「街に行こう。買い出しの用がある」
その一言になまえがなんとも複雑な感情を抱いたことをべレトは見逃さなかった。『街』その単語から強引に引っ張り出される唾を吐き散らす不快な男の顔が記憶の底から蘇る。一方的に喧嘩を吹っ掛けられたあの日、大修道院に帰るや否やなまえは街の出来事をジェラルトに報告した。すると忽ちその事が教団に伝わり、終いには大司教の耳まで届いて、生徒を危険な目に遭わせただけでなく女神の教えに背く不届き者として男は指名手配された。噂によるとその男は過去にも士官学校生徒を狙った威圧的な行為を行っていたようで、会心の余地なしと教団が判断し大司教補佐が迅速に男の身柄拘束及び街の警護強化を指示した。
騎士団配備は治安維持には繋がるだろうが、街の至る所に武器を構えた騎士達が徘徊しているのは如何なものだろうか。お陰で狭い道幅がより狭くなり頻繁にすれ違う人と肩をぶつけ合う状態だ。騎士団配備によって歩行者にはこの上なく不憫な通りとなってしまった。だが聞くところによるの商人達にとっては道を狭める騎士団の存在は跳んで抱きしめたくなるほどありがたいらしい。というのも商品と金が行き交う通りではどうしても金に困った貧民達の盗みが多発し、なかなか商品を広げ売ることが難しい。だが騎士団が街に常駐し頻繁に徘徊することによって手癖の悪い盗人への抑制効果となり安心して商売ができるというわけだ。店の奥にしまい込んだ高価な品々を大っぴらに店の前へと広げ身なりのいい客を掴まえようと必死に声を張り上げる商人達。この様子だと指名手配された男相手にも商売を始めそうだ。
威勢のいい商人の声を聞き流しながら頻繁に背後を振り返るなまえをべレトは大丈夫だと声をかけた。しかし恐怖の二文字を顔に張りつけ挙動不審な行動をとるなまえにべレトの声は届かない。あの男がいるかもしれない。襲いかかってくるなら勿論返り討ちにはするが、できることなら遭遇などしたくない。不必要な争いは苦手だ。喧嘩は別に構わない。だが命の奪い合いについてはまた話しが変わってくる。食糧が入った紙袋を抱え、空いた片方の手をべレトの外套の袖を掴み引っ付いて歩く。早く人の流れから逃れたい。自然と小さかった歩幅大きくなっていく。
ドゥドゥーの制止を振り切り勝手に男と半分喧嘩のような騒動を起こした日。清潔な体で寝床に転がり何の変哲もない古びた木目の天井を眺めていた時、突然足の底から這い上がってきた恐怖心にすっかり血の気が引いて、汗だくになって寝台から跳び起きた。寒気がする。鳥肌が立つ腕を擦りながは頭の中で再生され始めた男の罵声になまえは体を丸め小さく呻く。とても寝ていられる状態ではなかった。去り際に『今度あったら覚えとけよ』と吐き捨てられた言葉が呪いのように体を硬直させた。気を抜いて寝台に寝転がってる場合じゃないのではないか、底知れぬ不安に空きっぱなしの窓すら怖く思ってしまう。恐らく相手に顔は覚えてられているだろうし、刺される可能性も十分にある。刺される分には問題ない。だが、下手に問題事を起こしたら私は大修道院から追い出されるかもしれない。それだけはなんとしてでも避けたい。だって今の生活をつまらない理由で手放したくは無いから。
男が捕まるまでの間大修道院から出ないようにしようと誓ってから僅か数日後、まさか先生から街へ行こうと誘われるなんて想定もしていなかった私は行くか、行かないかの究極の2択に頭を抱え最後は行くと答えてしまった。せっかくの先生からのお誘いを断るなんて私にはできなかったのだ。
大通りを抜け人通りの少ない閑静な広場へ辿り着くとなまえはふぅと息を吐き、水を吸った紙のようにだらしなくその場にしゃがみこんだ。怖かった。どっと体から嫌な汗が吹き出し肌には髪が鬱陶しく張り付き顔色もどこか悪い。恐怖で丸まった背中を労うようにベレトは無言でなまえの背中を撫でる。もう落ち着きましたから大丈夫です。なまえは立ち上がりこのくらいなんでもないと笑みを浮かべたが、心臓はまだ煩く鼓動していた。こんなことで怯えている自分が情けない。せっかくべレトさんと街に来ているのに全然楽しめてない。
