息を切らして走る少女の顔は可哀想なほど真っ青だった。
「これ絶対に怒られるやつだ」
今頃額に怒りの筋を浮かべ舌を打ちながら素振りをしているだろうなぁ。あぁ嫌だ。今日は訓練所行きたくない。
憂鬱だ、悪夢だと嘆きながらもなまえはしっかりと剣を片手で握りしめ真っ直ぐ訓練所へと向かっていた。
なんて言い訳しよう。いや、こういう場合は誤魔化さず本当のことを言った方がいいんだろうけども。ヒルダ達とお茶会していたらつい話しが盛り上がって約束の時間に遅れてしまいましたなんて正直に遅れた理由を話したところであのフェリクスの性格的だ。ねちっこく非を攻めたて説教を垂れた挙句夕方以降仕事が手につかない程容赦なく扱いてくるに決まっている。
女神様、そこそこに信仰心が厚くなった私をお助け下さい。具体的にはフェリクスも何か用事があって遅刻しているとか、そういう感じの。…いや、さすがに女神の力を使っても実現不可能な願いか。興味が無い授業は途中で抜ける割には律儀に授業開始10分前には席に着いているような人だもんなぁあの人。
修道院内を走るなと注意を飛ばす教団関係者へ平謝りしながらなまえは人の波を上手く逆らいながらぴょんっと低い段差を飛び降りて先を急ぐ。約束の時間から既に13分も経過している。
3分ならまだしも5分以上は弁明のしようがない。もし私がフェリクスの立場なら置き手紙を残し不満を垂れて自室に帰る、それ程の大失態を犯してしまっているのだ。20分前まで時間が巻き戻らないかなぁ。髪を振り乱し大広間から騎士の間に向かって全力疾走で駆け抜ける。加速一直線で体を前に傾けていたなまえに減速という選択肢はなかった。それ故に物陰から猫のように飛び出してきた影に対応出来ず、前に踏み出すはずだった右足が珍しく左足に引っかかり足な自由を失ったなまえの視界は一気に急降下する。
「ふぁっ!?」
「おっと」
心臓ごと体が浮遊しているような気持ちが悪い感覚。昔の私であればここで派手に転び膝と顔から血を流していたところだろう。しかし前にも後ろにも転び慣れた体は約束の時間に遅れた上目の前に迫る危機的状況に冷や汗をかく頭よりも冷静だった。両手を前に突き出し奥歯をかみ締め団子虫の如くクルンっと前転し丁度飛び出てきた影の靴先の前で膝を立て静止する。
危なかった。
自然と身についた受け身で無事大事故を回避し、もう少しで巻き込むところだったと額の冷や汗を拭っていると、一連の動作を見ていた男性は見事な受け身だったと手を叩き片膝を立て座る私へと手を差し伸べた。
「怪我はありませんかな?」
「は、はい…じゃなくて!驚かせてすみません!!お怪我は!?」
衝突は無事回避できたとはいえ急に曲がり角から前転で突撃してくる不審者の登場には誰だって驚くことだろう。自身の行動に謝罪を述べる。すると男性は少し驚いただけで怪我はないと気さくな笑顔で易々と片手一本で引っ張りあげてくれた。今更だけどこの人すごく顔がいい。身なりも整っているし、ほんの少し武人の香りがする。けれど大修道院では見かけない顔だから教団関係者ではなさそうだし…不思議とこうして顔を合わせたのは今日が初めてじゃない気もしてくる。なんでだろう?
「元気がいいのは結構ですがあまり廊下は走らない方がいいですよ?口煩い人に捕まったらせっかくの休日が台無しになりますからね」
「あ、はい…すみませんでした」
「分かればよろしい。とはいえ、私も学生時代はよく友人と大修道院を走り回ったもので。教師によく叱られたものです」
卒業するまでに何十枚も反省文を書いたものだと学生時代の失敗談を楽しそうに語る男性になまえは相槌を打ちながらじーっと男性の顔を見つめ、ガサゴソと記憶を漁っている。どこかで見た顔であることは間違いないが、どこで見たのかまでは思い出せない。
年上、波打つ癖毛、切れ長の目に風格のある佇まい。顎を撫でる仕草ですら見るものの頬を赤らめるような大人の魅力を感じさせる人だ。そう簡単に忘れるはずないと思うのだが。傭兵時代の雇い主の1人だっただろうか?でもこれほど品のある雇い主を忘れるわけないし。
「私の顔になにかついてますかな?」
それとも私の顔が気になりますか?とグッと顔を近づけてきた男性になまえは分かりやすく狼狽した。
「えっ!?あぁ、すみません。不躾にじろじろと見てしまって。その以前何処かでお会いしたような気がして何処であったのかなぁと考えていたというか…あ、いや、決して貴方を口説いているわけではなく!!」
邪な気持ちなど一切ないのに、訂正すればするほど軟派者になっていくのはなんでだろう。違います、誤解ですと激しく振る手も逆効果な気がするが既に止め時を見失っている。可能であれば出会いからもう一度やり直したい。なまえはやってしまったと深い溜息をつき羞恥心で真っ赤に染った顔を手で覆う。やっぱり今までのやり取りはなかったことにして欲しいとなまえは独り言のように呟き背を丸めとぼとぼと訓練場に向かって立ち去ろうとした。しかし男性が突然口に手を添えたこと思えばくくっと喉を絞めるように笑い立ち去ろうとするなまえの足を引き止めた。
「それほど私は倅とよく似てますかな?」
「…せがれ?つまり子供…あ、えっ!!!?」
もしかしてフェリクスのお父様ですか。ようやく解けた既視感の謎になまえは恐る恐る答えを口にする。そして返ってきた肯定に彼女はハッと目を丸くし、それからぼそっと呟いた『フラルダリウスの遺伝子を感じる』の一言にロドリグは面白いお嬢さんだと腹を抱えて笑った。
