意識は覚醒していたが視界は光が絶えたように真っ暗だった。今どんな状況なのか知りたい。まずは目を覚まさなければと重たい瞼を持ち上げてみたが、鍵がかかったようにピクリとも持ち上がらない瞼に小さな心臓が警鐘を鳴らす。まるで死体が意識だけを宿しているみたいだ。誰か手を貸してくれないだろうか。暗闇の中、必死になって体を動かしていると

「…っあ!」

ブチブチと筋が切れるような痛烈な痛みが体中を駆け巡り、閉じた瞼の隙間から零れる生理的な涙が睫毛を濡らした。痛い、痛い。動きたいのにちっとも体が言うことを聞いてくれない。それでもなまえは痛みを伝って体の自由を取り戻そうと懸命にもがいた。枯れきった喉に僅かな唾液を湿らせ、到底自分の声とは認識できない掠れた音で助けを求める。体が裂けるような痛みに喘ぎながらも徐々に取り戻していく五感になまえは血を吐く思いで身動ぎしているとすぐ近くからカツンっカツンっと床を叩く靴音が鼓膜をふるわせた。音が響いている。ということはここは屋内なのだろうか。声量の大きな艶のある欠伸声。コツコツと靴音が近づくにつれてほんのり鼻を擽る薄い酒の香りに体から力が抜けていく。もしかしてそこにいるのは…マヌエラ先生?

「あらっ、目が覚めたのね。待ってて、今ジェラルトさんとベレト先生を呼んできてあげるから。それと、安静にしていること。やっと傷口が塞がったところなんだから」

動きたくても動かせませんと心の中で呟くとマヌエラ先生は私が何を言いたいのか分かっているかのように、その顔、動きたくても動けないって顔ねとクスクス笑いながら乾ききった口に水を含ませてくれた。

「喉が渇いていたら積もる話も出来ないでしょう?」

口端から零れた水筋を拭き取るとマヌエラはパタパタと足跡を立てジェラルトたちを呼びに部屋から去っていった。マヌエラが居なくなるとなまえは辛うじて動く左腕を持ち上げ鼻筋からゆっくりと確かめるように人差し指でなぞった。そうして小さな段差を乗り上げ瞼の上を滑らせて、砂のようなザラザラとした感触に瞼があかない原因を把握した。
酒の匂いよりも強く香るツンっと鼻を刺激する薬品の匂い。マヌエラ先生が居たってことは、ここは医務室か。そっか、私大修道院に帰ってこれたんだ。長く眠っていたせいか意識を飛ばす前の記憶が曖昧で、決着が着く寸前で反撃をくらったところまでは覚えているが…そこから後の記憶は何も。あの状況から自力で巻き返せたとは思えないし、恐らく皆が助けに来てくれたのだろう。
皆…そうだ、彼らは無事なんだろうか。大きな怪我もなく大修道院に帰ってこれたのだろうか。今すぐここから抜け出して一人一人の安否を確認したいところだが、悔しいことに今の私の体では一人で上体を起こすことさえ難しい。歯を食いしばり体に力を入れるも右腕は全く動かない。寝台に横たわっているはずが鐺の上で焼かれているかのように燃えるように熱い背中は衣服の僅かな擦れでも敏感に背筋を反り上げ悲鳴が喉から飛び出す。気が飛びそうな激痛だった。死を匂わせる部屋。1人部屋に取り残された寂しさと真っ暗な視界が痛みの奥底で燻る『死』をほんのりと匂わせる。右肩も頭も顔も腹も背中も足も、ちょっと力を入れるだけで四肢をもぎとられるような激痛が弱った心を殴り、次は左腕かと少し想像するだけでも喉に大きな石が詰まっているかのような息苦しさに涙が零れた。私が殺した人たちもこんな心細い思いを抱えて死んでいったのだろうか。息を潜めて近づいてくる『死』を前に、漠然とした恐怖と不安に苛まれながら冷えていく体を腕に抱いて…
暗い思考に囚われズブズブと沼底へと沈んでいく私の首根っこを誰かが掴んだ。そうして抗いようのない力にズルズルと引き揚げられ、誰だと振り返った先には雨の匂いを漂わせたベレトさんが唇を震わせながらそっと唇を開いた。

