訓練場の真ん中で一人豪快に四肢を投げ出したなまえは頭上に広がる塗料をぶちまけた濃淡のない空をぼんやりと眺めていた。近くには無惨に折れた木剣が彼女と同じように地面へ転がり傍には幾つもの破片が飛散している。今日は何もしたくないなぁ。だって木剣と共にぽっきり心折られてしまったもの。じりじりと照りつける太陽から逃げるようになまえはだらしなく回転しながら屋根の下へと移動し訓練服に着いた砂埃を払う。もしこれが制服ならだらしなく回転など絶対にしていない。
私に武芸の才がないことくらい自分でも分かっていた。けれどそれを他人にはっきりと指摘されるとこんなにも胸に刺さるなんて思ってもみなかった。ジェラルトさんの言葉は全部世辞だったのだろうか。弾けた剣だこを爪で弄りながら、なまえは今日一番の重く長いため息をついた。
力のかけ方が下手くそ。動きが遅い。振りが雑。攻撃を避けてばかりで反撃する気はないのか。隙が多すぎるぞ。
完膚なきまでに打ちのめされた上に転がった死体をさらに蹴り飛ばすような容赦ない言葉を受けなまえは涙を堪えることで精一杯だった。偉大な父と兄を持つ妹の力量をフェリクスは大層期待に胸を膨らませ手合わせを挑んだ。しかし初心者に毛を生やしたような容易な剣技にフェリクスは終始苛立ち、強者が弱者を甚振る流れで終わった手合わせに彼は舌を打って去っていった。『元傭兵の力はこの程度なのか?』としっかり捨て台詞まで吐いてだ。
仕方がないじゃないか。私の傭兵時代の仕事は回復と魔法攻撃等主に後方支援で剣はジェラルトさんとの稽古以外護身用として所持してきただけ。剣に秀でた人間に付け焼き刃にも等しい剣が勝るわけなどない。それに間違いなくフェリクスさんは強い。あの剣の速さだ。魔法ありの手合わせをしたところで勝率は良くて五分五分、才能も努力の差も見せつけられ劣等感に気を抜いた途端泣いてしまいそうだ。
剣を振るう彼の態度はジェラルトさん達と比べあまり礼儀正しいものでは無かったが、今思えば一度地面に尻もちを着いた後の打ち合いは十分手加減してくれたような気がする。言い換えればそれ程までに前半の手合せは酷かったということだが。期待外れ。言葉にせずとも態度がはっきりと物語っていた。剣を納め汗もかかず苛立ちながら訓練場から去っていったフェリクスをなまえは握っていた木剣を地面へ叩きつけ叫び散らし寝転んだ。期待外れ…はなから期待に応えられる実力や才能を持ち合わせていないし、何もかもが畑違い。負けて当然の試合だった。けれど完膚なきまでに叩きのめされるとは思いもしなかった。1本くらい取れると思っていたのだがだいぶ見立てが甘かったようだ。
そもそもは私に剣術は向いていないのかもしれない。自分なりに努力はしてたつもりだがこの有様だ。ジェラルトさんから剣の手解きを受け、腕が鈍らぬよう自主練も欠かさず、武器は毎日磨いている。ちゃんと努力はした。だがご覧のとおりちっとも攻撃は通らず、伝授された技も尽く受け止められ、これが手本だと完璧な戦技を見せつけられてはジェラルトさんの褒め言葉が全てお世辞としか思えなくなった。積み重ねてきた頑張りをたった一度の手合わせで心を折られてしまっては悔しいと涙を流すよりもこれが私の実力だと方向転換を考えるしかあるまい。
努力じゃどうにもならないことだってある。私の場合、それが剣術だったそれだけの事。人生あと何周したらあんな軽やかな足取りができるのだろう。俊敏な動きでありながらも緩急の差を上手く使い分けた剣捌きは圧倒されるほど美しく強烈で、一撃を受け止めた際に走った手の痺れは今もまだ掌に残っている。ああいう動きができたら地面に転がり空を眺めることはないんだろうなぁ。無駄のない動きってどうやるんだ?そもそも無駄な動きって何?
