いとおしむように目を閉じて

 クモの家はしんと静まり返っている。五十年生きてきて、伴侶と言える存在は一人いたが、彼女は病で先立ってしまった。子供もなく、以降クモはこの地で一人で守り人の役割を負いながら生きていた。ああ、一人ではなかった。彼にはポケモンたちがいた。ビードランに、アリアドス、デンチュラにビビヨン……森に行けば、クモのポケモンではないとはいえ野生のポケモンたちがそっと顔を出して、クモの手伝いをしてくれる。祠周りをきれいにしようとすれば、フラージェスやキレイハナたちが美しい花々を芽吹かせ、ヌオーやウパーたちが水を祠周りにかけてきれいにし、そこらの虫ポケモンたちは傷んだ葉を片付けてくれる。
 目が見えぬ不自由さなど、実はあまりないのだ。かさかさ、と動く音が聞こえておや、とクモは微笑んだ。手元に体を擦り寄せてくるのはアリアドスだ。彼はビードランと同じくらい、長く長くクモのそばにいる。三代目のアリアドスだ。虫ポケモンというのは寿命、サイクルがとても短い。彼のお爺さんに当たるアリアドスは、クモが少年の時に出会ったポケモンだった。
 そう。まだ、クモの目が見えた頃。森の守り人の役割を任されたクモにとっては初めての仕事の日だった。


 雨季に入りかけの森は、いろいろなトラブルを抱えていることが多い。当然だ、雨がずっと続くのだ。それぞれのポケモンたちが長い雨に備えて食料や寝床の確保に必死になっている。特にこの森に長くから巣を張るアリアドスの一団はこの時期になるととても気が立つ。
 クモは十歳になり、祖父から守り人の役割を引き継いだ。祖父はとても気の良い人で、よくよく守り人の役割にクモを連れ立っていたからクモにとってははじめての場所でもなかったし、アリアドスたちの宥め方もよく知っていたはずだった。だが――その時のボスのアリアドスは非常に強気だった。クモの言うことなんてまるで聞かない。当たり前といえば当たり前だ。野生の彼らは本来、クモら守り人の言うことなんて聞く必要ないのだ。
 乾季の時期にうまくきのみがならなかったことが原因だった。気が立っていたアリアドスの毒液が飛んできた。まだまだ小さなイーブイではアリアドスの相手にもならない。クモはとっさに飛び出してしまった。うまくイーブイを隠すことはできたが、自分は隠れきれず、顔に毒液がかかった。
 じわ、と焼ける感覚に声を上げそうになったが、クモは必死に声を抑えた。
「鎮まり給え、ここはエーディア様の住まう土地ぞ!」
 声の音も変わりきらぬ少年の声が響き渡った。一番、気圧されていたのはアリアドスのボスであったことだろう。彼は自分の毒液を浴びてなお、虚勢にも声を張り上げた人間の少年に確かに畏怖した瞬間だった。
「あなた達の怒りはもちろんだ。――しかし、ここは皆で住まう土地。私達はあなた達を侵さぬ。だから、あなた達も我々を侵してはならない」
 少年は雨で濡れて柔らかくなった土に頭を伏せた。ミタマ地方では相手に対して敬意や謝意を示す時に深々と頭を下げる風習があったのだ。焼けた目を洗い流すこともせず、クモという少年は森の主に対して敬意を払い、謝意を示した。
「今日はわたくしの非礼を詫びねばなりません。どうぞ、ひらに……」
 目のことを口にしなかったのは、彼なりのプライドだったのかもしれない。アリアドスたちはしばし互いの顔をみやった後、森の奥へと消えていった。もう、クモの目には何も見えなかったが彼らが去っていったという事実だけは音と気配でわかった。――その後のことは、正直何も覚えていない。気づけば、教会のベッドの上。神父様や修道女様がたが、ああ、エーディア様の奇跡だと、クモが目覚めたことを喜んだ。
 クモの頬をイーブイが舐めた。皮膚の感覚はすでになくなっていたが、少しだけ温かいのだろうという気がしてクモは柔らかく微笑んだ。クモが森から帰ってこなかったとき、森にアリアドスが現れたのだと祖父がこっそりと教えてくれた。あのアリアドスだろうか、とクモは考えた。
 大人たちは暫く休みなさい、と言ってくれたが翌日、クモはふらふらと雨季の森の中へ入っていく。見えていた頃とはまるで違う。まるで生き物、化物のように自分に襲いかかってくる森の脅威にクモは恐れてしまったのだ。森は恐れるものではない、とアレほど祖父に教わったはずだったのに。張り出した木の根に足を引っ掛けて転ぶのは何度目だろうか。十歳の少年には厳しい森の洗礼に、クモはぐっと唇を噛み締めた。すると、かさ、と音が聞こえた。雨に濡れる葉の音ではない。少しだけ乾いた音だった。
「……アリアドスかい?」
 呼んでも、近くには来ない。気配は遠ざかってしまったようだった。それから、クモが森に入り、役割をまっとうする都度、誰かに見守られているような気になった。転べば、近くに何かが来るのだ。その姿を見ることはできなかったがイーブイは最初のうちこそ威嚇していたが自然とそれをやめ、何も言わなくなった。そして、クモが何十回も足を運ぶようになった頃、その気配がパタリと消えた。代わりに、小さなイトマルがいるのだ。彼はアリアドスほど隠れるのが上手ではなく、クモがきのみを差し出せばかさかさと現れて、クモの手からきのみを食んだ。
「彼は僕に謝りたかったのだろうかね」
 手でイトマルを撫でてやると、彼は小さく鳴いた。それがなんだか、肯定のように聞こえてきてクモは優しく微笑んだ。
「どうだろう。君は僕の手伝いをしてくれないかい?」
 イトマルがきょとんとクモを見上げている。そこの頃、イーブイはビードランに進化したところで、彼は嬉しそうにイトマルを迎え入れてくれた。ずっと、自分を見守ってくれていたアリアドスの子なのだから拒否する理由などどこにもなかったのだ。イトマルはビードランとともにクモの仕事をよく手伝ってくれた。結婚のときになんて、アリアドスに進化したのだ。妻に先立たれたときも、ビードランとアリアドスは優しく見守ってくれ、そして――アリアドスはこの森で眠るように亡くなった。
 乾季にしては珍しい、恵みの雨の降る夜だった。突然、家から飛び出していってしまったアリアドスを追ったそのさきには彼が倒れ込んでいる姿。彼の亡骸にそっと寄り添って、クモは泣いた。目は焼けてしまって、涙なんてこぼれないのがとても残念だった。いっそ、泣いてしまえたらどれほど楽だっただろう。クモはしとしとと静かに降り注ぐ雨の中、一晩泣き続けた。雨は、きっとクモの代わりに泣いてくれたのだと思った。