「なまえ」

左から聞こえたベレトの声になまえはハッと意識を浮上させる。人の気配を感じなまえは恐る恐る「…ベレト先生?」と名前を呼ぶ。するとマヌエラが悲鳴をあげると同時に上半身から背中にかけて走る悶絶するような痛みと温もりになまえはマヌエラ同様悲鳴をあげた。
これは、ベレトさんに抱きしめられている?右腕は動かせず感覚を頼りに左腕を伸ばし大きな背中に手を伸ばす。あやす様にゆっくりと繰り返し叩きいていると動かない右手を包み込んだ大きな手とそこから伝わる火傷しそうな温もりにジェラルトさんを感じた。

「なまえよく生きて戻ってきた。ほんとうに、ほんとうによかった…」

掌に落ちるジェラルトさんの涙に少しだけ死んだように動かない右手がピクリと動いたような気がした。ベレトは抱きついたまま一言も発さず、ジェラルトは目が覚めてよかったと何度も何度も繰り返しては鼻を啜る。二人の声を聴いてなまえの冷たくなった感情に温かな火が灯り肩の力が抜けるような安心感に涙が包帯を湿らす。トクリトクリと心臓の音がする。まるで息を吹き返したみたいに、私が私に戻れたような瞬間だった。

「話が済んだら声をかけてちょうだい」

マヌエラが席を外すとジェラルトは起きれるか?となまえに尋ねた。しかし背が痛くて動けないと首を横に振るなまえにジェラルトはそうか…と眉を八の字に曲げカラカラと近くに放置された椅子を引いて腰掛けた。

「何はともあれ無事でよかった。なぁ、ベレト」
「ああ。本当に…安心した」

短くなった髪を指の腹で擦りながらジェラルトは無事でよかったと鼻をすすり、包帯でぐるぐる巻きにされた頭をベレトは愛おしげに撫でる。無事でよかった。安心した。生き残った命へジェラルトとベレトが温かい言葉を一つかける度になまえはありがとうと感謝を述べる裏で暗い水底に沈むような息苦しさに心を痛めていた。苦しい。まるで見えない無数の手に首を絞められているみたいだ。
私の生存を喜ぶ2人には申し訳ないが、私はあの場で生き残るべき人間だったのかよく分からない。私は人の命を奪ってまで生き残る価値のある人間だったのだろうか。滴り落ちるほどに吸い上げた罪が体の内を巡っている。目を閉じるだけで私が作りあげた地獄が頭の奥に広がる。私の足元にはたくさんの欠損した体が私の心臓を狙い這い上がり、身体を寄越せ、家族が待っているとたくさんの目が私を恨み泣いている。初めて剣で殺した男の顔が、声が、頭の奥で蘇る。穴の空いた心臓を見せつけるようにこっちへおいでと手を広げる男に私は『死にたくない』という理由だけで男を容易く斬り裂き転がった人形のような体を他人事のように見下している。怖くないわけじゃない。ただ、正当な理由もなく牙を剥き襲いかかった他人を静かに見下ろしていると手の震えが止まり怯えた心に安らぎが訪れるのだ。これでいい。生きるためにはこうするしかない。生を求め身体に絡みつく無数の手足を振り解いては1本ずつ折っていく作業が苦痛でもありながらほんの少しだけ爽快で…違う!私はそんなこと1度だって思ったことなど…たとえ相手が盗賊でも私は人殺しなどしたくなかった。でもあの時は自分のため、ひいては仲間が生き残るために仕方なく。ずっと罪の意識はあった。口の中は苦い鉄の味が染み付き、気を抜いたら抑えていた猛烈な吐き気で嘔吐していたかもしれない。正気じゃなかった。あと時の私は正気じゃなかった。じゃないと、そうじゃないと。


どうしてあの時、わたし、椿のように落ちていく頭を見ながら心の中で笑っていたの?