「…分からないなぁ」
どうすれば勝てるんだろう。ベレト先生もフェリクスさんも、今のところ連敗続き。いっそ剣は飾りとして携帯し魔導の道を極めた方がいいのかもしれない。木剣の扱いもあんな調子だし、剣と魔法の二刀流は不器用な私には似合わない。見事な剣だこができてしまった。これは湯浴みの時に染みそうだ。私もベレト先生と同じように手袋を嵌めようかなと白く浮いた皮膚をカリカリと爪で剥がしていた時だ。
「大丈夫か?」
うわぁ〜今日の太陽はえらく美しいなぁと寝惚けたことを言ってる場合ではない。なぜ、え、なんで!?腕を組み不思議そうな顔で見下ろす美しい人物になまえは猫のように飛び起き音もなく現れた人物をつい二度見した。金糸のような髪に鎧付きの制服、青獅子の級長を示す濃青色の外套。幻かと目を擦ったがさっきの手合せで打たれた箇所がとても痛い。間違いなくこれは現実だ。
かぁ〜っと顔を紅潮させ慌てて地面から起き上がる。なんで芝生じゃなくて砂まみれの石畳に寝転んでしまったんだろう。ハタハタと砂を払い乱れた髪を整える間クスクスと控えめな笑い声が耳に届き発狂寸前だった。絶対にだらしがない奴だと思われた。恥ずかしすぎる…
「一人で鍛錬か?」
「少し前にフェリクスさんと手合わせをしていて。今は休憩中だったと言いますか…で、殿下はこれから鍛錬ですか?」
「ああ。資格試験に向けてより一層鍛錬に励まねば、受かるものも受からないからな」
見た目通りの生真面目さ。その証拠に自前の槍は年季が漂うほど随分すり減っている。そういえば私の木剣、拾い忘れたままだった。負けた上に木剣も折ってその上放置しっぱなしとは才能云々の以前の問題に思えてくる。
「筆ばかり握っていると腕が鈍るからな」と殿下は肩をまわしながら一緒にどうだ?と鍛錬に誘う。はい、是非!と答えたいところだがほんの数十分前に心折れた私なんかが級長相手に手合わせなど恐れ多いというか相手にならないだろう。期待外れだとフェリクスさんに呆れられたのだから殿下はきっとそれ以上の言葉を掛けられるに決まっている。「私が殿下の相手を務めるには力不足だと思います」丁寧に頭を下げて断るとなまえは放置した木剣を拾いに動いた。しかし直ぐに「謙遜する必要は無い。学級対抗戦で見せたあの戦いぶりを見せてくれ」とディミトリはなまえが放置していた木剣を拾うと新しいものを持ってくると倉庫に向かってしまった。
どうしよう、これじゃあ断れないじゃないか。しかも殿下に剣を取りに行かせてしまった以上断る正当な理由が思いつかない。子供の頃から武芸に励んでいた人相手にたった数年前から剣を振り始めたなんちゃって傭兵が一体何が出来るというのだろう。新しい木剣を受け取りありがとうございますと深々と頭を下げる。やだなぁ。でもやるしかないのか。「どこからでもかかってこい」と槍を構え好戦的な目で挑発したディミトリになまえは嫌々ながらも剣を構えた。そして勇ましく剣を振るい、戦い、そして華麗に散った。木剣は虚しく地面に転がり、強い衝撃に重心が崩れ派手に尻もちをつく。まずい!と急いで剣を拾おうとするも、とんっと肩を叩いた矛先になまえは両手を上げた。
「負けました…」
その一言でつり上がった眼はふっと和らぎ、顎に溜まった汗を拭うなまえへ白銀の籠手が差し伸べられる。これで三連敗。手を借り体を起こしたなまえはありがとうございましたと礼を述べ剣を拾う。直ぐに剣が手から飛んでいく。ベレト先生の時もフェリクスさんの時も。やはり私に剣の才はない。3度の手合わせで学んだ現実に打ちひしがれる私へ殿下は前向きな言葉をくれる。「大雑把なところもあるがなかなかに機敏で良かったと思うぞ」とか。「やはり傭兵団仕込みの剣技は一味違うな」とか。傭兵団仕込みか…果たして私の剣にどれほどジェラルトさんから学んだことが活かされていただろう。私の剣技なんてベレト先生とは比べ物にならない遊戯みたいなもので実践で通用できるのかも怪しい。機敏な動きだったと殿下は褒めるがフェリクスさんと比べたらまだまだ遅いし、やっぱり私の剣は一撃も殿下に届かなかった。完全に剣の軌道を読まれ殿下の槍裁きを受け流すだけで精一杯。攻める隙もなかった。元傭兵なんて名ばかりの救護係。このままじゃ皆の足で纏いになる。座学も底辺。実技はそこそこだがこのままじゃあっという間に最下位だ。