「森の子よ。どうして泣いているのです」

 一つの光が入り、その声が聞こえてきた。顔を上げてみれば、光の最中が見えた気がした。ふわりと柔らかな暖かな風に乗り、大きな翼の揺らめきを感じる。
「私を見守ってくれていた者が死んでしまったのです」
 クモの声を聞き、その光はとても悲しそうにそうですかと答えた。
「森の子よ、私はあなたとそのアリアドス、そしてその父であるアリアドスが毎日のように私の元を訪れ祈ってくれていたことを知っています。この先の祠にゆきなさい。きっと、あなたたちにとって良い答えがあるはずです」
 雨は上がっていた。きっと、丸々とした月が照らしているのだろう道の先にいたであろうその光り輝く鳥は姿を消してしまっていた。森の子、と呼ばれてクモは静かに立ち上がった。祠はエーディアを祀るもので、そこになにかあるのかと気になったのだ。ビードランに連れられ、クモは祠の元へ歩み寄る。
 しとしとと、降った雨に濡れたポケモンの卵が一つ。
 月明かりに照らされたその卵にビードランはそっと寄り添った。クモもゆっくりとそれに近づき、撫でた。彼はもういなくなってしまったけれど、新しい命はここにある。クモはそっと抱きしめた。わずかに動くそれをゆっくりと撫でてやり、ビードランとともに足取りを緩やかにして家へと向かっていく。

「森の子よ、命は巡るのです。今度はあなたが命を見守る番となったのです」

 聖なる止まり木に緩やかな羽の音が響いてエーディアが帰路につくクモとビードランと卵を見守っていた。
「どうか、あなた達に優しい未来がありますように」


 クモはどうやらうとうととしていたらしい。どんどん、と家の木のドアを叩きつける音で目が覚めた。古いロッキングチェアがぎぃぎぃと音を立てている。入るぞ、と少しけたたましい声で入ってきたのはこの町に住まう若衆のリーダーのアディだ。クモと違って体も大きく、たくましい。少し線の細いクモとは違い、精悍な木こり、と言ってもいい精悍な顔立ちをしていた。
「やあ、アディ。いらっしゃい」
「ったく……爺さん、そんな年でもねえだろ。森に行くんなら、俺も行くぜ?」
「おお、もう夕刻か。では、ゆっくりと行こうか」
 アディは若衆の中では珍しく昔の慣習を大事にしてくれる男で、子がないクモの次の守り人に任命されることになっていた。十八歳で成人すれば、アディがクモの跡をついで森を守っていくことになる。クモはゆるゆると微笑んで、ビードランとアリアドスを呼び寄せた。森へゆくならば、彼がいなくては。

「今日も、エーディア様は見守ってくださるだろうかな」
「エーディア様はきっとお忙しかろうよ。いろいろな場所へ飛び立っておられるからな」
 アディの軽口を聞きながら、クモはゆったりと霧の深い森へと足を進めていく。