「なまえどうした?傷が痛むか?」

わなわなと唇を震わせたなまえにジェラルトは口元しか読み取れない感情に目を凝らす。乾いた唇に目が留まりジェラルトは水が欲しいのか?と問いかけるもなまえはフルフルと小さく首を振り左手で布団を引きちぎる勢いで掴む。嫌だ。軽蔑されたくない。見捨てられたくない。でも言わないと心が押し潰されそうだ。

「ジェラルトさん、べレトさん」

助けを求めるような声が二人の名を呼んだ。言い辛そうに唇を噛み締めるなまえにベレトはゆっくりでいいと言った。愚図る子供をあやすように頭を撫でるその手があまりにも優しくて温かくて、

「わた、わたしっ…」

塞き止めた感情が喉から一気に溢れ出した。

「わたし、人を殺しました。たくさん、この手で、殺しました…ごめんなさい…ごめんなさい」

たとえ手を合わせ膝を着き頭を垂れても斬った肉の感触が薄れることは無いのだろう。死んで詫びろと声がする。頬を撫でる薄紅色の手骨がお前はこっちだと私を誘う。止まない死者の囁き声に耳を塞ぎもうやめてと蹲るとポンっと無骨な手が肩を叩いた。そっと顔を上げ振り返った先には表情の読めない顔のジェラルトさんが死を前に腰を抜かした私を静かに抱きしめていた。

「なまえ」

ジェラルトに名を呼ばれた途端、魑魅魍魎に汚染された頭が真っ白に染まった。体から吹き出す嫌な汗に寒気を覚える。私は一体何を見ていたのだろう。夢と現実の境目が曖昧な幻覚に、瞑った瞼の奥が煮えるように熱く締め付けられる。なまえの罪の告白にジェラルトとベレトは互いの顔を見合わせ眉間に皺を寄せる。なまえが剣を持つ前から無理に戦う必要は無い、殺生はまだ早いと過度に彼女を死から遠ざけすぎたが故に強い罪の意識が彼女の首を締め上げていた。自らを自らの手で追い込むなまえにジェラルトはなまえと呼びかけ、ガシガシと短くなった髪を掻き回すした。そして肺が萎むほど深く息を吐くと震える手を大きな手で包み込んだ。

「謝るななまえ。死者への謝罪は冒涜と同じだ。お前は命をかけた争いに勝ち生き残った。悪いと思うぐらいなら奪った命の分まで胸を張って生きろ。それでも前を向けないってんなら嫌な記憶なんてさっさと忘れちまえ。いいな」

まあ、そう簡単に忘れられる記憶ではなさそうだが。
離れていく温もりに寂しさを感じるなまえだが、怖気付く気持ちを立ち直らせる力強い言葉にほんの少しだけ嫌な記憶が色褪せたような気がした。ジェラルトから学び取った心構えを心に刻み唇を結ぶ。それから少しだけ話しをするとジェラルトは『暫くは動けないらしいが無茶だけはするなよ』と強く釘を刺し席を立った。

「ジェラルトさんはどこへ?」
「仕事だ。なまえが目覚めるまで仕事を控えていたからな」

ベレトから告げられた耳の痛い現実になまえは表情を曇らせる。眠っている間にも人の足を引っ張っていたなんて…私は本当にどうしようもない奴だ。

「私の為に、申し訳ないです」
「気が散ったまま仕事を請け負ったところで失敗することは目に見えている。ジェラルトはあれでいいんだ」

しとしととまた包帯を湿らすなまえにベレトはなまえのせいじゃないと細長い指で握りしめた拳を解き両手で包み込む。「手が冷えているな。寒いならもう1枚毛布を持ってこようか」とカタンっと簡素な椅子を傾け腰をあげたベレトになまえは手に力を込めた。