せめて今からでも前半戦の挽回を…そういえば、先日の茶会でヒルダから教えて貰った食事処がこの近くにあるはず。なんでも魚料理が絶品なんだとか。歩き疲れたからそろそろ休憩しましょうとなまえは食事の話を口にしようとした。しかし承諾したべレトの手を引き店に向かって歩き出そうとした時、静寂な空間に響くパチンっと痛々しい肌を打つ音に腹ぺこ虫達は何事かと顔を見合わせた。
「揉め事か?」
「うーん…あっ、あの人かも」
音が聞こえた方向へ指を向ける。音が鳴った場所には背の高い赤髪の士官学生と後ろ姿からでも分かる可愛らしい女の子がいた。どう見ても修羅場であることは遠目からでもわかる。涙声で男子生徒の胸を叩く女の子をやれやれと赤い頬を擦りながら宥める男子生徒。そのやる気を感じられない宥め方にはあれが女の敵かと顔を顰めずには居られない。それは男であるベレトさんも同じだったようで、珍しく眉間にシワが寄っている。
なんだあれ。男子生徒の悪びれもしない反応に愛想をつかし女の子は顔を覆い走り去っていく。それを男子生徒は目で追うことなく、逆に遠くから寄せられる冷たい視線に気づき笑いながら近寄ってきた。
「おーいなまえちゃん!それに先生も。仲良く兄妹で買い物ですか?」
意図せず目撃してしまった残酷な恋の終わり。こっ酷く振られ(やり取り的には振っていたようにも見えるが)平手打ちもくらったというのにシルヴァンさんの目元は砂のように乾いている。まるでちっとも悲しんでないみたいだ。飄々とした様子で兄妹の間を割って入ってくるあたりこういう類の喧嘩は今日が初めてではないのだろう。随分とまぁ綺麗な腫れ具合。頬に手形がくっきり残っている。
「腫れてますよ。生憎塗り薬は持ち合わせていなくて、治りが早まるように回復魔法をかけておきましょうか」
紙袋を抱えていない手を赤く腫れた頬に翳しなまえはライブを唱える。分かってはいたがやはり回復魔法は晴れや打撲には効果が薄い。多少腫れが引いてような。やはりこういうのは傷薬が1番だ。こんなものだろうと腫れた頬に変化が見られなくなるとなまえは伸ばした手を引っこめようとした。しかし当然のように離れていく手をシルヴァンが掴み説明もなしに赤い頬へ添えだすものだからなまえは人を惑わす妖しい視線に頭の上に疑問符を幾つも飛ばす。
「なまえちゃんは優しいなぁ」
うっとりとした表情で荒れた掌に頬を擦り付けるシルヴァンになまえは困惑し言葉が出なかった。一応同じ学級に所属する者としてなまえはジーッとシルヴァンの行動の意図を探る。何か言葉にし難いことを行動で伝えようとしている?深読みを始める仲間思いななまえは横から漂う季節外れの冷気にまだ気がつかない。腕を組み冷ややかな視線を送るべレトの存在をシルヴァンは白を切るようになまえだけを見つめている。程なくしてなまえはべレトの雰囲気の変化にやっと気づき、手を振り払った。振りほどかれて少しは気分を損ねたかと思ったが、やはり相当の場数を踏んでいるのかシルヴァンは狼狽えるどころか攻めの構えでなまえに迫る。
「女の子に振られて傷心気味な俺を事情も聞かずに手当してくれるだなんて。きっと君は慈悲深い女神の生まれ変わりに違いない。嗚呼、麗しの女神よ。傷のお礼にどうか俺とお茶でも…」
「お誘いありがとうございます。ですが今日は兄妹水入らずの休日ですから。すみません」
軟派な人はちょっと。
丁寧すぎる言葉で誘いを断るとべレトさんの顔が少しだけ柔らかくなったような気がした。もしかして私がベレトさんよりもシルヴァンさんの誘いを優先するとでも思ったのだろうか。そんなこと絶対にありえない。だって家族と過ごす時間以上に優先する時間なんてないもの。
すみませんと返事を返すやいなやシルヴァンさんは大袈裟に「つれないなぁー!」と残念がっていたが、彼が本心で私をお茶に誘っていない事など笑っていない目を見れば一目瞭然だった。小さい頃からベレトさんの無表情の変化を見続けてきただからだろうか。幼馴染相手には慈愛に満ちた目を向けておきながら女性を口説いている彼はいつも影のある顔をチラつかせていた。まさかペラペラと女性を口説いておきながら以外にも女性が嫌いとか?交際関係が崩壊したというのにケロッとした様子で女性との関わりを求める天邪鬼のはるか先を行くシルヴァンとクラスメイトとしてどう接したらいいか益々分からなくなった。大修道院一の遊び屋だと憤慨する人もいれば、頭が回る人だとシルヴァンさんを褒める人もいる。一体どれが彼の素の顔なんだろう。それとも、まだ本当の素顔は誰にも見せてなかったり…
