かせばいいのか分からない。

他者からの、純粋で、無防備な、予期せぬ接触。 それは、彼が最も恐れ、最も避けてきたものだった。 遊びとしての官能的な接触とは、まったく違う。これは、ただの「好意」の塊だ。

振り払わなければ。 そう本能が叫ぶ。彼の自己防衛本能が、この温もりは「毒」だと警告する。 だが、同時に、彼女の髪から香る陽だまりのような匂いと、背中に回された小さな腕の温かさが、彼の理性を麻痺させていく。

「……どうです? 温かくなってきましたか?」
胸に顔をうずめたまま、くぐもった声で向日葵が尋ねる。
「…………君は」

セレスは、天を仰いだ。 もう、観念するしかなかった。 彼は、震える手を、ゆっくりと持ち上げた。 そして、ひどくぎこちなく、おそるおそる、その小さな背中に腕を回した。

まるで、初めて触れる壊れやすい宝物のように。

「……ああ」
彼は、絞り出すように答えた。
「……温かいな」
その温もりが、彼が何年もかけて築き上げてきた心の氷壁を、じわじわと溶かしていくのを感じる。

「えへへ、よかった」
向日葵が、満足そうに笑う気配が伝わる。

「……だが、一つ訂正しろ」
「え?」
「これは、『おまじない』などという生易しいものではない」

セレスは、彼女を抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……これは、劇薬だ。俺の理性を、根本から破壊する」

その声が、自分でも驚くほど甘く、そして弱々しく響いたことに、セレス自身が一番驚いていた。 中庭の穏やかな光の中で、二人はしばらく、そのまま動けなかった。