まさか知識で腹が脹れる日が来るなんて。

「はぁ…今日も疲れた」

黄昏に染った書庫からの帰り道。疲労に満ちた面持ちで学生寮へと戻るなまえの腕には一冊の分厚い本が抱かれていた。
今日はリシテアから転移魔法について指南を受ける日だった。リシテアから転移魔法の本を借りて以来こうして度々書庫に集まっては指導を受けているがリシテアの懇切丁寧な解説を持ってしても私の頭の中は疑問符で膨れ上がるばかりだ。魔法の根元は理論。しかし肝心の理論が全くと言ってもいいほど頭に入らない。進捗状況は1章半、しかしなまえの心は既に折れる寸前まで疲弊していた。
そもそも私はあまり信仰が得意じゃない。全てが女神の恩恵によるものであると美辞麗句を並べておきながらいざ問題や争いごとが起こっても女神は空から見守っていますだなんて、ただの飾りと同じだ。フォドラに生きる人々は等しく天上の女神に生かされている、そんな内容をつらつらと書き綴った経典が私にはちっとも理解できない。別の世界で生まれ育ち信仰とは無縁の生活を昨年まで営んできたからだろうか。根拠も証拠も何一つないというのに人々が汗水垂らして作った物を全て女神の恩恵によるものだと善良な顔で手柄をすり替える信徒のやり口は常に癪に触り、嫌そうじゃないだろ!と異を唱えたくて仕方がない私はきっと最低でも4周は人性をやり直さない限り敬虔な信徒にはなれそうにない。壁画でしか見たことがない女神をどう崇拝し敬えというのか。あぁ、転移魔法の本質が信仰ではなく理学だったらなぁ。目に余る信仰心の薄さに呆れたリシテアからは『アンタは頭で考えるよりも体で覚えた方が効率良さそうね』と次回から実践を交えて教えると言われ、次の指南までにセイロス経典を2章まで読み込んで来なさいと授業並みの課題を言い渡されてしまった。セイロス経典2章までか...1章はまだしも2章は授業で軽く扱った程度で改めて読み直し解釈を深めなければならないと思うと欠伸が出るほど面倒臭い。頁数も嫌がらせかと疑うくらい1章の2.3倍の文章量だし。自分で決めて手を出したことだから投げ出すことはしないけど、どうか私の努力が骨折り損になりませんようにと今は祈るしかない。
静寂に包まれた放課後の教室前を通り過ぎ猫の集会を邪魔しないよう足元に気をつけながら学生寮に向かって歩いていく。知識で腹は膨れたがなにかお腹に入れないと夜眠れなくなりそうだ。今日の日替わり献立はなんだっけ。さほど空いてない腹を擦りながらなまえは昼食を食べる際に確認した夕飯の日替わり献立は何だったかと悩ましげに唸りながら訓練場を右手に左角を曲がった。そして

「えっ」

突如平穏な視界に飛び込んできた異常な光景になまえはギョッとし地面にころがった体へと走った。
気絶?それとも暗殺か!?
どちらにせよ放ってはおけないとなまえは地面に倒れた男子生徒の肩を強く揺すった。

「大丈夫ですか!?」

呼びかけても男子生徒からの返事は返ってこなかったが、周囲には血や吐瀉物といった形跡はなく、薄く空いた口元に手をかざすと規則正しい寝息が指に当たった。これは…寝ている、のか?それとも気絶?どんな経緯があって地面で爆睡しているかは検討もつかないが、ここで爆睡されては歩行者の邪魔になるだろう。起きてくださいと今度はやや強めに肩を揺らす。それでも反応がない男子生徒に起きなさいとなまえが鼻をつまんで数秒後。息苦しさにもぞもぞと体を動かし、とうたうかっと目を見開いて飛び起きた男子生徒は息苦しさから解放され力が抜けたように瞼を少し下げると呑気に地面で胡座をかき猫のように腕を伸ばした。

「んっ...あれ、寝ちゃってたのか。ふぁ〜...ねぇ、ここ何処かな」
「訓練場前ですよ」
「ふーん。そっか。んーっ、やっぱり徹夜は体に良くないね」

おかげでエーデルガルトさんとの温室当番をすっぽかしてしまったと大欠伸をこぼし「まぁ、いいか」の一言で軽く受け流してしまった男子生徒になまえはなんて命知らずなんだろうと頬を引き攣らせた。あの皇女様相手に当番をすっぽかした上に地面で熟睡していたなんてこの人鈍重にも程があるでしょうが。
顔中に張り付いた砂を払うその人は手を貸してくれと言った。面倒だなぁと思いつつも素直に手を貸し座り込んだ体を引っ張りあげたなまえは立ち上がった男子生徒が意外にも高身長だった事実に目を丸くした。寝る子は育つと言うのは本当だったんだ。殿下とそう変わらないんじゃないか。なまえは眠そうな顔を見上げたまま親切にも温室の方向を教えてあげた。けれども男子生徒は眠気眼を擦りながら欠伸したかと思いきや、次の瞬間目を見張るような速さで距離を詰めなまえの顔を覗き込んだ。機敏な行動もできるんだ。口にしては機嫌を損ねるだろうとなまえはキュッと口を結んだ。

