数分前に鐘が鳴り昼食休憩はとっくに始まっていた。青獅子の教室に居るのは私だけでその他の生徒は皆食堂に行ってしまった。そろそろ私も休憩しようかなと思ってはいるものの、あと1問、この頁で最後とズルズル終わりを伸ばしているうちに学びの止め時を完全に見失っていた。普段の私であれば鐘が鳴った直後教科書を閉じ食堂へと全力疾走するのだが、資格試験間近ということもあって強引に時間を割いては勉学に投資している。お腹すいた。でもこの章まで終わらせないと明日の分に加算される。『ここまで』と印をつけたページを捲り乾いた筆先に印矩を染み込ませ、さぁもうひと踏ん張りだと食事を先延ばしにした直後だ。

「やぁ、勉強熱心なお嬢さん。休憩がてら俺と食事でもどうだい?ほらほら、なまえの好きな林檎のパイもあるぞ〜」

空腹には刺激が強すぎる甘い香りを纏い視界の端から割り込むように現れた休憩の天才が私の集中力を全て奪った。ここ青獅子の教室だよと肩に下げた外套の色も合わせて親切に教えてあげる。するとクロードは教室に国境はないんだぜと飄々とした態度で片目を瞑るとまだ栞を挟んでいない教科書を閉じた。
甘い香りがする大きな籠を握り締め「飯にしよう!」と教室を飛び出したクロードになまえはやれやれと肩を竦めながら印矩を染み込ませたばかりの筆を置き腰を上げた。好物を目の前でチラつかされたら誰も勉強どころではないでしょ。『何処に行くの?』クロードの隣に並び籠の取っ手を片方握るなまえにクロードは『いいところ』と含みのある言い方で唇に人差し指を添えると食堂とは真逆の方向に向かって歩を進めた。

クロードに連れられやってきた場所は大聖堂の入口近くに設けられた連絡橋が一望できる一角だった。よし、到着。クロードは荷物を隅に置くと軽食と飲み物を取り出して1つずつなまえに手渡した。食堂で提供されるものとはまた違う、香辛料が効いた甘い林檎の香り。いつも美味しそうだなぁと市場を通る度に視線を向けていた軽食になまえは目を輝かせ、ありがとうと頬を緩めた。

「ねぇ、ここで食べてもいいのかな。後で怒られたりしない??」
「なまえは心配症だなぁ。ここは普段から人通りが少ないし、別にここで食ったところで道を塞いで誰かの邪魔をしている訳でもないんだ。しっかり後片付けさえすれば誰も怒りはしないだろ。ま、どっかの融通が聞かない人が来ない限りは平気だって」
「最後の一言で一気に不安になってきたんだけど…」

無難に食堂で食べた方がいいのではないだろうか。既に塀に肘をつき食事を始めるクロードになまえは握った軽食と連絡橋を渡る教団関係者の間を交互に目を遣った。心配しなくても怒られる時は一緒だとクロードはちっとも気にする素振りを見せずちょうど頭上を滑空している飛竜に口笛を吹いている。なんて呑気な人なんだろう。最近何かと呆れられ叱られため息をつかれることが多いなまえはなかなか握った軽食をかぶり付けずにキョロキョロと周囲を警戒していた。しかし「食べないのか?なら代わりに俺が」とクロードの冗談とも本気とも取れる言動になまえは握る軽食の危機に大きく目を見開くとしれっと伸ばされた手が軽食へ辿りつ前に大きく口を開けもごもごと頬を膨らませた。
美味しい。たっぷりの林檎をパイ生地で包みこんがりと焼き上げたそれは無意識に二口目を咀嚼しているほどの美味しさで、その美しい見た目に比例した程よい甘さになまえは首が取れる勢いで真横に顔を向けた。

「これすごく美味しいね」
「だろ?」

ボロボロと制服を落としていることなど気にも留めず、噛み締めるように口を動かすなまえをクロードはひっそりと笑いながら彼女に倣って軽食にかぶりついた。
たまには外で食べるのも悪くない。南西から吹く風に揺れる髪を押えながらなまえは軽く塀から身を乗り出すと眺めのいい景色にふーっと息を吐き静謐な一時に肩の力を抜いた。