…強くならなきゃ、守られるのが嫌だから強くなるって決めたのに。足でまといじゃまたあの時と同じ。何も変わってない。
「あの…どうやったら殿下やフェリクスさんのように強くなれますか」
「ん?いや、お前は十分に強いと思うぞ」
「世辞はやめてください。本気で悩んでいるのです」
珍しく笑顔を取り払い険しい表情で問うなまえにディミトリは槍の矛先を地面に向けた。そして訓練場の端の小さな段差に腰を下ろすとなまえにも座るよう促した。なまえは背を丸め自身の悩みを打ち明ける。自分には剣の才能がないこと、このままでは学級の足を引っ張るだけの存在になってしまうのでは無いかという不安を全て級長であるディミトリに話した。沈鬱な面持ちで溜息を吐くなまえの横顔をディミトリは頬杖をつき眺めながらそういえば、と大きな独り言を呟く。
「俺もフェリクスも物心着く前から武器を握り鍛錬に励んでいたか。だから今更どうやって強くなったのか尋ねられても上手く説明できないな。周囲で武器を振るう騎士の動きを見様見真似で学び、同じ武器を振るいながらよくフェリクスやグレンと打ち合ったものだ。そういえばなまえは数年前からジェラルト殿に剣の手ほどきを受け始めたと聞いた。凄い事だと俺は思うぞ。たった数年でここまで動けるなんて真に才能がない人間にはできないことだ」
数年と少しの鍛練で数十年も鍛錬と実戦を詰んだ俺達相手に最後まで立っていたんだ。そんな奴大陸中何処を探してもお前ぐらいだと殿下は大袈裟に褒めてくれる。でも私からすれば始めるのが遅い上にまだ周りと肩を並べる実力がない無能としか自分を評価できない。周りが凄い人に囲まれているからだろうか。いや、誰に囲まれても細かい欠点を見つけては優越感をを上回る劣等感に悩んでいるだろう。もはや性格の問題というか。
あ、後で傷薬を塗らないと。擦りむいた膝皿をじっと見つめるなまえにディミトリは顎に手を添えて少し思考し、それから俯いた少女へ提案した。
「もっと自分を褒めてはどうだ?」
自信が無いと何も上手くいかないぞ?と言葉をつけ加えたディミトリになまえは一瞬大きく目を見開き、それから直ぐにまた下を向いた。自分を褒める、それはつまり己の能力を妥協してみろと言われたに等しい。
ディミトリからしてみれば一度肩を抜いて狭まった視野を広げろと伝えたかったのだろう。しかし劣等感に思考も体も支配されたなまえは肩の力を抜くどころか益々体を強ばらせ「まだ褒めるほど何も成していません…なので、自分で自分を褒められるようもっと努力して、いつかフェリクスさんを倒してみせます」と力強くディミトリに宣言した。苦しげな顔で大きな野望を口にしたなまえにディミトリはどこか憂いを帯びた表情で「そうか」と歯切れの悪い言葉を返す。しかし少し前向きになったなまえの邪魔をしてはならないとディミトリは口を噤み「アイツは手強いからなぁ。まぁ、無理だけはするなよ」と頼りない背中を押してやった。
『自分で褒められるほど強くなってフェリクスさんを倒す』
