剣の誓い


 アスナはリブルと名付けた赤い瞳のリオルの頭をなでてやる。彼とはこれから、きっと長い付き合いになる。ルーンやサーニャがそうであったように。そして、ジェミニがそうであったように。よいしょ、とベンチから立ち上がると、さて、この先はどうしようかな、と悩んでしまう。

 ――――トラオム地方。

 アスナの力が一握り、小さな糸を辿るようにして導くことのできたこの場所の名前。伝承にある夢の世界。ギラティナと深く交わる、異邦の地である。まあ、勿論、アスナからすればどのような土地も異邦の地であることには違いないのだが。
 ここはミタマ地方とは違った面で特殊だ。――――昔、ちらりと読んだ本で見たぐらいなので、詳しいわけではないのだが。
「……でも、なるべくここからは早めに出たほうがいい気がする」
 遠くから聞こえた声。
 あれは明らかに自分に向けられた「悪意」だ。ざわざわと肌を通り抜けた、嫌な感触にアスナは顔をしかめながら、静かに足を進めるしかない。ここがどこであるとして、出口はどこにあるのか、現実の先に自分はどこへ飛び出るのかもわからないのだ。

 とりあえずは一歩。
 
(そうは、思っていても。身が重い)
 いつだってそうだ。
 アスナは全てから逃げ出してきた。逃げた先にはなにもないのだと知りながら、それでも逃げ出した。

 運命から?
 宿命から?
 ――――それとも、自分の身に流れるこの力から?

(多分、きっと全てから)

 アスナはそっと瞳を閉じて、もう一度開いてみた。
 夢ならば、いっそ覚めてしまえばいいのになんてくだらないことを考えながら、いつの間にかバッグの中に入っていた旅券を一度眺めてみた。自分の名前と、入った日だけが記述されているその旅券をもう一度バッグの中へとしまい込むと、アスナは漸く歩き出した。
 ――――どうせ、ここにいたって何も変わらないから。


 カクカクシティにはたくさんのトレーナーがいた。よく見れば、バトルクラブなんて言うものもあるらしい。ルーンにやってみる? と聞いてみれば、彼は首を振った。もともとバトルが好きなタイプではない。必要に応じて戦うことは辞さないが、アスナも、積極的にバトルがしたいか、と言われればそうではなかった。
(だって、誰かが傷つくから)
 痛い、のだ。
 誰にも理解されないけれど、痛いのだ。バトルを見ていると、心が痛い。なぜだかはわからない。否、本当はわかっていた。わかっていて、今日も、アスナは現実から目を背けるのだ。

 ――――少し、ぼうとしていたのかもしれない。
 アスナは人とぶつかった。銀灰の髪色、そして赤い瞳。一瞬彼と視線が交わり、そして、アスナは相変わらず今日も能力に振り回されるのだ。

『お呼びですか。アレサユニオン長』
 長と呼ばれた若い女性はにぱっと八重歯を見せて笑った。
『私、見つけてしまったの。危険な人物を』
『なんと』
『名前もどんなトレーナーかも関係ないわ。連れてきて。生死は問わないわ。……生きててもらった方が都合がいいけど』
『その者の名前は』
『アスナ。ビザと照らし合わせて私のマッピングの能力と照らし合わせたらすぐ居場所が割れたわ。カクカクシティ。トレーナーも多いけれど、赤い髪のイーブイを二匹連れたトレーナー。ああ、愛しいウィリアム。あなたならうまくやってくれると思っているわ』
『勿体なきお言葉。必ずや異分子をあなたの元を』

 ――――どうして、レッドアイ種を連れている。

 ――――そもそも、どうしてレッドアイ種がおとなしく、トレーナーに従っている?

 彼の記憶と心の声。
 嗚呼、めまいがする。

「……ああ。そういうこと」

 結局。
 私はどこに行っても変わらない。

「確かに私は異分子だろうね」

 アスナがそういえば、彼の赤い瞳がまるまると、見開かれた。
 生死を問わないと言われたのは初めてだった。この能力がそれほどいいものだと思っているのだろうか。そんなわけがない。今、に力を持つということは、過去も、未来も捻じ曲げてしまうということだ。アスナはそんな自分が嫌いだったし、そんな自分を愛せない。知りたくもないことばかり見て、今日も結局、誰かにとっての異分子でしかないのだ。

 世界に感じる息苦しさが、アスナの首を絞めた。

「逃げましょう」

 だから。
 その青年の言うことが少しだけ理解できなかった。
「メリットがないよ」
 彼にとっても。
 自分にとっても。
「私はあなたをアレサユニオン長に会わせてはいけない気がする」
「アレサ……そんな名前だったね」
「細かいことはいいです。トラオムを出ましょう。戸籍が固定されていない今なら外に出ても自動的にビザが切れるだけです」
「現地人はどうするの」
 自分はいい。どうせ、どこでも異分子で、逃げればそこから消え失せるだけの存在だ。だが、彼は違う。ここで生きて根付いている人間なのだから。人間である彼が、ここから抜け出すとしたらどうなるのだろう。厳しく旅券とビザで取り仕切っている巨大な組織がそれを許すとはアスナには思えなかった。

 逃げるなら、いつでも一人だ。
 そうやって、アスナは生きてきた。

「私と共に行きましょう。アスナ様」

 差し出された手は、初めて見た。
 ぱちぱち、と目を見開いていれば、彼は優しく微笑んだ。足元で威嚇しているルーンとジェミニの声が聞こえる。彼はアスナの手を掴んだ。――――掴んでくれた。
 世界の誰からも望まれていなかった、「化け物」の手を。

「信用されないのはわかっています。ですがユニオンはあなたの生死すら問うてない。……私はユニオンに全てを捧げて来ました。ですがあなたを見てなにもわからなくなってしまいました。私の答えを私と見つけてはくれませんでしょうか」
「……」
「少なくともカクカクシティは出ましょう。目立ち過ぎる」

 ここは人も多い。
 トレーナーも多いし、ユニオンという彼が所属していた組織がアスナを狙って追いかけてくるのは目に見えている。だから、彼が逃げよう、というのは納得がいく。

(……私は、誰かと一緒にいてもいいのだろうか)

 いつか、彼が自分の正体を知ったとき。
 ――――そんなことを考えながら、彼に手を引かれて、街を飛び出した。
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