アッシュの育ての親が死んだそうだ。
今朝2日遅れで教団に謀反を企て民兵諸共セイロス騎士団に討たれ処刑されたと学級に報告が入った。騒動の後、黒鷲に協力要請を受けていたアッシュはロナート卿の亡骸を前に放心し大修道院に戻ってからも心ここに在らずの状態が続いている。弟達の安否を聞いても大司教様自ら励ましの言葉を貰ってもアッシュの反応は薄く、誰を前にしても風に吹かれたら灰のように飛んでいきそうな顔で俯いている。放っておいて欲しい。直接アッシュから言われた言葉じゃないが、死んだ魚のような目と朝夕胸の前で組み合わせた指の震えを見れば気安く話しかける度胸などなかった。

「アッシュ、今週末の模擬戦についてなんだけど…」

ハンネマン先生からは無理にアッシュを模擬戦に参加させる必要は無いと言われていた。しかし傷心中とはいえ一応話だけでも伝えておこうと大聖堂へ向かうアッシュに私は声をかけ引き止めた。気だるげに振り返った顔はこれが戦場なんだと命の重みを噛み締めていた時よりも随分と酷い顔をしている。印矩で目の下を汚したような濃い隈は見ているこちらが心配になるほど深く黒ずんでいた。アッシュは誰よりも人の死を悲しめる優しい人だから色んなことを考え祈って十分に眠れない日が続いているのだろう。
なまえはハンネマンから受け取っていた資料をアッシュに渡し、目を通すだけでいいからと参加の可否は曖昧に濁した。

「君の配置と率いる騎士団の詳細について纏めているだけだからできれば目を通して欲しいかな」
「あぁ…うん。ありがとう」

手渡した資料をアッシュは受け取ってくれた。けれどこの様子を見ると目を通す気力までは残ってないだろう。
ご飯、ちゃん食べているのだろうか。毎日少しでも眠れているのだろうか。この数日で急激にやつれてしまった顔に不安を募らせる一方でアッシュ自身が乗り越えなければならない悲しみを黙って見守ることしかできない立場にもどかしさを感じている。正直、今のアッシュを1人にしていいのか分からない。突発的な行動に走り取り返しのつかない事態に発展しないか、彼の死にそうな顔を見る度に走って引き留められるようつい身構えてしまう。だが、心配だからといって今の私がアッシュに何ができるのかといわれたらこれもまたよく分からない。祈る事で傷ついた心を本人が救おうとしているのなら部外者の私は黙って見守ることがアッシュのためなのかもしれない。けれど今のアッシュが1人で悲しみを受け止め乗り切れるようには思えない。光が失せた瞳でじーっと自身の影を睨みつける表情から太陽のような笑顔の面影を探しても、もうあの頃のアッシュは何処にも。

「今からお祈り?」
「そう、だね。…ごめん、僕、もう行かなくちゃ」
「あっ、うん。分かった。また明日ね」

今日も視線が合わなかったなぁ。去っていく小さな背中になまえは困ったように眉を下げ、それから決意を固めたようにうんと強く頷いた。やっぱり黙って見守ることなんて私にはできない。アッシュが深い悲しみを乗り越えられる為に何でもいいから彼の力になりたい。…でもアッシュのために私ができることってなんだろう。己の左胸に手を添え『私には何ができる?』と自分自身に強く問いかけ…

「はい。というわけで問いかけた結果がこれです。メルセデス、アネット指南よろしくお願いします」
「こちらこそ〜」
「とびきり美味しいお菓子作ろうね!」

なまえはアネットから借りた厨房着の紐を首に通し腰の紐を結ぶと市場で集めてきた材料を前によしやるかと制服の袖をまくった。
なまえは一日中自分自身に問いかけた。落ち込んだアッシュに私ができることは何か?と。初めに思い浮かんだことはとにかく前向きな言葉で励ますこと。だが幼馴染組のように言葉で励ましたところで口下手が同じ事をやってもただ鬱陶しいだけだろうし、ドゥドゥーやメルセデスのように静かに寄り添っても圧迫感を感じるだけだろう。かと言って、アネットのように普段通り話しかけても反応の薄さに心が折れるのも時間の問題だろうし。となると私にできることはもうこれしかないと、なまえは使うべきか迷っていた渾身の手札をここで切った。そう、“言葉で伝え難いのならいっそ形にして送っちゃえ大作戦”である。決して食で釣ろうとしているわけじゃない。悲しい時は甘いものを食べて心を落ち着かせるのが定石だと酒場の飲兵衛が言ってたから…そ、それにアッシュは好んで甘味をよく口にしていた。菓子を食べればお腹は膨れるし、小指の爪程度には元気になってくれるんじゃないだろうか。たぶん。
とにかく、色々余計な事を考えている暇があるならまずは大胆に行動あるのみ。そう思って朝一でメルセデスの指示通りに材料を一式調達してきた。卵に牛酪、小麦、砂糖。果物と木の実も用意した。何を作るか分からないがもう匂いから甘い香りがしてお腹が空く。
買い忘れはないだろうかと材料を入念に確認しているとアネットは私を見てクスクスと笑っていた。笑われるような可笑しな行動でもしていただろうか。それともこの厨房着のこと?そんなに厨房着が似合わないかと薄く顔を赤らめ線帯を摘んだなまえにアネットはそうじゃないよと首を横に振った。

