彼方なる火をつけて

 ジタウンは深い、深い森の中にひっそりと佇む教会がもととなってできた町だ。教会の周りに人が住むようになり、ポケモンと共存し、少しずつ少しずつ大きくなっていた。森の中は霧深く、迷わず歩くことができるのはポケモンたちがつけた道のりを人がたどっていったからだと言われている。ここで暮らすのは実はとても不便だ。森の中だから、自然はとても豊かだが、木々に囲まれたこの街にはなかなか太陽の日差しが入ってこない。とても、霧が深い。その成果、年間を通して寒い地域と言ってもいい。乾季・雨季がはっきりとしており、ミタマ地方の地形には珍しく、雨が降ることも多い地域だ。
 ツクヨミの森にはエーディアの住まう土地があるとされてきたから、なかなか人の手が入らない。ツクヨミの森の木を切るということは、エーディア様の住まう木を一つ切り倒すことだ。これがまた、何十通りの儀式をこなして、神子様にもおこしいただいて――実にめんどくさい。森があれば、資源には困らないだろうなんて笑う奴らもいるが決してそうではない。ツクヨミの森は神聖な場所。安易に踏み入ってはならないのだ。
 ジタウンの住民は森の恵みをエーディア様からいただくのと、エーディア様へ感謝の気持ちを込めて毎日毎日森の手入れへと向かう慣習がある。今日も、一人。森のなかへ入ってきた男の気配を感じて、聖なる止まり木で羽根を休めていたエーディアがひっそりと微笑んだ。

「うん……今日も、とても静かだ」
 濃い緑色の髪をしていて、ハンチング帽を目深にかぶった男がしみじみと呟いた。男の名前はクモという。空の雲を示す名前ではなく――虫のクモを示す名前だ。アリアドスやイトマルなんか、とても親しみの深いポケモンだった。彼はこの名前で五十年以上生きてきたので、とても愛着のある名前だ。少し年若く見えるが、彼は五十五歳になる。背はあまり高くないし、細身だったが、しゃんとしていて見栄えが良かったし、足取りもシャキシャキとしている。――彼は、目に包帯を巻いていた。目が見えないのだが、彼は白杖も使わないし、目が見えない人がよく使う手引きのポケモンも使っている様子はなかった。すたすた、すたすた。人が歩けるようにはしてあるとは言え、森の中だ。木の根が出っ張っていたり、湿った草があってとても転びやすいというのに、彼はそんじょそこらの見える人たちよりもずっと気楽そうに森を歩いていく。彼は、十歳で守り人の役割を任されてから四十年、ずうっとこの森に通い続けてきたのだ。今更、迷ったり、転んだりなんてありえない。
 クモはふと足を止めた。一本の木がそこにある。
「おや、少し弱っているね」
 クモは少しだけ悲しそうに呟いた。木も生き物だ。当然、いつか寿命が来るもので、クモはこの四十年、自分よりも長生きだった木が弱っていき、倒れていくのを何度か見た。もちろん、自然の災害――台風やら、竜巻やらで倒れてしまった木もある。そういった木はできるだけ早くどかしてやらなければ、他の森の木が傷んでしまうのだ。この木もこれ以上弱るのなら、間伐しなくてはならないな。小さくつぶやいて、優しく、優しく撫でてやる。
「元気におなり。また、青々しい葉をつけておくれ」
 そっと頬を寄せてクモはいうのだ。彼の足元をウロウロとしていた虫タイプのイーブイの進化系であるビードランはクモに倣ってそっと体を擦り寄せた。それが大きく力を持つかはわからないが、祈りは必要だ。クモはそうやって四十年祈りを捧げてきた。木を撫でて、ゆっくりと離れて静かにクモはビードランの頭を撫でてやった。
「さぁ、行こうか。エーディア様にお祈りの時間だ」
 また、スタスタとクモは森の中を進んでいく。今日は珍しく客人に出会った。旅をしている少女だという。名前は聞かなかったが、エーディア様の思し召しだとクモは心優しくジタウンへの道を教えた。さっさと森を通り過ぎようとする少女を引き止めて、クモはこの先にはエーディア様の止まり木がある、お祈りしていきなさいと告げた。
「ここはね、昔はとても神聖な場所で旅をするときはとても大変だったんだ」
 昔、といってもほんの二十年くらい前のことなんだけれどね。
 クモは祠を前にして、携えてきたきのみと湧き水を入れたガラスのコップを置いて手を合わせて祈った。少女はどことなく、ぎこちのない動作でお祈りを捧げていた。微笑ましい限りだ。もしかしたら、外からきた人なのかもしれないとクモは柔らかく微笑んだ。最近ではミタマリーグに挑戦する他の地方の人間も多い。エーディア様はきっと、お慶びになられているに違いないとクモは思うのだ。
 だって、とても心優しいお方なのだ。
「クモさんは、エーディア様にお会いしたことがあるんですか?」
「うん? ああ、僕はこの通り目が見えないからね。拝謁したことがあるが、見たことはない。でも、とてもお美しいお方なのだろうね」
 お祈りを終えて、クモはそっと微笑んだ。この後は祠をきれいにして、周りの草木を整える。すると、自然に住まうフラージェスやキレイハナたちがここらの花々をきれいにしていってくれるのだ。クモは見知った彼女たちに小さく手を上げて、祠に備えていたきのみを分けてやった。
「あげちゃうんですか?」
「もちろんだとも。ミタマ地方では、エーディア様の恵みはみなで分かち合うもの。そこには野生もなにも無いんだよ」
 彼らもこの地に住まう一つの命だからね。
 そうやって笑う若翁は少女にはどのように映ったのだろうか。クモは少年に振り返ってさあ、こっちだと案内した。ジタウンは遠くない。ビードランが先導して歩き始めて、クモも進んでいく。
「ついたら、そろそろ朝食の時間だ。よかったら、君も一緒にどうかな」
「え!?」
「なに、一人住まいの老人の話し相手になってくれればお代は十分だよ」
 なあ、ビードラン。きゅう! と力強く鳴いたビードランも、ここ最近は見知った老人や子どもたちばかりで飽き飽きしていたのだろう。外の風を感じることができる少女を受け入れたようだった。クモは目が見えないが、人一倍感覚には優れていた。風の音、匂い、木々の揺れる感覚――全てがクモの目の代わりだ。
 クモは柔らかく表情を緩めた。
「ああ、今日も良い日になるね」
 霧の深い森に僅かな太陽の木漏れ日たちが差し込んでくると、これはまた幻想的な雰囲気だった。うっすらと寒さすら感じていたというのに、気づけばほのかに温かい。クモはさくさくと進んでしまうのももったいないね、と少し歩調を落としてポケモンたちに出会えるように少女を案内した。
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