青海の節。私風に言うと7月の上旬。
常に資格試験に追われ続けた花冠の節に別れを告げ新調した制服に身を包むと新たな節の始まりに背筋を伸ばした。
前節、友人達の手厚い支援を経て見事2種の兵種資格を取得しこれで暫くは一息つけると安堵していた。睡眠時間を削る勉強漬けの日々は終わった。これからは本腰を入れて転移魔法を学ぶことができると意気揚々と腕をまくった矢先ののと。1つ問題が片付いた途端、まるで補充式のように発生する新たな問題に頭を抱えた。
「なまえ君。今日の放課後黒鷲の学級に行きさない。補習だ」
30点満点ならかなり高得点では?とすっとぼけた冗談が言える状況ではなかった。この点数は…うん。危機感を覚えずにはいられない酷い点数だ。
痛々しく眉を顰めたハンネマンは目も当てられない答案用紙を返却し、赤い数字が記されたそれを受け取ったなまえは言葉にならない叫び声を上げ教室の端に座るフェリクスへと絶望に満ちた顔を向ける。私、補習なんですが。その訴えるような視線にフェリクスは俺を見るなと言わんばかりに腕を組んだままフイと目を逸らす。いや、なんで自分は関係ないみたいな顔をしているのか。元はと言えばフェリクスが資格試験を2種取れとか言うから2種の資格を代償に赤点を2枚も取る羽目に...はぁ、人のせいにするのはやめよう。どのみち私の学力では何種とっても赤点行きだっただろうし。
自席に戻りレ点だらけの解答用紙に目を通していると思いがけず視界に飛び込んできたアネットの点数に私は目を伏せそっと答案用紙を裏返した。ふっ、これはもう開き直るしかないな。
なまえは答案用紙を4つ折りに畳むと教科書に挟んだ。そして赤点ぐらいで落ち込んでませんと妙に吹っ切れた美しい顔で残りの授業に全力で臨んだ。休憩時間には青獅子女子と菓子をつまみ、実技訓練では珍しく剣のみでフェリクス相手に引き分け、今日も実りある1日だったと汗を吹いた。そうして今日も一日の半分が平穏に終わり、放課を告げる鐘になまえは「また明日。お茶会楽しんでね」と荷物を抱え友人達と別れると
「…はぁ。私もお茶会行きたかった」
青獅子とはまた違った厳かな雰囲気漂う教室前でなまえはガックリと肩を落とした。
補習教室には既に数名の生徒が集まっており、金鹿の大柄な男子生徒と黒鷲の快活な男子生徒の腕相撲を囃し立て賭けた有り金の行方に一喜一憂していた。士官学校でも酒場のような遊びをするんだなぁ。なまえは有り金を確認し絡まれないように教室の端の席に荷物を下ろした。影と埃が溜まっている。あまり居心地がいいとは言えない。早く補習が終わらないかなぁと今頃庭園でお茶会を楽しんでいる友人達の姿を想像しギリリと奥歯をかみ締めていると、ふと手元を覆った人影の存在になまえはそっと顔を上げた。
「あなたの隣、空いてる、いますか?」
「え?あっ、はい。空いてますよ」
「そうでした、ですか。失礼します」
席はまだそこらじゅうに空いていた。だがあの騒ぎが苦手で私と同じように教室の隅へ逃げてきたのだろう。てにをはを抜いた特徴的な話口調の少女は私に小さく会釈すると荷物をおろし隣に座った。見たことがない人だ。金鹿か黒鷲の生徒か。補習で使うにしては分厚すぎる本を何冊も持ち込む少女になまえはつい教科書を捲る手を止め分厚い本の背表紙に目を遣った。あれは...辞書だろうか?表紙の痛み具合に勉強熱心な人だなぁとつい傷んだ本から彼女の努力を推し量っていると、私の視線に気づいた少女は熱心に見つめていた分厚い本を徐に私へと差し出してきた。
「この本、気になります、ますか?フォドラ語の勉強、私使います。」
「え...あ、ありがとうございます」
本が気になった事は間違いないが別に中身に興味を持ったわけじゃ。流れで受け取ってしまった辞書を手になまえは受け取った手前開かずに返すのは不躾だろうと困惑しながらも年期が入った辞書をパラパラと捲った。背表紙にも記されていた通り受け取った本は心躍る物語ではなく多数の語を収録した書籍だ。没入するほど面白い内容ではないし頁を捲る手も自然と早くなる。しかしこれっぽっちも関心を向けるものがなかったわけではなく、なまえはちょこちょこと挟まれた挿絵に手を止めては説明文に目を通す。フォドラ大陸西部の諸島、ブリギッドか。農産物の産地名でしか聞いたことがなかったが、少し海を挟むだけでもこんなにフォドラとは違った文化が広がっているなんてちょっと面白い。興味を持ったのかと体を寄せ話しかけてくる少女になまえはうんうんと複数回頷き初めて少女の顔をしっかりと捉えた。
この子、ブリギッドからの留学生だったのか。目の下の文様や手の込んだ髪型もブリギッド独自の文化なのだろうかとなまえは多くの興味を抱いたままありがとうと辞書を返した。辞書の書き込み具合を見るとやはり彼女が勉強熱心な人物であることは確からしいが、それにしてもどうしてそんな人が補習に参加しているのだろう?