「あたし、なまえって器用だし何でも卒なくこなしちゃう人だって思ってたの。でも『お菓子作りたいから教えてー!』ってすごく真面目な顔で頼みに来た時のことを思い出したら何かちょっと意外で、面白かったなぁーって」
「面白い?というのはちょっとよくわからないけど、料理は傭兵時代に一通り習ってたんだけどお菓子作りは1度もなくて。下手に手順書に沿って作るよりも、作り慣れたアネットやメルセデスに教えてもらった方が材料も無駄にならないし美味しいと思ったの」

電気製品無しでお菓子作りなんて手順書見たところで私には作れそうにないし…という私情は伏せておこう。

「そうね〜。それにお菓子作りは1人で作るよりもお友達と作った方がとても楽しくて、甘いお菓子がいつもより甘く感じるの。ふふ、きっとアッシュも喜んでくれるわ」

…だといいのだけど。そもそも作った菓子を彼が受け取って食べてくれるだろうか...いや、今悩んでも仕方ないか。とりあえずまずは行動あるのみ。メルセデスとアネットに挟まれてなまえはよしと拳を握り、三角巾の結び目を引き締める。よし、とびきり美味しい菓子を作るぞ。

「ところでメルセデス、材料は一通り準備したけど、お菓子は何を作るの?」
「クッキーを作ろうかしら。工程も簡単で沢山作ったら青獅子の皆にも分けてあげられるわ」
「うんうん!いいね!!よし、じゃあクッキーを作ろー!」

クッキーか。前の世界ではよく買って食べていたけれどこっちに来てからは滅多に口にすることもなかった。最後に食べたのはヒルダとお茶会をした時か。そういえばヒルダと食べたクッキー頬が落ちそうな程甘くて香りも香ばしくて美味しかったなぁ。あのくらい美味しいクッキーを作る為にもここは気合を入れて真面目に取り組もう。手始めに自分は何をしたらいいかとなまえはメルセデスに指示を仰ぎ、アネットが計量した牛酪を受け取ると指示通り木べらで潰すように混ぜていく。

(牛酪を白くなるまで混ぜると言われたけれど…牛酪って元々白じゃない?)

ちまちま牛酪を潰して混ぜるよりも材料を一気に混ぜて焼いたらすぐにクッキーができそうな感じはするけれど美味しい菓子には手間と時間がかかるのだろう。なまえはメルセデスに言われた通りなんとなく木べらで牛酪をすり潰し、途中で投入された砂糖も混ぜ合わせながら木べらを握っていた手を時折振った。腕が疲れるな、この作業。いつまで混ざればいいんだろう。

「メーチェ、小麦ふるったよぉおおっ!?」
「アン、足元きをつけ、きゃあっ!」
「けほっ、こほっ、2人とも大丈夫!?」

正直木べらを握るまではお菓子作りを甘く見ていた。人に出せる程度の料理ができる私ならこの世界でのお菓子作りなんて剣術の訓練よりも簡単で楽しいものだと甘く見ていた。

「これすごく美味しい。今度保存食用に買っておこう」
「あ、なまえ摘み食いはだめだよ!練り込む分の木の実が無くなっ、むぐっ…ほ、ほんとだ!これすごく美味しいね」
「2人とも〜木の実が無くなっちゃうから摘み食いはそこまでにしてね?」

まさかお菓子作りがこんなに誘惑と危険が伴う作業だったとは。

「め、メルセデス?火加減これで合ってるの?なんだかすごく焦臭いんだけど」
「あらあら〜?」

…予め桶に水を張っておいてよかった。
途中厨房から出火する大惨事にも見舞われかけたが早急に対処したことで事なきを得た。厨房関係者に見つかる前に徹底的に燃えた痕跡を隠し3人で火の番をすること30分。ついに完成した薄く焼き目が入ったクッキーを前になまえたちは大きく目を見開き顔を見合わせた。

「できたっ!」
「すごく美味しそうだね!!」
「じゃあ少し味見してみましょうか?」

手で仰いで冷ましながらいっせーので口に入れたクッキーはそれはもう頬が緩むほどに甘くて香ばしくて一言で言うなら一日の疲れが吹き飛ぶような美味しさだった。市販されたものとは違うじんっと胸にしみる優しい甘さ。これがメルセデスが言っていたみんなで作るとより甘くなると言うやつか。木の実と果実の相性抜群で味見がやめられない。
これは手が止まらないね〜と3人は目的を忘れたひょいひょいと大皿に乗せたクッキーを摘み幸福な笑みを浮かべる。そうして紅茶を入れましょうかとメルセデスが席を立った直後、漸く目的がずれていることに気づき我に返ったのか、なまえは「お茶会はまた今度にしよう!?」と包装袋を掴んだ事で3人は無事伸ばした手を諫めお菓子作りの原点へと帰還したのだった。