「ウチの倅とお知り合いですかな?であれば少し私と話でも」
目尻に溜まった涙を拭い少し話でもとロドリグに提案をもちかけられたなまえは大修道院内を走り回っていた理由も忘れ、はい、是非!の二言でさらに待ち人の額に筋を増やした。
そういえば士官学校にも参観日的なものはあるのだろうか。士官学校の授業風景でも見に来てのかと尋ねるなまえにロドリグはそれも実に面白そうだがここには別件で来たと話した。なんでも普段は自領で公務をしているが、今節の課題出撃に関して教団と話し合う必要があったらしく遠路はるばる出向いたらしい。
てっきりフェリクスの授業内での素行について三者面談しに来たのかと思ったと話すなまえにロドリグは残念ながら今回はそうじゃないと口を隠して上品に笑った。
「ところでなまえ殿はウチの倅と上手くやれてますかな?あれは父親の目から見ても気難しいやつで私もよく手を焼いたものです」
「そうですね。私の知るフェリクスも大体そんな感じです。あ、でも最近はちょっと親しみやすくなった気もします。たまに不思議な歌を歌っていたり猫とこっそり戯れていたり、つっけんどんな態度ですが他学級の生徒からも評判も良いみたいですよ」
「フェリクスがですか?ははっ全く信じられませんな」
親の目線から見たフェリクスと私たちが知るフェリクスとは違うのだろうか。
意外に彼は面倒見がいいんだと他学級の友人から聞いた彼の振る舞いを語るとロドリグさんは信じられないとばかりに目を丸くしていたが、すぐに嬉しそうな安心したような顔で頬を緩めていた。
そういえば半分忘れかけていたけど私今もまだフェリクスを訓練場で待たせているんだった。うーんどうしよう。冷や汗が止まらない。もう遅刻では済まされないほど時間を超過してしまったし、今更顔を見せたところで十中八九殺意に近い不機嫌な顔で睨まれることだろう。やだなぁ、正当な理由ですっぽかしたい。
謎の悪寒にゾクッと背筋を震わせるなまえにロドリグは私に捕まって遅れたことにすればいいと名案とばかりに提案した。しかし自身の失態を誤魔化したくないんだとロドリグの提案に対して首を横に振るなまえに彼は感慨深そうに目を細め何かを考えているかのように顎に手を添えて遠くを見つめている。
「どうしました?」
「あ、いえ。自領を出てからというもの倅は一通も書簡を寄越さないもので、士官学校では殿下達としか交流を持っていないのではと密かに心配していたんですよ。だが私の杞憂だったようですね。なまえ殿、どうかこれからも倅と仲良くしてやってください。気に入ったならアレを貰ってやっても構いませんよ?」
アレを貰う?…つまりフェリクスを貰う?
「え、いや、それは遠慮します」
前にヒルダから大貴族の家に嫁ぐ事への大変さとしがらみの話を聞いたばかりだ。誰が相手でも面倒事だけは勘弁して欲しい。それにフェリクスが旦那だと四六時中剣を握らされそう。なまえ朝の稽古だ。なまえ腹ごなしに相手をしろ。なまえ夕飯後にひと試合…想像しただけで毎日筋肉痛と手のまめの痛みで悲鳴をあげずにはいられない。
なまえはロドリグの提案に間髪入れず首を横に振った。安定した住居と財は非常に魅力的ではあるが責務云々を背負う覚悟ないので私は遠慮させてもらおう。人伝に聞いた話だと一匹狼気取っておきながらああ見えて女子の好感度高いようだ。個人的にフェリクスは勝気でちょっと我儘な女の子に振り回されていた方が円満な家庭築けそうな気がする。あとは戦闘狂とか。
とにかく私には荷が重いし、士官学校には沢山の出会いがあるだろうからそのうち息子さんにもいい人が現れますよと薄く笑ってペコリとお辞儀するなまえにロドリグは少々残念だと本音を零しつつ、気長に待ちますよと笑った。
「じゃあ、そろそろフェリクスに怒られてきます」
そう言ってなまえがロドリグに背を向け歩き出そうとした時、遠くからやってくる鬼の形相になまえは口元を引き攣らせ目にも止まらぬ速さでロドリグの背面に隠れた。大分待たせすぎたらしい。あれは私の手に負えない。
「おいなまえ!!お前いつまで俺を待たせる気だ!!!…ちっ」
「フェリクス数節ぶりだな。元気にしていたか?聞いたぞ、お前殿下達以外の友人もできたそうじゃないか。良かったな」
親の顔に舌を打つ息子と数節ぶりの再会に笑顔で手を振り近況を喜ぶ父親。見るからに思春期を拗らせているフェリクスに本当に三者面談は必要ないのかとなまえはロドリグの外套越しに一触即発なやり取りを眺めていた。
「今日はもういい」
そう言ってフェリクスは苛立ちの言葉を残して足早に去っていく。思春期と言うにはあまりにも露骨すぎる態度。どうしてそこまでロドリグさんのこと嫌っているのだろう。
この家もまた複雑な家庭なんだろうなぁと外套から恐る恐る出てきたなまえは呆れた顔で息子の背中を見つめるロドリグへ大丈夫かと声をかけた。ちっとも傷ついてないとロドリグは溌剌と笑って見せたが、この笑顔は少し寂しそうに見えた。
「まったくあの馬鹿息子は…でもまあ倅の元気そうな顔も見たところで私はここらでお暇しましょうかね。なまえ殿、今後とも息子をよろしくお願いします」
こちらこそよろしくお願いします。
そう言葉を返しながらなまえはフォドラの家族関係の複雑さに剣を握りしめたまま深くため息をついた。
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