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翌朝、中立神域の談話室は、珍しい組み合わせの二人によって静かな衝撃に包まれていた。
「おはよう、ダリアンさん! エルドさん!」
天真爛漫な向日葵の声。
「……ああ、おはよう」
続く、常よりいくらか棘の取れたセレスの声。
朝、無言で紅茶を飲むのが日課のダリアンは、カップを口に運びかけたまま、珍しく目を丸くした。 窓辺で裁縫をしていたエルドは、太陽のような金髪を揺らして振り返り、その青い瞳を驚きに輝かせた。
「おや、これは……。二人一緒なんて、珍しいじゃないか。おはよう、ヒマワリ、セレス」
セレスと向日葵は、連れ立って談話室に入ってきた。 向日葵はいつものように快活だったが、その頬はほんのりと上気している。 一方のセレスは、数日分の憔悴が嘘のように、その整いすぎた美貌に穏やかな色を取り戻していた。だが、その態度はどこかぎこちない。
「セレスさん、夜更かしが過ぎたんじゃないか? 少し顔色が戻ったみたいだけど」
エルドが、探るように、しかし親しみを込めて揶揄う。 セレスは、常の彼ならば
「余計なお世話だ」
と妖艶に笑って返すところだろう。 だが、彼は一瞬言葉に詰まり、視線をさまよわせた。
「……まあ、な。少々、厄介な『患者』に捕まってね」
「患者?」
エルドが首を傾げた、その時だった。 向日葵が、まるでそれが当然であるかのように、ててて、とセレスに駆け寄った。そして、彼のシャツの襟元を、小さな手で甲斐甲斐しく直し始めたのだ。
「セレスさん、ここ、よれてます」
「……! おい、君、人前だぞ」
セレスが慌ててその手を掴もうとするが、向日葵はお構いなしだ。
「だって、格好悪いですよ? せっかくの綺麗な顔が台無し」
談話室の空気が、凍りついた。 ダリアンは、静かに紅茶のカップをソーサーに戻した。その彫刻のような顔には、「秩序の崩壊」と書いてある。 エルドは、口をあんぐりと開けたまま、手の中の裁縫針を見つめている。
「……君は、本当に……」
セレスは、観念したように深い溜息をついた。 その耳が、じわりと赤く染まっているのを、エルドは見逃さなかった。 もはや、彼にいつもの「余裕のある大人」の仮面はなかった。
「ふふ、できました!」
向日葵が満足そうに笑い、彼から離れる。 セレスは、そんな彼女を、信じられないものを見るような、しかしどうしようもなく愛おしいものを見るような、複雑な目で見つめていた。
「……あのさ、二人」
エルドが、ようやく我に返って口を開いた。
「もしかして、君たち……」
「はい!」
エルドの言葉を遮り、向日葵が満面の笑みで答えた。
「私、セレスさんの『主治医』になりました!」
「……っ、こら!」
セレスが慌てて彼女の口を塞ごうとするが、もう遅い。
「しゅじい?」
「ええ! セレスさん、私に『そばにいろ』って。だから、これからは私がセレスさんの『毒』も『痛み』も、全部診てあげるんです!」
純粋な善意と、無邪気な独占欲。 その爆弾発言に、ダリアンは「リミナスに報告すべきか」と真剣に悩み始め、エルドはついに堪えきれずに吹き出した。
「あはは! そういうことか! いやあ、参ったな! まさか、あのセレスがねえ」
「うるさい、エルド」
セレスは、赤くなった顔を隠すように俯き、向日葵の腕を掴んだ。
「……行くぞ。君の朝食を取りに。どうせまだ寝台から出たばかりで、何も食べていないんだろう」
「あ、待ってくださいセレスさん! 私、フクロウたちにご飯あげないと……」
「後だ。君が先だ」
それは、医者としての理性でも、遊びの官能でもない。 ただ、彼女を優先したいという、彼の不器用な本心だった。
「あーあ、行っちゃった」
エルドは、二人の背中を見送りながら、楽しそうに笑い続ける。
「『主治医』か。ヒマワリらしいや」
「……理解不能だ」
ダリアンは、冷めかけた紅茶を一口すすった。
「だが」
「ん?」
「……彼の纏う空気が、少しだけ温かくなった。……悪いことではないんだろう」
ダリアンはそれだけ言うと、再び自らの内なる静寂へと戻っていった。
一方、食堂へと手を引かれていく向日葵は、セレスの横顔を見上げていた。
「セレスさん、なんだか機嫌がいいですね?」
「……どこをどう見たら、そうなるんだ」
「だって、手、すごく強く握ってくれてるから」
セレスは、はっと我に返り、慌てて力を緩めようとした。 だが、向日葵が、その指にきゅっと指を絡めて離さない。
「……ふふ」
今度は、セレスが静かに笑う番だった。
「……そうだな。君という『主治医』は、少々……いや、かなり手がかかる。患者がしっかり手綱を握っていないと、どこへ飛んでいくか分からないからな」
仮面を脱ぎ捨てた騎士の、新しい日常が始まろうとしていた。