最後に布団で寝たのっていつだったっけ。
考えないようにと意識の外へ追い出していた疑問が不意に思い起こされ、慌てて誤魔化すようにぐしゃぐしゃと自分の髪を乱した。 大人になってから気が付いた一番大事なことは、何より自分を騙すことなのだ。大きな仕事は粗方片付いたが、まだ雑多な処理が残っている。今日も家に帰ることができるかは少し怪しいところだった。
普段よりも多少覚束ない足取りで、普段ならばひとりで立ち入ることは少ない喫煙所に足を踏み入れる。すると、そこにはよく知る先客がいた。
「珍しいな、 九十九」
ほんの少し目を丸めた彼は九十九に視線を移しながら手元の灰を側の銀へと落とす。
「的場さん」
九十九にとって直属の上司である的場が喫煙者であることは勿論知っている。精々付き合い程度にしか煙草を吸わない自分よりもよっぽどこの場所にいることは自然だろう。この狭い空間で時間を共有するとなれば気心の知れた相手の方がよっぽどありがたい。知り合いの姿に多少なりともほっと胸をなでおろし、口角をあげた。
「いやあ、 はは。昨日までの特捜でボロボロですよ」
「期待されている証拠だよ」
「まさか。ただの便利な使いっ走りでしょ」
苦笑いと共に胸ポケットから白い箱を取り、中から一本取り出す。火を点けて深く吸い込んで、やっぱり別にうまくはないよな、と白く濁った息を吐き出した。
「九十九、落ち着いたら久しぶりに飯行くか」
「お、いいんですか? 俺、遠慮なく食いますよ」
「はは、たまにはな」
そう言うと的場は短くなった煙草を灰皿の中へと捨て、ぽん、と九十九の肩に手を置いた。そして穏やかな笑みのまま喫煙所を後にする。立場的に言えば九十九なんかよりももっと忙しいだろう。だというのに表に見せないその姿に敬意を表しつつ、頭の中で数々の居酒屋を思い浮かべ吟味する。折角なら頻繁には赴かない、ちょっといいとこ行きたいよな。
靴音が近づく。「−−−?」この声は。
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まぶたをひらく。視界に入る天井はよく見覚えのあるもので、 そこでようやく今までの光景が夢だったのかと気が付いた。
「…… あともうちょっとだったのになあ」
最後に聞こえたはずの言葉はノイズがかかっているかのように不鮮明で、正しく聞き取ることはかなわなかった。利き手で枕元に置いているスマホを探り手に取れば、時刻はいつもの起床時間より少し、いや、かなり早い時間を表している。もう一度寝直しても良かったのだがなんとなくそんな気分にはなれない。たぶんおかしな夢を見たせいだ。かと言って特別何をするなんてのも思いつかず、手早く準備を済ませると玄関を後にした。
常であれば真っ先に自身の所属である零課の居室へと足を運ぶのだが、なぜか、勝手に足は他の場所へと歩みを進める。その場所はここ数年、一度も立ち寄らなかった場所だった。扉を前にすると、なんとなく心臓が嫌な音を立てじわりと汗がにじむ。喫煙所と書かれた簡素なプレートを見上げ、一拍置いてからその扉の取っ手に手を掛けた。
中には誰もいない。そのことになぜか安堵を覚えながら、中に置かれた古びたパイプ椅子に無遠慮に腰かけた。誰かが持ち込んだまま置き去りにされているのだろうか。数年前、自分がたまに足を運んでいた頃には無かったものだ。見渡すほど広くもない部屋の周囲にぐるりと視線を巡らせ、自分のシャツのポケットに手を伸ばし、布越しに柔らかい箱の形を確認して、そして手を止める。
「はは、」
何をやってるんだか。 ポケットから離れ行き先を失った右手は軽く宙をさまよった後、仕方なく膝の上へと収まった。てのひらからはじんわりと汗がにじんでいる。たかが煙草を吸おうとするだけでこの有様だ。 彼女がこの姿を見れば何というだろう、なんてありもしない想像を追い払う。
しばらくぼうっと、何をするでもなく銀の灰皿を見つめていた。この行為に意味などない。ただ、少し虚しいだけだと自嘲して、ようやく腰を上げる。壁に掛けられた時計に目を遣ると、まだなお、いつもの出勤時間よりも早い数字を指していた。自販機にでも寄ってからデスクへ向かうかと、名残惜しさなど感じることもなく喫煙所から出ようと足を踏み出し、
「珍しいな、 九十九」
聞こえるはずのない声がした。
人を落ち着かせる低い声。捜査の時、何度この声に助けられたかわからない。しかし、そんなことがあるわけがない。心臓が早鐘を打つ。ひどく息がしづらい。呼吸が乱れていくのが自分でもわかる。まさか。いやそんなわけ。恐る恐る振り向くが、
そこには誰もいない。
当然だ。塀の中にいるであろう彼が、まさかこんなところにいるわけがないのだ。安堵と焦燥が胸中を潜り抜け、身体がぐらりと大きく揺れた。緊張から解き放たれたゆえか、それとも別の何かか、それは判別できないがまっすぐ立っていることが難しくてたたらを踏みながら、ぶつかるように壁へともたれかかった。
「は、ははッ、」
どうやら自分が思っているよりも、今朝の夢のせいで随分と参っているらしい。
「……的場さんのことは、 思い出せるんだな」
誰に語り掛けるでもなく、ぽつりと呟く。こんなのはあんまりじゃないか。いちばん思い出したい人間の声は、もう朧気なのに。
頭痛がする。目眩すらしてきたような気もする。呼吸を落ち着けながら瞼を閉じると、不意に頭上から声が落ちた。
「楸チーフ? どうしたんですかぁ、こんなところで」
聞き覚えのあるのんびりとした口調、その中に含まれる心配の声音に視界を覆っていた手のひらを退けた。想像通り、大きな背中を少し丸めて窺うようにこちらを覗き込む瞳と目が合う。
「三鷹……いや、なんでもない」
手を貸そうと差し出してくれたそれを虚勢で断って、ゆっくりと壁から背を離す。誤魔化すようにいつも通りへらりと笑えば、心に巣食う亡霊に背をむけた。