「充分温かいですから大丈夫です。でも…その代わりに、もう少しだけ手を繋いでくれませんか…何も見えないのでちょっと怖いと言いますか…」

お子ちゃまだと笑われても良かった。どうか今だけは家族と一緒にいたかった。耳鳴りが止まるまで。指先の震えが止むまで。また怖い顔をした人達に手招きされたらと思うと恐ろしくてどれほど夜が深くても眠れそうにない。
あ、でもベレトさんはベレト先生だった。明日授業があるなら断ってもらっても構わないとなまえは慌てて手を離そうとした。しかし再度手を包んだベレトが眠るまで一緒にいると全てを包み込む柔らかな声と言葉になまえはふと子守唄を口ずさむ懐かしい母の姿を思い出し、帰りたいなぁと傷だらけの体を抱きしめながら鼻を掠めた母の香りに体の力を抜いた。
眠れるまで話をしてください。寝物語を所望するなまえにベレトはじゃあなまえが眠っていた間の話をしようかと椅子に座り直し、動けないなまえの代わりに毛布をかけ直してやった。どれほど長くなるのだろう。頭の中で正の字を書き、体の倦怠感と凝り具合から2日3日の話かとなまえは甘く見積っていた。しかしベレトの口から発された花冠の節6日の日付になまえは言葉を失った。え、嘘。私6日間も眠り続けていたなんて…。

***

あの日、村の大きな陰謀に青獅子の生徒が巻き込まれた日のこと。赤き谷へ逃げ込んだ賊を難なく討伐したベレトは大修道院に戻ると報告書作成の為部屋にこもり筆を走らせていた。ベレトの見事な采配により死者並びに重傷者も出ず無事課題出撃を完遂した黒鷲の学級に大司教レアは賛辞を贈り心身ともに疲れ果てた生徒も多いだろうと数日間の休養を与えた。
久しぶりの休日に手を挙げて喜ぶ生徒達。しかし悲しいことにベレト“先生”に休みはない。賊討伐の報告書を書くようセテスから何十枚もの羊皮紙を手渡された上、詳細に事の流れを書き記すよう言い渡されたベレトは無表情ながらもガックリと肩を落とし自室へと戻った。報告書と格闘すること3時間。空には欠けた月が浮かび何万もの星が夜空に煌めいている。腕を回しながらふと時計に目をやり夕食どきかと椅子を引く。いつもならコンコンっと控えめな扉の音が鳴ってもおかしくない時間。ベレトは首を傾げつつも扉を開き食堂へと向かった。疲れて眠っているのだろうか。黒鷲の学級が賊討伐に向か うと同時刻に他の学級も奉仕活動として近隣の村に向かったことは他学級の生徒から聞いていた。毎年奉仕活動とは名ばかりの相当過酷な労働を強いられるようで、疲れやすいなまえの事だから恐らく部屋でぐっすりと眠ってしまったに違いない。寮2階端の暗い部屋にベレトは一人納得し、今日は一人で食べるかと凝り固まった腕を回し食堂に向かっていたその時、すれ違いざまに聞こえた身も心も凍りつくような噂話にベレトは無意識のうちに男子生徒2人組の肩を掴み引き留めた。

「青獅子の級長同行班がまだ帰ってこないというのは本当か?」

突然ベレトに肩を掴まれた男子生徒達はその腕力と剣幕な顔に恐れをなし『市場で彷徨く兵士達がそう言ってたんです、どうか殺さないでください!!』と泣きながら去っていった。寮の2階端、暗い部屋。嫌な予感がする。背中を撫でる冷たい風にベレトは地を蹴り明かりの灯らない扉を激しく叩いた。なまえ、なまえ!ベレトらしくもない焦り声。しかしいくら呼びかけても返答はなく、最奥の部屋三つを叩くもやはり返事もなく部屋は暗いまま。
帰っていない…そんなことありえるのか。いや、あってはならない。彼らは奉仕活動に行ったんだ。賊退治に行ったわけでは無い。男子生徒の発したつまらない戯言を振り払おうとベレトは噂の発端である兵士たちを問いつめに市場へ向かった。そして青獅子の学級が帰っていないと騒ぎ立てる兵士達に唖然とし、膝から崩れ落ちていくような絶望に血の気が引いた。

「先生、先生!!大変なことになってますね!!」
「…ああ、君は」

話しかけてきた気のいい門番に何が起こっているのか問う。すると門番は驚かずに聞いてくださいと深呼吸をし、重たい口を開いた。

「どうやら奉仕活動で出立した青獅子の一部生徒が帰ってきていないみたいです。村は大修道院からは少し離れた場所にあるそうですが、引率の先生からの報告もなく、もしかしたら危険なことに巻き込まれているのではないかと噂になっているようですよ。今教団が兵を出すか否か審議しているそうですが…先生の妹さんは確か…青獅子の学級の、級長の班所属でしたよね」
「ああ、そうだな」
「きっと無事に帰ってきますよ。先生も妹さんも心が綺麗な人ですから、天上の女神様がきっと二人のことを見守ってくれています。賊討伐お疲れ様でした。先生もお疲れでしょう?あとのことは我々に任せて先生は部屋でゆっくり休んでください!」

