げろちゅーする話

 仮名川県横濱市近辺で発生している連続殺傷事件。
 最近世間を騒がせているこの事件の担当となって一週間が経った。これ以上警察組織の面子を潰すわけにはいかないという上層部の意地により、下っ端の自分たちは警察署内と現場を駆け回る日々。家に帰る暇は当然なく、部署内はまさに死屍累々。
 そんな中、ついに犯人確保の連絡を受け、みんなで諸手をあげて喜んだのがつい二時間前のことだった。


 諸々の事後処理を済ませスマホを取り出すと、時刻は21時を過ぎている。思ったよりも時間がかかってしまったと思いながらメッセージアプリを開き、一番上に表示されている名前をタップした。『久しぶりに家に帰れそうだ』と送ったメッセージにはすぐに既読の文字が付き、『陽仁の好きなもの作って待ってる!』という言葉と、愛らしいパンダのスタンプが届いた。
 自然と頬が緩む。きっと家の扉を開けば、食欲の唆る美味しそうな匂いと共に、笑顔で出迎えてくれるのだろう。
 車の鍵を差し、エンジンをかける。ケーキでも買って帰ってもいいかもしれない、なんて。さすがに浮かれ過ぎだとサングラスをダッシュボードに置いて苦笑を溢した。


 異変に気付いたのは車を降りてマンションの部屋へと向かう廊下を歩いている途中だった。
 ふわふわと宙に浮いているような酩酊感。もちろん酒を飲んだ記憶は無い。それになんとなくこの感覚には覚えがある。この気分の悪さは……。
 自覚した途端、それを待っていたかのようにがくりと身体が重力を増す。重い。気持ち悪い。なのに心地良い。
 頭の中がぐちゃぐちゃに錯綜し始める中、どうにかして壁伝いにマンションの廊下を足を引き摺り歩く。いつ誰にどうやって、という疑問を解決する術は持たないが、とにかく胃の中を空にしなければという使命感だけが脳を占める。

 目の前が薄ぼんやりと白く濁る。部屋の前まで辿り着き、家の鍵を探そうと鞄の中へと手を突っ込むが、覚束ないこの手つきでは中の荷物が廊下に派手な音を立ててひとつ、またひとつと落ちていくだけだった。まっすぐ立っていることすら難しく、ふらつく身体を支えるようについた右手は意図せずインターホンのボタンを押す。

『はーい……あれ?陽仁?』
「ッ、……春樹?」
『え?うん。鍵忘れた?今開けるね』

 ぶつり、と通信が切れる音がして数秒、鍵の開錠音と共に目の前の扉は開かれる。
 少し不思議そうに、だが安堵したような表情で出迎えた彼、秋本春樹は明らかに平常通りとは言えない目の前の様子を目にすると、すぐに顔を曇らせた。

「陽仁!おかえり、って、え?大丈夫?」
「ああ、悪い……ちょっとトイレ、」
「え?あっ、ちょ、うわ!荷物が!」

 相手を気遣う振りすらできず、春樹を半ば押しやるように退ければ土足のまま廊下を歩く。困惑した声と荷物を拾う音を背中で聞きながら、扉を閉める余裕すら無く倒れ込むようにして便座の前へと座り込んだ。

 芳香剤が鼻をつく。普段は大して気にならないこの香りすらも気分の悪さを増長させる。
 吐く時ってどうしたらいいんだっけか。如何せん普段体調不良を訴えることもアルコールで気分が悪くなったこともないせいで、方法がわからない。中途半端に開かれた口から唾液だけがぼたぼたと落ちては波紋を作る。
 ぼんやりと透明な水を眺めていると、近付いてくる足音と共に背後から声がかかった。もちろんそんな人物など一人しかいない。重たい頭を持ち上げて頭を上げる。眼鏡の奥、開かれた赤い瞳と目が合った。