「いい風だね。食堂と比べてとても静かだしすごく落ち着く」
「気に入ってもらえたようで何より。たまにはこういうのも悪くないだろ?」

それに、なまえとは落ち着いた場所でじっくりと話したいことがあるからさ。そう言ってクロードは最後の一口を喉に通し両手を叩いて軽食の欠片を払うと空を仰いだ視線を隣のキョトンっとした顔へ向けた。私と話したいこと?なまえは心当たりを探して視界の右端を見つめ記憶を呼び起こす。あっ、もしかして私が眠っている間にこっそり包帯に落書きしてたこと?となまえは思い当たる節を上げ絵が上手だねと親指を立てた。しかしクロードはその件については適当に笑ってあしらい、話したいことはもっと他の事だと首を横に振った。もっと他のことか…あ、じゃああれだ。なまえは指を鳴らして書庫で居眠りしていた際に外套の袖を蝶蝶結びにした事かと渋い顔で問いただすとクロードは顔を逸らして誤魔化すように笑ったが話したい事はその件でもないとまた首を横に振った。

「俺が話したいことは他でもないお前のその不思議な瞳についてなんだが」

顔を合わせた時からずっと気になって仕方なかったと好奇心を顔に張りつけた顔を前になまえはだと思ったよと柔和な笑みを浮かべ最後の一口を胃に収めた。
風で乱れた前髪を払い変色した瞳を日の下へと晒す。私自身よく分からないのと壁に背を預け空を仰ぐなまえにクロードはそれでもいいと底が深そうな秘密を前にお行儀よく頭の後ろで手を組んだ。

「本人すら知りえない謎ほど考察しがいがあるってもんだろ?」
「…そう?」

本人すら知りえない謎を躊躇いなく突く命知らずな探求者は君くらいじゃない?背中で手を組み軽口を叩いたなまえにクロードはお褒めにあづかり光栄だと仰々しく会釈した。その所作は普段のクロードには似合わない貴族らしい気品が確かに滲んでいた。が、口の端が汚れていては台無しだとなまえは流石クロードだと吹き出して笑うと『口元』と汚れている口端を自身の口元を叩き『ついているよ』と指摘した。

「ほーこれはまた」

顎に手を添え翠を覗き込むクロードは得た材料を組み合わせながら熟考していた。

「なるほどねぇ。後頭部を殴打され、発熱した直後気づいた時には目の色が変色していたと…元々紋章を宿していなかった体に紋章が発現したってのも興味深い話だな…って。おい、どうしたなまえ。顔色悪いぞ?」
「…気にしないで。記憶から消したはずの黒歴史がちょっとぶり返しただけだから」

うっ、と嘔吐き口に手を添える。芋づる方式で思い出してしまった苦い記憶、可能ならばもう一度あの戦闘をやり直したい。感触はもう忘れたはずなのにあの日のことを思い返す度に自然と唇を手の甲で擦っている。
御伽噺に憧れを抱く乙女ではないし、接吻の一つや二つで落ち込んでいたら傭兵業は務まらない。それは百も承知なんだけども…初めての接吻が『あれ』と思うと吐瀉物の一つや二つ吐きたくもなる。くっ、初めての接吻相手が髭面強面男かぁ…せめてもう少し爽やかで綺麗に笑う人がよかった。
青ざめた顔でグッと目を瞑るなまえをクロードは大丈夫か?と背中を摩った。そして『悩みがあるならいつでも聞くぞ?』と気を遣って相談役を買ってでたクロードになまえは『え、ほんと!?』とばかりにカッと目を見開くが、すぐさまいやいやそれは無理だろうと首を横に振った。こんな口に出すのもはばかられる私情、誰かに打ち明けられるわけがない。
だが断りの言葉を考えていた時なまえはふと、歳の近い子供の恋愛話を聞ける好機はこの流れを逃せば他にないのでは?と情報通な男を前に苦悶した。そして人の弱みや秘密を知りたがる割には知った秘密を無闇に公言しないその口の硬さと交流関係の広さを評価し、なまえは腹をくくると酷く真面目な顔で「これはある友人から受けた相談なんだけど」と空想の友人を仕立て話を切り出した。