妹さんが帰ってきたら真っ先に私が伝えに行きますからと自信満々に胸を叩く門番にベレトは頼もしいなと痛々しく口角を僅かに上げた。門番に後の事を頼みたかったが、なまえの安否が気になって素直に部屋に戻ることなどベレトにできそうにはなかった。もう少しだけここにいたいとベレトは門番の横に並び立ち騒がしい市場を傍観者の如く眺める。一向に開く気配のない城門を前にベレトは心が削れていくような思いだった。無事に帰ってきてくれさえすればそれでいい。望みはそれだけである。
空腹感も忘れるほどの深い不安、そして大切な人を失うかもしれない恐怖感に憂慮していると荘厳な靴音を鳴らして現れたセテスがレアの言伝を述べた。生徒の捜索を開始すると宣言したセテスを前に迅速な指揮の下、何十もの兵隊を組み青獅子の生徒が訪れた村及びその道中をくまなく捜索するよう強く言いつけた。セテスが焦るのも無理はない。消えた生徒の中には次期ファーガス神聖王国の国王や王国領を統治する有力貴族の嫡子が在籍している。万が一生徒が命を落とすようなことが起こればその責任は全て教団が負うことになる。たとえ組織を解体することになったとしても課せられる責任はあまりにも重く大司教相手とはいえ責任追及は免れないだろう。隊が次々と編成されていく中、ベレトは自分も参加したいとセテスに頼んだ。セテスは疲労の面で役に立つだろうかとベレトの参加を渋るような顔をしたが、ベレトの身内が青獅子の学級にいた事を思い出すとセテスは特別措置としてベレトの参加を仕方が無いと首を縦に振った。人手が多い方が捜索は捗る。現段階で動かせる兵を集結させ、大規模の捜索にセテスが号令を掛けようとしたまさにその時、城門を叩き壊すような音に皆息を止めた。

「頼む開けてくれ!!重傷者がいるんだ!!」

切羽詰まった声にベレトは群がる兵をおしのけ城門へと駆け寄る。門番達が大慌てで鎖を巻き上げ、格子が巻き上がる前に城門をくぐりぬけたベレトはディミトリが抱える女生徒に丸く目を見開き息を飲んだ。…なまえ、なのか?露となった肌はどこもかしこも血に染まり薄らと焼け焦げた匂いもする。ベレトは短くなった髪を見つめながら壮大な事件に巻き込まれたのであろうと変わり果てたなまえの姿にベレトは心を痛め顔も知らぬ相手に目を怒らせた。怒りで真っ白になった頭からなんとか言葉を引っ張り出し、あとは俺が運ぶと傷だらけの皮膚が裂けぬよう慎重にディミトリからなまえを受け取る。死んでいるような冷たさにゾッとするもかろうじて聞こえる呼吸音にベレトは周りの声を振り払い足早に医務室へと駆けた。そして酒臭い部屋の扉を殴りつけるように叩くと目を擦り現れたマヌエラにベレトは一言「助けてくれ」と傷ついたなまえを見せ寝台へと下ろした。
一人も欠けることなく青獅子は大修道院へと戻ってきた。城門をくぐった途端緊張の糸がほどけたのか、ぐったりとその場に倒れ込む生徒達にセテスは慌てて回復魔法が使えるものを集めろと伝令を出し、それと並行して大司教に青獅子の生徒が帰ってきたことを報告した。帰宅直後生徒は皆憔悴し自分たちの力では歩けない状態だった。しかし面白いことにほとんどの生徒はかすり傷程度の外傷が多く、傷を癒し水と少量の食事を取り終えるともう1人でも大丈夫ですと自分たちの足で自室へと帰っていった。ディミトリ、ハンネマンに関しては彼らよりも少しばかし傷は深かったが、適切な処置が施されていたこともあって二日医務室で休んだ後また元の生活に戻っている。残る生徒はなまえだけだが…まるで他の生徒の傷を一人で負ったかのような痛々しい傷は治りが悪く、その上一度も目を覚まさないものだからどうしたものかとマヌエラは頭を抱えていた。打撲に火傷、骨折に切り傷、その他にも神経切断から眼精疲労等々挙げればきりがない。何があってここまで負傷したのか。回復魔法だけでは追いつかない傷の多さにマヌエラは欠伸を堪え連日医務室に入り浸っていた。本人が目を覚まさないことにはここから離れるわけにはいかない。完璧な処置を施しても本人が目覚めなければ意味が無いのだ。こうしてハンネマン達が退院し、マヌエラが医務室を自室のように扱い出してはや六日。欠伸を抑えるも強い眠気に誘われてウトウトと船を漕ぎ出した真夜中、眠姫の如く眠っていたなまえがゆっくりと地底から浮上するように意識を覚醒させたのは日付が変わる少し前のことであった。