以前殿下には大きなことを口走ってしまったが、汗水垂らして剣を振るっている時よりもこうして腰をまげ麻袋から数粒つまんだ種をまいている生活が案外性にあっているのかもしれない。久方ぶりの争いからかけ離れた穏やかな空気になまえは故郷を懐かしみ鼻歌を歌っていた。村人たちが奏でる軽快な音楽に合わせて手際良く種をまいて行く。隣で種を撒く村人からは「いい腕しているねぇ」と褒められ「アンタがいてくれりゃあ日が落ちる前に仕事が早く片付きそうだ」と錆びた腰を伸ばし手を叩く老人になまえは「そんなことないですよ」と老人から半分程種を受け取るとさらさらと自身の麻袋へと流し入れた。この袋が終わればとりあえずこの区画の種まきはおしまい。予定よりも随分早く終わりそうだ。
「でも士官学校の学生さんに泥臭い仕事を手伝わせるなんて、なんだか悪いねぇ〜」
「いいえ、そんな悪いだなんて。私たちは奉仕活動の一貫としてお邪魔させていただいてる立場ですから。私たちが手伝えることならどんどん仰ってください。遠慮する必要は無いですよ」
「そうかい?」
「ええ、是非私たちに任せてください」
どんっと自信満々に胸を叩いたなまえに村人達はどこか不思議そうな顔をしながらもじゃあこれが終わったらと次の仕事を指示した。
食べて学んで動いて眠って。そんな穏やかで平凡な毎日を繰り返していると日暦も1から30へと移り変わり、気付けば一節の終わりを迎えていた。士官学校の一節の終わりには全学級に課題出撃なるものが課せられており毎節ごとに内容は異なるものの基本的には奉仕活動に従事しなければならない。次第にその内容は重くなっていくらしいが主に近隣村に出かけ収穫や耕作を手伝ったり害獣を駆除したり、ちょっとしたお使いや盗賊退治などなど。私としては斬った斬られたの世界から遠い穏やかな内容にとても有難いと思っているのだが、血の気の多い生徒にとってはさぞかし退屈な作業であろう。その証拠にフェリクスさんの眉間は終始皺が寄っている。
例年通り青獅子と金鹿は大司教の指示した村を巡り肉体労働を行い泥や埃で訓練服を汚しながら見聞を広め回っている訳だが、どうやら黒鷲だけは例外に2学級とは違った課題を与えられているらしい。ザナドを荒らす盗賊討伐とかなんとか。前節の対抗戦で優勝した実力を大司教に買われ実戦に駆り出されたと周囲は噂していたが、対抗戦で優勝した程度で実戦に駆り出すなんて異例だと殿下は厳しい顔で呟いていた。大司教の考えがさっぱり理解出来ないと首をかしげ、実戦に駆り出される黒鷲の生徒を羨ましそうに眺める目が多い中、私はへぇーそんなこともあるんだ。ま、実戦なくて良かったと楽観的に心の中で安堵していた。大義を抱えげているとはいえ要は人殺しだ。可能なら人なんて殺したくない。誰だってそう思うはずだ。
私は青獅子でよかった。盗賊対峙の話よりも士官学校で行われる行事の方が何十倍も楽しそうだし。聖人の日だから歌を歌うとか、親睦の為にご飯を食べましょうとか、実を言うと土弄りは嫌いじゃない。元の世界でも花や野菜を植える授業は嫌いじゃなかったし、熱心な働きぶりを褒められ農家の人達から引っ張りだこ状態。もしかしてこれが私の才能?そんな事を本気で考えながら黙々と作業しながら時たまに凝り固まった背筋を解していた。
「ふぅ、いったぁ…」
腰に手をあててぐっと体を後ろに反らす。パキポキと骨が鳴ると心做しか身体が軽くなったような気がする。張った首筋を伸ばしながら周囲を見渡すと訓練服を着た若者が四苦八苦しながら農具を片手に田を耕している。普段自分の体の一部のように武器を振るう彼らでも農具相手では苦戦を強いられるのか。特に殿下に至っては何をどう扱ったらそうなるのかわからないが、ディミトリ王子が鍬を真っ二つに折ってしまった!!と数少ない農具を折られた農家が王子相手に怒るにも怒れず頭を抱えて項垂れていた。大切な農具が破壊されたとはいえ未来の王様に怒ることなんて出来ない。ご愁傷さまです。
「なまえちゃん、ちょっとこっちに来てくれないか?」