教室にはまだ補習が始まる気配は無い。隣に座った留学生。せっかくだから少し話がしてみたいとなまえは教科書を閉じると少女の方へと膝皿を向けるように座り直した。
「ブリギッド出身ってことは、所属学級は黒鷲の学級なんですか?」
「はい。わたし、ブリギッドから来ました。ペトラ=マクネアリー言います。敬語、畏まり、必要ありません。わたし達、対等です。同じ学び舎、同じ格好、同じ先生、身分の差、ありません。黒鷲の学級の1人、エーデルガルト様と共に、研鑽、日々積みます。あなた、青獅子の学級、違いますか?」
「そうですね...私は青獅子の学級に所属しているなまえ=アイスナーと言います 」
ペトラとは初対面のはずだった。しかし彼女は私の事はよく知っていると話し、笑いながら黒鷲の学級の生徒はみんな私の事をよく知っていると言った。何故?と疑問に思うことはない。彼女が黒鷲に所属しているという事はひょっとしなくても彼女の担任が関わっていることは明白だからだ。
「先生、貴方の話、よく言います。無茶、多い。怪我、頻繁。目にする度、冷や汗、心臓悪くします」
「み、身に覚えしかない...」
「ですが貴方、とても強い。対抗戦、なまえクロード仕留める。武器、ありません。魔法、使いません。足ひとつ、素早く体勢崩す。身のこなし、獲物を狩る。それ豹の如し。感動でした」
自身の体術を豹と喩えられなまえはそんなに大したものじゃなかったと素っ頓狂な声を上げすぐさま訂正を求めた。あの程度の足技さほど難しくはないし、感動する程の身のこなしでもなかった。しかし対抗戦の戦いぶりを見てからというものペトラはなまえの事を目で追いかけ、こうして隣の席に座ったのも話すきっかけを作るためだったと語った。秘めていた憧れをツラツラと語るペトラになまえはその率直な物言いに気後れし気恥しそうに視線を逸らす。ずっと誰かを憧れ誰かの背中を追いかける立場だった私が知らず知らずのうちに追いかけられるような人間へと成長していたなんて。
私と話をする為にペトラは隣に座ったと言った。ということは辞書の書き込み具合も含め彼女は自主的に補習を受けに来たのかと申し訳なさを感じていた。そんな事をしなくても普通に食事時なり休日なり話しかけに来てくれたら良かったのに。
しけし彼女と話しをする中でペトラはフォドラとブリギッドの文化や考えに少々相容れぬ点があると、苦虫を噛み潰した表情で取り出された赤点の答案用紙を前に、なまえはなるほどねと合掌し教科書に挟んでいた自身の答案用紙の存在を思い出した。きっと彼女も私のように資格試験へ時間を割きすぎたに違いない。人の点数を見てしまったからには自分の点数も晒した方が公平と言うもの。なまえは教科書に挟んでいた答案用紙を取りだして『一緒に補習頑張ろうね』と震えた声で親指を立てた。開いたなまえの答案用紙へペトラは興味津々に覗き込んだ。そして憧れの人がさほど頭が良くないことを知った彼女は目を丸くし、自身の答案用紙と見比べながら「衝撃。なまえ、貴方魔法得意聞く、聞きました。魔法得意、即ち、数に強いということ。でもこの数字は…わたし、混乱です」と心を抉る一言になまえはキリキリと傷む腹を抑え、これ以上の詮索は胃に響くからやめてと眼力でペトラに訴えた。
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