「どうしたの!?気分悪い?手伝おうか……?」
「ッ……ぁ、や、ひとりで、」
「でも……陽仁、吐くの苦手でしょ?僕、慣れてるから」

 心配そうな表情のまま袖を捲った春樹に眉をしかめる。心配されることが嫌なわけでは決してない、しかし、こんなみっともない姿を、あまりにも惨めなこの状況を、友人に見られたくないと思うのは普通のことではないだろうか。
 拒否の言葉をもう一度吐き出そうと口を開いた時、有無を言わさず、しかし優しい手つきで後頭部へと手のひらが添えられる。再び便器の中の透明な水と対面した時、細くしなやかな指が半開きの口から歯の間をこじ開けて、無理やり押し入れられた。
 こう言う時って舌はどうしたらいいんだっけ、なんて的外れな考えが脳裏を過った時、強烈な異物感に目を見開く。

「がッ、ア……ッ、は、ッう……ぅ!」

 生理的な涙がじわりと滲み、身体は異物を吐き出そうと嗚咽を漏らす。肩が震える。苦しくてしんどい。こんなことなら先日酔っ払いと取っ組み合いになって殴られた時の痛みの方がマシだ。

「大丈夫だよ、陽仁。大丈夫、大丈夫……」

 すぐ耳元で春樹が何かを囁いているような気はしたが、それに意識を逸らすことすらできなかった。
 ぐっと喉元をせりあがる何かに冷や汗が止まらない。視界は涙の膜でどんどんと狭まっていった。

「う、おぇ……ッ、!ぅ……!」

 びちゃびちゃ、と不愉快な音が耳に届く。
 一呼吸落ち着いたかと思えばすぐにまた胃がせりあがる感覚に小さく声が漏れる。吐瀉物と涙と鼻水と、これ以上ないぐらいみっともない顔をしているのだろう。背後の友人に気遣う暇もなくもう一度嗚咽を漏らすと、不意に顔を掴まれ視界が回る。

 何が起こったのか把握する暇もなく、息苦しさに目を細めた。
 吐き出し損ねたどろりとした液体が口内で揺れる。もちろん気分が良いはずもなく、早く外に出したいのに何かが口を塞いでいる。……何かが、口を塞いでいる?
 視界に映るのは赤いフレーム。それは窮屈そうにかちゃりと小さな音を立てる。

「ッ、!〜〜〜ッ!」

 自分は今、どうしてだか目の前の彼にキスをされているのだと気付いたその時、ぬるりと口内に何かが入ってきた。
 出口を見つけた液体が、どろりと互いの唇の間から零れ落ち、スーツのズボンに染みをつける。

 反射的に身を引こうとするがいつの間にか回されていた手のひらで後頭部を固定されている。思考が追い付かない。どうしていま、自分は目の前の彼と唇を合わせているのか。
 口内を蹂躙される感覚が、息苦しくて辛い。ただでさえ薬で回っていない頭が、酸素すらも奪われて意識が朦朧としている。
 意識が落ちかけるその瞬間、不意に唇が遠ざかる。求めていた空気を吸い込み、口内に残った胃液と共に激しく咳き込んだ。
 一体何てことをしているんだと、鼻水と涙と唾液で濡れた顔で軽い怒りを込めながら春樹の顔を見上げると、彼はきょとんと不思議そうな顔をしていた。あまりにもこの状況にそぐわないその表情に、用意していた文句がするすると喉を降っていく。

「ごめん、なんだかキスしたくなっちゃった」
「は、あ……?」

 心底わからないという顔をしているものだから、追及しようにも二の句を次ぐことができない。
 キスしたくなったってお前、こんな、明らかに人が体調悪い時に、ゲロ撒き散らしながら……。
 トイレの中は勿論当たり前だが惨状だ。便器から床を伝って果てにはお互いの衣服にも吐瀉物が飛び散っているし、流す暇もなかったものだからお世辞にも良いとは言えない異臭もする。せめても、と洗水レバーを引いたところで、それまで間抜けな顔で座り込んでいた春樹が慌てて立ち上がった。

「ああっ!ていうか、水いるよね!?待ってて!」
「み……ずもだけどタオル!」

 どたばたと遠ざかる背中に声を投げる。
 ふと落ち着いてみれば、つい先ほどまでが嘘のように頭の中が明朗としていた。色々と言いたいことはあるのだが……まあ、いいか。
 再び駆けてくる足音を聞きながら、ふうと一息吐き出した。