さて仕事に戻ろうかと背を曲げた時、人あたりの良さそうな男にちょいちょいと手招きされた。なんだろう。軽く返事をして男の元へ駆け寄ると、その人は他の生徒は誰一人として呼ばず、私だけを戸が外れ清潔とは遠い埃まみれの掘っ建て小屋に案内した。何か仕事を頼まれるのかと思っていたが、男は泥だらけの手を洗いもせず、1杯の水と香りのいい蒸し菓子を差し出した。
「皆にはさっき渡したんだけどなまえちゃん忙しそうだったから渡しそびれたんだよ」
貧しい村だからこれっぽっちのお礼しか出来ないんだと申し訳なさそうに眉を八の字に曲げた男になまえは気持ちだけで十分だからと受け取りを断った。嬉しいけど水も食料も持参している。気を使う必要はないとなまえは軽く会釈し作業に戻ろうとしたが、男はそれでも引き下がろうとはせず、理由をつけ強引に菓子と水を手渡すと逃げるように去ってしまった。
要らないって言ったのに。でも、善意は受け取っておくべきか。一人小屋に残されてしまい荷物を持って作業に戻るわけにもいかなったためなまえは仕方がないと肩を竦め座れそうな段差に腰掛けた。作業に夢中ですっかり食事を取り忘れていた。長時間労働で疲労がたまり、座った途端に凹んでいた腹が空腹だと煩く鳴き始める。貧しい村だとは聞いていたが、その割には休憩用の小屋だと紹介された建物は小屋にして奥には立派すぎるのは気のせいか。散乱した道具を整理し埃を払えば今すぐにでも一民家として利用できる、いや、もしかするとここは元民家なのかもしれない。それで住んでいた人がいなくなったから休憩用の小屋として使用しているとか。棚に収納された皿や掛け時計。気になって開けてみた収納棚の中には子供の玩具や衣服が詰め込まれ、手に取ると玩具の持ち主と見られる名前が記されていた。なるほど、私の読み通りこの小屋は元は民家だったのか。それでこの話は終わりで良かったのだが、玩具を手に取った瞬間不思議な違和感に首を傾げた。この小屋、どう見ても引っ越したあとの元民家には到底見えない。皿に、玩具、衣類まで。たとえ引っ越しの荷物になったとしても質屋等に売ったりしてお金を作るのが普通じゃないのだろうか。それに玩具から決定的な違和感が明らかになった。この村、妙に静かすぎる。周囲に音楽が溢れていたため意識が向かなかったが、振り返れば一度も子供や赤子の声がせず姿すら目にしていなかった。窓から外を眺めても大人ばかり、若い人も多くいる中私たちぐらいの歳の子は一人も畑に出ていない。こんな事ありえるのだろうか。傭兵時代ジェラルトさん達と多くの村や街に滞在したが子供の姿は必ず1人は確認できた。だがこの村は違う。子供の姿も見かけなければ甲高い声さえ聞こえない。畑仕事に従事していなくとも外を走り回る子が一人もいないのだ。この村は地図にも載らない村で人口は三桁にも上らないと事前指導の際ハンネマン先生から説明されていたが、それを考慮してもこの村はやはり可笑しい。村の入口をくぐった時心の片隅で芽生えたぼんやりとした違和感の理由が今はっきりとした。人口の割には多く乱立する民家、長く日に晒され黄ばんだ衣服。その黄ばみが砂塵であると言われ、砂であれほど変色するかと気になって凝視していると畑を弄っていた女が慌てて衣服を取り込んだ。まるでやましい秘密を抱えているような反応だった。一体何を隠しているのか、決定的証拠が掴めない限り感覚だけを理由に行動するのは軽率だ。気になることは多々あるが考えすぎだと言われたら反論できないし、課題出撃に際し大司教の認可を受けた村だから変に怪しむ必要は無いのだろうが…それにしても不可解な点が多すぎる。
差し入れに貰ったどこからどう見ても普通の水が毒なら黒、水なら白。ちょっとした一人賭け事を決めて、ほんの一口分乾いた喉へと流し込み、
「うっ…んぐっ、ごっほ、けほッ!何これ…」