「ところで君ベレト先生の妹さんだよね?ちょうどいいや。手伝って欲しいことがあるんだけど今ちょっと時間あるかな?」
「...な、内容によります」

手伝って欲しいと頼まれなまえの頭に浮かんだ内容は温室で一人ご機嫌ななめに水を撒く皇女様への謝罪関連について。さっきは『まあま、いいか』と軽く受け流していたが、冷静な頭で考え直しやはり後が怖くなったのだろう。皇女様とほぼ接点がない私が謝りについて行っても説教の長さは変わらないと思うのだが頼まれたら仕方が無いと謝罪の言葉を幾つか頭の中で見繕っていたのだが。予想に反し「君の紋章についてなんだけど」と申し訳ない顔どころか謎を前にした研究者の顔をするものだから本当にこの人は肝が据わっているなとなまえは当惑の眉を顰め今頃1人当番に励んでいるであろうエーデルガルトに同情した。お疲れ様です。

「ハンネマン先生から聞いたんだけど、君紋章が発現したんでしょ?しかもベレト先生と同じ紋章らしいね。通常紋章っていうのは生まれた時から血肉に宿る先天的な力であって、後天的に獲得できるようなものじゃないっていうのが今の紋章学で解明された研究結果なんだ。もちろん自力で紋章を獲得する方法がない訳でもないみたいだけど、それについてはまだ仮説止まりでね。これから少しずつ進展があるんじゃないかと僕は踏んでいる。まぁこの話はとりあえず一旦置いとくね」
「...えーっと」

さっきまで眼を擦ってた人とは思えない朗々とした口調に圧倒され右から左へと難しい言葉が通り過ぎて行く。この人一体何を語っているんだろう。到達に始まった上級者向けの講義になまえの目は既にグルグルと渦を巻いている。

「士官学校へ入学する際に君はハンネマン先生によって紋章の有無を調べたはずだ。その結果紋章を宿していない事が証明されていた。ところが今の君は紋章を宿している。それもベレト先生と同じ特殊な紋章を。単刀直入に聞くけど、どうやって紋章を発現させたの?君の返答によっては紋章学の常識を覆す大事件だよ、これ」
「...ご、ごめんなさい?」
「ん?なんで謝るの?僕としては褒めたつもりなんだけど」
「あ、ありがとう?」

なんだろう。このただ会話しているだけなのに気力が削がれていく感じ。さっきから何を言ってるかちっとも理解できないのだが。もしや私は起こしちゃいけない人を善意で叩き起こしてしまったのかもしれない...助けてベレト先生。

「それじゃあ手始めに紋章を発現した経緯を教えてくれないかな?」
「経緯...それが私自身何も覚えてなくて。ただ無我夢中で魔法を放ったらいきなり発動したと言いますか」
「魔法を放ったらってどういう状況で放ったの?使った魔法の種類は?加減は?魔法を放った時の魔力残量は?」

矢継ぎ早に飛んでくる質問の多さにたじろぐなまえを男子生徒は...リンハルトは前のめりに迫った。この人対人距離と言う概念をご存知じゃない。新しい研究対象を前に目を輝かせ距離を詰めてくるリンハルトになまえは狼狽し視線を泳がせる。誰か助けてと助けを求めるも時間帯故に人っ子一人通りかからず、猫も犬も面倒事を避けるように走り去っていく。離れてくださいとなまえは持っていた転移魔法の本をリンハルトとの間に挟み距離を取った。しかしそれでも行動を改善する気配が微塵も感じられないリンハルトになまえはとうとう一方的な言葉の応酬に耐えきれず「さよなら!」と別れの言葉を残してリンハルトを躱し自室へと大股で歩いた。コツコツと風を切りやや急ぎ足で歩くなまえの後をリンハルトはしつこく追いかける。この人興味があることに関しては貪欲に行動する性格なんだろうか。自室の中まで追いかけてきそうな勢いにげんなりしている最中、徐に「君は質問されることが苦手みたいだね。じゃあこれ以上詮索をしない代わりに君の体を僕に預けて色々と探らせてくれないかな?」と不快感を誘う提案をしたリンハルトになまえはもう我慢ならないと足を止め厚顔無恥な振る舞いをギロリと睨みつけた時だ。
まるで影から這い出たかのように足音も立てずリンハルトの背後に仁王立ちした白髪の少女になまえはビクリと肩を揺らしそっと1歩退いた。これは相当御冠のご様子。気のせいだろうか、皇女様の背後に般若が見える。

「あら、リンハルト。こんなところで油を売ってたなんて驚きだわ」
「うげっ」

彼女ほど仁王立ちが似合う女生徒が大修道院にはいないだろう。声を発した途端、場の空気が真冬並みに凍りつき先程まで鬱陶しく付き纏ってきた彼も今は皇女様に襟を摘まれ苦しそうにもがいている。日頃からこんな感じなんだろうな。襟元を掴む指の力加減を見る限り初犯じゃ無いことは間違いない。

「邪魔したわね」
「いえ、助かりました…」

リンハルトを引き摺って温室へと向かうエーデルガルトの後ろ姿を眺めながらなまえはとある教師の胃を憂いた。皇女様もそうだがベレト先生も大変だろうなぁ。お疲れ様ですと風にたなびく赤い外套にぺこりとお辞儀したなまえはあー疲れたと腕を伸ばしながらのんびりとした足取りで自室へと戻って行った。