話も終わった事だし手を振って別れるつもりだった。しかしシルヴァンさんはまだ話し足りないようで、私が抱えていた袋の中身を覗くとふーんと感情のない声を上げ肩を竦めた。
「休日にもかかわらずお買い物とは仲のいい兄妹なことで。喧嘩とかした事ないんですか?」
「無いな」
「へぇ、即答ね、。まっ、先生が覚えてないだけで兄妹なら喧嘩ぐらい一度や二度した事あるでしょ。ね、なまえちゃん?」
喧嘩か。思い当たる出来事が1つあるにはあるけれど、多少ギクシャクはしていたがベレトさんが『無い』というのならあれは喧嘩じゃなかったのだろう。じゃあシルヴァンさんが言う『喧嘩』と言うやつをベレトさんと1度もしたことが無いな。べレトさんも私もささくれた感情を表に出すことが得意じゃないし、納得できないことがあった時はジェラルトさんに倣い相手と距離を取ることで争いを避けてきた。喧嘩といえど大切な人を罵るような事はしたくないのだ。
「なるほどねぇ…まるで先生を憎んだ事など1度もないって顔だな」
羨ましいねぇと綻びのないにっこり笑顔の裏側でつまらない奴らだと鼻で笑われたような気がした。喧嘩をしたことがないという事実を伝えただけなのになぜ彼は腹を立てているのか。その口ぶり、まるで喧嘩を望んでいるような言い方だ。
「何故兄を憎む必要があるのですか?」
大切な家族でしょう?
相手を尊ぶ気持ちを嘲笑する貴方の気持ちなどちっとも理解できないとなまえは首を傾げた。その瞬間生ぬるい風が丸い瞳に掛かる前髪を払った。真っ直ぐな眼差しで真っ直ぐに正論を説く少女をシルヴァンは薄暗い榛色の瞳の奥で羨望と嫉妬に満ちた炎で火刑に処した。声は喉まで迫り上がっていた。しかしシルヴァンはそれを唾液と共にゴクリと喉の奥へ押し込め泥だらけの感情を水で洗い流すようにゆったりと瞬きをした。そしてまた取り繕うように薄っぺらい感情を貼り付けるが、眩しいほど家族愛に満ちた少女を前にすると絞り出した声は何かを押し殺すように震えていた。
「持って生まれた兄と持たずに生まれた妹…か。いやぁ、本当に喉から手が出るほど羨ましい関係ですね…そんじゃ、兄妹水入らずに水をさすわけにもいかないし邪魔者は退散しますかね」
彼はヒラヒラと手を振ると遠くから聞こえてくる高い声に向かって去っていった。見ると彼の向かう先には女性が2人。まるで花を転々とする蝶のように軽い足取りで女性へと近づいたシルヴァンに「紋章か」と呟いたベレトの声をなまえは聞き逃さなかった。
「何か知っているのですか?」
教えてくださいと顔を上げたなまえにべレトは「詳しいことはよく分からない」と女性達の肩に手を回し去って行くシルヴァンをじっと見つめている。
多分ベレトさんもシルヴァンさんが作り笑顔が上手い人物であることにうっすら気づいているのだろう。シルヴァンさんの悩みに直結するかは分からないが、ベレトさんは少しだけ紋章の有無と貴族の責務の関係を語ってくれた。平民には平民の、貴族には貴族の苦しみ。紋章無しの平民に言わせてもらえば紋章の有無など関係なしに民を一番に思う優秀な領主が統治すれば誰であろうが構わないのだが。貴族的にはそれじゃ駄目なんだろう。私にはいまいち理解できない悩みだ。
「行こう」
「…はい」
持って生まれた兄と持たずに生まれた妹。
この言葉にシルヴァンさんがどんな意味を含めて発したかはわからない。聖書に紋章は女神からの贈り物だと書かれてあった。でもその女神様の贈り物によって家族を憎み、死ぬまで永遠と苦しめられる人がいるくらいなら、世界から紋章など消えてしまえばいいと女神を睨まずにはいられなかった。
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