「このくらいかな?」
「うんうん!いいんじゃないかな!」

アッシュの分は多めに入れて残りは青獅子の人達と個人用に数個包み封をした。厨房の片付けを済ませるとなまえはアッシュを除いた青獅子の分を2人に任せまた後でとメルセデス達と別れた。物はできた。いよいよ届けに行く刻がきた。時刻は15時過ぎ。この時間帯だとアッシュは大聖堂で祈りを捧げているはず。今日も大聖堂にいてくれと祈りながらなまえは食堂を出て大広間を経由して大聖堂へと向かっていた。受け取ってくれるだろうか。一枚も割れていないことを確認しながら緊張するなぁとそわそわしながら歩いていた時だ。前方からやってくる見覚えのある髪型になまえはあっ、と声を出し大きく手を振った。

「ペトラ!」

週当番をしていたのだろうか。彼女の白い襯衣が汚れていたことに気づきお疲れ様と疲れを労うとペトラはベルナデッタのおかげで草むしりが早く終わったと背中に隠れていた小動物のような少女に花を持たせた。ベルナデッタ…何処かで聞いた名前だ。なまえはペトラの背後を覗き込み見覚えのある顔をじっと見つめる。ベルナデッタ、確か大修道院に来てそうそう泡を吹いて気絶した女の子じゃなかったっけ。私を見た途端に気絶していたけれどペトラ相手には意識を保っていられるのか。極度の人見知りなんだろうなぁと鳥の巣のような頭を眺めながらそういえば私も小さい頃はよくベレト先生の後ろを引っ付いて歩いていたなぁと思い出に浸っていると突然スンスンと鼻を鳴らしたペトラはいい匂いがするとなまえの手元に視線を寄せた。

「なまえ、あなた、良い匂いします。甘い匂い。これは、砂糖?菓子の匂い、正解ですか?」
「凄いねペトラ。大正解だよ。さっき友達とクッキーを焼いてね。沢山作ったからペトラにもお裾分け」
「私も、ですか?焦げる匂い、食欲、お腹減ります。お裾分け、感謝です」
「どういたしまして」

形はちょっと歪だけどごめんね。ペトラは菓子を受け取ると両手の平に乗せ物珍しそうに眺めている。ブリギッドではクッキーはあまり馴染みがないのだろうか。珍妙な形だと目を輝かせて褒め言葉を並べるペトラになまえは照れくさそうに頬をかきながら、もちろん彼女の背中に隠れた人物が物欲しそうに菓子を見つめていることに気づいていた。こんなこともあろうかと予備で作っていた分が役に立つとは。なまえは軽く膝を曲げるとペトラの背後に隠れる人物へ視線を合わせ持っていた予備の小袋を快く差し出した。

「良ければ貴女もどうですか?形は少し歪ですが味はメルセデスとアネットと一緒に作ったのでとても美味しいですよ」
「え...えぇっ!?ベ、べべ、ベルにもくれるんですか!!?こんなに美味しそうなお菓子を?無償で!?...後で返せと言われてもベル絶対に返しませんよ!?」

道具ならまだしも消え物を貸せと迫るのは蛮族ぐらいじゃないだろうか。それとも前に苦い経験でもしたのか。ベルナデッタはいつもこんな感じだと語るペトラになまえはなるほどと肩を竦めながら強引にベルナデッタの手を取ると予備のひとつを握らせた。

「流石に渡したものを返せなんて言いませんよ。余分に作った分なのでよろしければどうぞ貰ってください。勿論毒とか変なものは入ってないので安心してください。じゃあペトラ、また明日放課後」
「はい。また明日、放課後ですね。補習、鍛錬、お相手願います」

じゃあまた明日ねと手を振ってペトラ達と別れたなまえは連絡橋を通りとうとう大聖堂へとたどり着いた。なまえの読み通り探し人は大聖堂の前席で頭を垂れ女神に祈りを捧げていた。あの様子ではまだ話ができる状態ではないだろう。とはいえ菓子と気持ちだけは受け取ってもらいたいなまえは両頬を叩き気合を入れるとぎこちない足取りで大聖堂の中へと足を踏み入れた。そして項垂れ今にも頭がとれそうな後頭部を前になまえは二度三度と口を開いては閉じを繰り返し1度踵を返そうと試みた。しかし『きっとアッシュなら受け取ってくれる』と休日にも関わらず快くお菓子作りに協力してくれた2人の言葉を思い出したなまえは贈り物を握りしめ溶けそうな肩を優しく叩いた。

「アッシュ」