雑草と酒を混ぜたような味覚を殺す苦味になまえは何度も何度も唾液を吐き口内から苦味を追い出した。一気に飲まなくてよかった。得体の知れない恐怖を証明する証拠を得た途端、足が竦むような悪寒を感じ汚れた口元を腕で拭った。粗末な杯に残る怪しげな『水』を振り手を仰いで匂いを嗅げば水と同じ無臭。これで水の衛生管理が杜撰だったという線は消えた。間違いなく悪意を持って一服盛られた。となると、この蒸し菓子も毒入りと考えて間違いないだろう。床に液体を流して捨てても床が乾くには時間がかかるか…なんのつもりか知らないがここは何事も無かったように偽装し相手の出方を伺う他ない。なまえは戸を警戒しながら本棚に近づき一冊の本を適当に引き抜いた。そして丁度真ん中の頁を開き怪しげな液体を吸わせるとまた元の位置に戻し隠蔽工作をひとつ終わらせる。残るは固形物だ。見つからずに隠せる場所はどこだろうかとなまえは腰に手を当てぐるりと部屋を歩き回り、これは使えそうだと戸棚からでてきた細長い花瓶を取り出すと何度も何度も菓子をちぎっては花瓶の中に突っこみ戸棚へ戻した。直ぐに見つかることは無いだろう、たぶん。舌を刺すような苦味を訓練服の裾で拭うとなまえは村人から勘繰られる前に何事も無かった顔して小屋を出た。水が欲しい、それと濃い味の食べ物。話しかけてくる村人を軽くあしらうと真っ直ぐに制服と荷物を預けた建物まで走った。途中殿下に話しかけられた気もしたがそれよりも水が飲みたくて仕方なかった。
日が暮れる頃に仕事が全て終わった。
本当にありがとうございましたとペコペコと頭を下げる村長にディミトリがこちらこそいい勉強になったと感謝の意を表す。達成感に満ちた顔が並ぶ中、なまえだけは達成感に満ちた顔を盾に黒幕を密かに探っていた。今ここで奇襲をかけられたら私たちは死の一択しかない。早くこの時間が穏便に過ぎて欲しい。背中に隠した手はブルブルと震え、浮かべた笑顔は引きつっていた。差し入れの一件で村人に囲まれている状況が恐ろしくなったなまえは皆にこの村の違和感を伝えすぐにでも村から逃げ出したい焦燥感に駆られていた。だが何処に移動しても村人の視線から逃れることができず、仲間の元に駆け寄り耳打ちしようにも村人は必ず傍にいる。まるで会話の内容まで監視されているようだと、もどかしく恐ろしい状況の中なまえはにっこりと笑いながら作業を続けた。そしてやっとこの時が来たと村人からの監視から解放されたのは更衣室に入ってからだった。
「この村、怪しいと思わない?」
最大収容人数7人程度の狭い部屋の中でなまえは今しかないと小声で話を切り出す。誰よりも早く制服に袖を通し逃げる気満々のなまえに対し、3人はなまえの話題提供になんの事?と小首を傾げる。彼女達はまだ制服の半分も着替えていない状態だ。
「怪しいとは、どこが怪しいのですか?」
何も怪しくないし、おかしな事はなかったと平然と述べたイングリットになまえはポカーンっと口を開ける。
「えっ、あの…3人は水とかお菓子は貰わなかったの?」
「貰ったよ!すっごく美味しかったよね。林檎と無花果がいっぱい入ってて、あたしもあれぐらい甘くて美味しいお菓子が作れたらなぁ」
「そうねぇ〜。アンったらあまりにもお菓子が美味しくて私の分だけじゃなくディミトリやフェリクスの分まで貰ってパクパクもぐもぐ…」
「メーチェ〜!!それは秘密にする約束でしょ!!?」
「はいはい。そうだったわねぇ〜」
なまえは食べなかったのですか?とイングリットに尋ねられなまえは曖昧に言葉を返す。既に食べてしまった人達に一服盛られているような味がしたから食べなかった、なんて言ったら取り乱してしまうかもしれない。確かに水には一服盛られていた。とすると確実に相手を仕留めるため菓子にも細工するのが常だと思うが彼女達は菓子を食べおまけにとても美味しかったと頬を押えた。にわかには信じ難い話だが、菓子には細工がされていなかったか、もしくは遅延性の毒を盛っていたかの2択に絞られる。3人の様子に特段の異常はないように見える。遅延性にしてはあまりにも時間が経ちすぎている気もする。
