「……アリス」
制止の意味など持たないことをわかっていて、苦しまぎれにつぶやいた名は、彼女の唇にやわらかく吸い込まれていった。甘い香りに頭がくらくらする。その奥に、海を思わせる香りがかすかに感じられることには、ここまで近づいて初めて知った。汐の流れに飲み込まれるような錯覚に陥って、慌てて彼女を引き離そうと試みたものの、首の後ろにまわされた細い腕がそれを許さなかった。
「気づいているんでしょう?」
普段より低く囁く声が唇を震わせる。腹の底のほうで燻りだす熱があった。今の今まで押しとどめていたのに、こんなにも簡単に決壊してしまうのかと妙に冷静に考える自分もいる。
「ねぇ、テオ?」
「……まさか」
長い時間を経てところどころ擦り切れてしまって、けれどとても大切に、胸の奥に包み込んでいた記憶。それが急速に鮮やかさを取り戻し、目の前の彼女と重なろうとした、瞬間。
「失礼いたします」
明朗な声とともに、工房のドアが開かれた。よく通る聞き知ったその声に、彼女が弾かれたようにわたしから手を離し、わずかながら距離を取る。
「やはりこちらでしたか」
すらりと背の高い青年がひとり、階段の上にいる彼女とわたしの姿を認めこちらへ歩み寄ってきた。いや、彼の目はわたしを見てはいない。彼女とわたしがどういう状況であったかなどまるで気にしていない様子で、まっすぐ視線を逸らさないまま彼女の前で立ち止まった青年は、ほんのすこしだけ目を細める。憐れむような慈しむような、不思議な表情だった。
「覚者さまがなかなかお戻りにならないので、不敬を承知でお迎えに上がりました」
青年はそう言って、流れるような動作で彼女の手を取り、腰にも手を回して自分のほうへと引き寄せる。彼女は一切抗わなかった。それから、壊れものを扱うかのように、そっと彼女を腕に抱き上げた。
「……テオ」
先程わたしをそう呼んだ彼女の視線は、青年に向けられていた。わたしと同じテオドールという名の、常に彼女に付き従うポーンと呼ばれる戦徒。ただひとりの覚者を主と慕い、その身のすべてを主のためだけに擲(なげう)つことを使命とする彼らポーンは、人の姿を取る者があっても人ではない。
「覚者アリス様は、私が責任を持ってお連れいたします」
彼女を抱いたままこうべを垂れた青年が、顔を上げてここで初めてわたしを視界に入れた。大きく優しげな下がり目に縁取られた淡藤色の両眼が、臆することなく相手をとらえている。意思の強そうな目だった。
青年は踵を返し階段を降りて行った。彼の体の陰になって、彼女の表情は見えなくなった。人ひとりを抱えたままではドアを開けづらいだろうと、わたしは二人のあとを追って階段を降りる。
聞きたいことがたくさんある。堰を切ったように次々とあふれ出してくる大切な記憶が、知り合ってから今まで見てきた彼女と重なり合って整理がつかない。混乱している自覚はあったから、わたしは努めて平静を装った。押し潰されそうな胸の痛みがあった。聞きたいことがたくさんある。今すぐ彼の、わたしと同じ名を与えられた従者の腕から彼女を連れ戻して、この痛みの正体を暴いてしまいたい。
「主が無礼をお許しください」
そう言い残して、ドアを押さえた私の横を青年はするりと通り抜けた。彼らはそのまま外に設置してある転移の礎に向かう。青年の腕上から彼女が礎に手を触れると、表面に淡い光が浮かび上がった。その光に包まれて、瞬く間にふたりの姿は消えてゆく。
彼らが去ってから、わたしは彼女がしていたように礎の表面に触れてみた。ひやりと固い感触があるだけで、なにも変化は起こらない。この雲上の亡都と、なつかしい地上とを繋ぐ架け橋。礎の転移の力を使えるのは覚者だけだ。ここに取り残された民は、どうやっても地上に戻れることはない。わたしがここから彼女を追うことも。
彼女が言った“気づいている”の意味を考えていた。自分の中に押し込めた想いか、彼女自身の心の内か。
彼女に重ねた記憶の影にある、罪悪感に似た感情か。
あのとき従者の迎えがなければ、答えを知ることはできていたのだろうか。けれどすべてを知って、彼女かわたしか、はたまた両者のなにかが大きく変わってしまうのだとしたら、それはただ単純におそろしかった。
「アデリー……」
最後にその名を口にしたのは、遠い遠い過去のこと。
――アデライード。君はもうこの世界のどこにもいないはずなのに。