ぐるぐるとお腹が鳴り出して「今何時ですか?」と尋ねるなまえに戻ってきたマヌエラが「午前1時07分ね。勿論食堂は閉まっているわよ」と棘のあるひとことを添えた。明日の朝まで待たないといけないのか。溜息をつき我慢しますと腹を擦るなまえにマヌエラはまぁ私の話も聞きなさいとすぐ側で美味しそうな匂いを漂わせた。

「貴女の事だからまた無理をして食堂に行くんじゃないかと思ってね。こんなこともあろうかと病人用の保存食を用意していたのよ。申し訳ないけれどあたくしもう目が限界で、少し仮眠させて頂くわ。ベレト先生、後のことは任せてもよろしいかしら?」
「分かった」

マヌエラを見送り終えたベレトは美味しそうだぞとマヌエラから受けとった病院食にフーっと息を吹いた。まさか私の食事を取ろうだなんて…と体を強ばらせるなまえだが、口を開けろと言われそっと顎を下げた途端、流れ込んできた柔らかい米に自然と口角が上に上がった。
美味しい。もぐもぐと忙しなく口を動かしながらなまえはそうだと思い出したように声を上げベレトが持つ蓮華の手を止めさせる。

「ベレトさ…先生から教えて貰った戦略を実戦で活かすことが出来たんです!荒削りな部分は否めませんが、それでも私上手く立回ることが出来たと思います」
「そうか。それは良かったな」

自分に負荷をかけすぎたせいで危うく作戦が頓挫しかけたが、ベレトから学んだことを余すことなく活かせたとなまえは確かな感触に左手を握った。
もっと早くにあの特別な感覚に浸ることができたら殿下が大きな怪我を負うことは無かったのかもしれない。でも目標通り皆生きて帰ってきた。ようやく自分を褒める時がやってきたのかもしれない。でもその前に、

「青獅子の皆は元気にしてますか?」
「ああ。毎日、空き時間にお前の様子を見に来ていたよ。まだ目は覚めないのかって」

良好な関係を築けているようだなとベレトにしては珍しい弾んだ声になまえもはい、そうみたいですねと自然と声が高くなった。そっか、皆私のお見舞いに来てくれてたんだ。感動のあまりジンっと熱くなる目頭を抑えているとポンッと頭を撫でる温かな手が一つ。

「食べて寝て、また朝が来たら。皆に会えばいい」

きっとみんな喜ぶ。その一言になまえはそうですねと強く頷くとまた口を開けモゴモゴと頬を動かした。いっぱい食べてまた少し眠って、そしたら6日ぶりにみんなに会える。再会したら皆になんて言おう。まずは勝手に死にかけてごめんなさいと謝罪して、その後は皆が無事で良かったって喜んで、それからそれから…

こんなに夜明けが待ち遠しいと思ったのは今日を除いて他にないだろう。沢山食べろと山のように掬い口に入れるベレトになまえは口いっぱいに詰め込まれた米をゆっくりと咀嚼する。早くみんなに会いたいなぁ。ほんの少し未来から聞こえてくる騒がしい声の訪れになまえはゴクリと喉を鳴らすとまだ日が昇らぬ夜に一人明るい未来へと耳を傾けた。