「じゃあ水を飲んだ時、何か変な味はしなかった?こう独特な苦味というか…吐き出す感じの」
「いえ、特には…なまえ、どうしたの?いつもの貴女らしくないわよ。もしかして具合でも悪いの?」
心配するどころか逆に心配されるってどういう事なんだろう。もしかして私の舌がおかしくてあの水は本当にただの水だったのだろうか。出された水に苦味を感じることなく全て飲みほしたと答えた3人に大丈夫かと尋ね、逆に大丈夫かと心配される始末。やっぱり私がおかしいのか。それとも、まさか私だけ薬を盛ったとか?殿下だけを狙った犯行なら合点はいくが元傭兵現実貧乏学生の私を狙っても得なんて1つもない。むしろ悪質な悪戯で話は終わりだ。
着替え終わったら村人が夕食を御馳走してくれるんだと声を弾ませながら上着の釦を留めるイングリットとは相反しなまえは深いため息をつく。ご飯なんていいから早く大修道院に帰りたい。でもそう思っているのは村人の不可解な行動に一人猜疑心を抱き粘着質な幻覚に襲われ勝手に暴走している私だけなのだろう。妄想に取りつかれ舌も馬鹿になっているのか、それとも一人だけ触れてはならない真実を暴いてしまったのか。炎天下で張り切って仕事をしすぎたせいか、少しだけ頭の奥が締め付けられるような痛みに目を瞑る。少しだけ吐き気もする…気持ち悪い。壁に体を預け込み上げる酸っぱいものを無理に喉へ落とす。
「…ちょっと気分が悪いかも」
「あらあら、それは大変ね〜。ほら、額を出して。熱があるか測ってみるわ」
制服に着替え終わったメルセデスの冷たい掌が前髪をかきあげ額に触れた。「うーん、熱はなさそうね〜」と間延びした声になまえはそっか…と浮かない顔で視線を足元に落とす。これで熱があれば3人が言う通り体調不良で全てを片付けようとしたが、やっぱり感じた違和感を解決しない限りは何一つ納得できない。
私だけが感じた水の苦味。考えられる線としては杯の飲み口に何かが付着していた、もしくは毒薬の盛る量を誤ったか。でも前者は有り得そうだが後者が真実だったとしたら随分とまあ阿呆みたいな失敗をしたと腹から笑ってやりたい。
「なまえ、元気だして!作り方は村の人に教えてもらったから大修道院に戻ったら作ってあげるよ!」
村の怪しさと頭の痛みに何度もため息を着く姿が菓子食べたさに思い悩む姿にでも見えたのか。大修道院に帰ったら作ってあげるから元気だしてと励ますアネットに私はそういうことじゃないんだよなぁと思いつつもありがとうと言葉を返したその時。壁の向こう側から聞こえてきた男の悲鳴に4人は動きを止め緊張した面持ちで扉の向こうを見遣った。互いの呼吸音だけが静かな空間を満たす。今の声は…どうか気のせいであってほしい。得体の知れない恐怖に皆が恐れ恐慄く中、イングリットだけは護身用に持ってきた槍を掴み険しい表情で扉を見つめている。
「今の悲鳴、ハンネマン先生の声では…」
冷静に断末魔のような悲鳴の主を分析したイングリットに3人はまさか!と可能性を否定した。しかしもしイングリットの言う通りあの悲鳴がハンネマンのものなら…直ぐに助けに行かなければならない。
急いで制服に着替えた女生徒達は各々武器を手に取ると不安げな顔を見合わせこくんと頷いた。どうか杞憂で終わりますように。不意に頭をよぎる嫌な予感になまえは硬直した頬を強く叩くと先頭を歩くイングリットに続き長い廊下を走った。
この時私たちはまだ知らなかった。この悲鳴をきっかけに私たちの長い夜が幕を開けたことを。
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