「その、クロードに好きな人がいると仮定して、その人がやむを得ず好きでもない人と初めてのキスじゃなくて『接吻』を済ませていることを知ったらクロードはその人のことを軽蔑したり好きだって気持ちが薄れたりしない?」
「...すまん。唐突過ぎる話題の振りに頭が混乱した。俺の聞き間違いじゃなければ今接吻がどうのこうのって」
「うん。だから好きな人がやむを得ず好きでもない人と過去に接吻してたとしたらクロードは軽蔑したり気持ちが薄れたりするかどうかって話」
「なるほど...なるほど?いや、んー、まぁ俺の場合は…そうだなぁ。恋も接吻も大人になるための通過儀礼みたいなもんだし惚れた女の色恋沙汰を知ったところで軽蔑したり嫌ったりってことはないな。わざわざ“やむを得ず”って言うくらいだ。なにか深ーい理由があるんだろ?俺は人が嫌がる秘密には首を突っ込まない主義なんでね。別に心変わりはしないよ」

その友人さんは随分とまあ世間知らずで恋に疎い奴なんだなとニヨニヨと裏のある笑みを浮かべるクロードになまえはそうだね!と腹から声を出しておきながらもいじいじと左右の人差し指を回している。

「…ねぇ、それって一般的な男性にも当てはまる考え?」
「さぁ、それはどうだろうな。よほど嫉妬深い男か器の小さいやつじゃなきゃ気にする必要は無いと思うけど。まぁ貴族連中は紋章だの家柄だの拘っているやつも多いだろうし、そういう『手解き』を受けてるやつがほとんどだろ。今更惚れた相手の恋愛沙汰に腹を立てたところでじゃあお前らはどうなんだって話に…」

そっか…なんだ、接吻1つで絶望し吐き気を催してきた私は単に初で無知な面倒臭い女だったということか。フォドラの若者は私が思っていた以上に青春していたのかと記憶を掘り返す度に気にしすぎていた己の自意識過剰ぶりにため息をついていると

「ま、これは俺の場合なんだが」

ポンっと両肩に手を置いたクロードはいつになく真剣な顔をしていて、自然と体に力が入る。一体どうしたのかと小さく首を傾げたなまえは徐々に詰められていく距離に狼狽し一歩足を退くが

「そんなに気にしているならいっその事俺が忘れさせてやろうか?そのやむを得ず接吻した男の存在を」
「え?」

私は何か大切な場面を見逃してしまったのだろうか。一歩踏み出せば友達の枠から外れる距離。いつもより鮮明に見える艶がのった唇になまえは瞬きを忘れ魅入っていた。
経験のない謎の甘い雰囲気が妙にむず痒く、内心ドギマギしながらこの空間をつくりあげたクロードの動向をなまえは静かに見守る。いつもの声にちょっと渋みをきかせてしれっと膝を曲げ近づいてくる唇になまえは両手で胸板を押した。ちょっと待って!私たちそういう関係じゃないでしょ!?となまえは目を白黒させながらもここは目を閉じるべきか否かと脳内会議で多数決をとっていた時だ。

「とかなんとか言って慰めるかね」

フッと空気が抜けるような笑い声と共に『冗談だよ』と両手を離したクロードになまえはパチクリと瞬き放心すること数秒。純情を弄ばれたことを理解し、青かった顔色をボッと火が着いたように耳まで赤く染めたなまえは未だ困惑しつつも人の心を弄んだ悪戯小僧を睨みつけた。

「え、あ…く、クロードっ!からかわないで!!まったく。心臓に悪い」
「悪い悪い。いやぁ〜ちょっとした悪戯のつもりだったんだが、随分いい反応をするもんだからつい、な?」

なにが『つい』だ。乙女の純情を弄んだ罪は重いと口を尖らせるなまえにクロードはちっとも悪びれた様子もなく、むしろさらにからかってやろうと画策しているのか「俺は別に構わないけど?」と再度誤解するような距離まで詰め寄ってくる。しかしこの手のクロードの悪戯についてはなまえも十分学習したようで、伝家の宝刀『ベレト先生呼びますよ』の一言でクロードを切ったなまえに勘弁してくれとクロードが跳ぶようになまえから距離をとったのは言うまでもない。