「殿下、頼み事があるのですが」
他言無用で本日の10時に1人で私の部屋に来てください。いいですか、1人でですよ?
傍に控えるドゥドゥーにも聞こえない声で呟いたなまえはじゃあまた後でと笑顔で手を振り温室当番へと向かった。突然手を振って近づき風のように去っていったなまえ。急ぎ足で去っていった彼女は何も知らないだろう。
「殿下…気分が優れませんか?」
「…えっ、あ、いや。なんでもない。気にしないでくれドゥドゥー」
特別な間柄ではないとはいえ年頃の娘の部屋に呼ばれた青年が悩ましげに顔を覆い隠していたことなど。
時刻は9時45分。ベレトから受け取った『コンスタンツェ発案“纏った人の顔を変える外套”』の手順書を読み込みながらなまえは自室の扉を叩く音を紅茶を飲みながら待っていた。机の上には4つ折りにされた投書が1枚。先生からはディミトリが書いた投書だからなまえに渡しとくと言われ謎の道具と共に受け取ったのだが、本当にこれで殿下の悩みが解決されるんだろうか。半信半疑で準備を整えていたなまえは扉を叩く控えめな音にはーいと返事をし扉を開けた。10分前行動ができるとは流石殿下だ。なまえはディミトリを部屋の中に招き入れるとどこか落ち着かない様子で柱のように入口に立つディミトリへ変装道具一式を手渡した。そして困惑するディミトリに有無を言わせず着替えるよう急かすと、着替えたら教えてくださいとなまえは部屋の隅へと移動した。
身分違いの士官学生が2人。街の噴水広場で足を伸ばし道中購入した串焼きを頬張っても人の視線を感じない事にディミトリは不思議な外套だなと顔を影で覆い尽くす頭巾を摘んだ。
「誰からも気づかれていないようだな」
「みたいですね」
優れものですねとなまえはディミトリが払う外套の裏地をまじまじと目を凝らした。製作期間はざっと見で1年と半節だろうか。緻密に描かれた魔方陣と紋章学で度々取り上げられるノアの紋章になまえは感嘆を漏らした。終わったら私にくれないかな。これ一着で戦略が広がりそう。
「それで、これから何処を案内してくれるんだ?」
「んー、そうですね…」
“立場上無理な話だと分かってはいるが、学生のうちに友人と城下街で遊んでみたいと願うことは馬鹿げた望みだろうか?”
“学生らしくていいと思う”
『ということでなまえ、頼んだぞ』と肩を叩かれ先生から殿下の投書を渡されたわけなのだが、私も殿下同様それほど街に詳しくないので私の拙い観光案内で殿下が楽しんでいただけるかどうか不安だ。一応ヒルダに街の有名所や学生人気のお店などを教えてもらったけれど、女子が喜ぶような店を殿下と回って果たして彼が喜んでくれるかどうか。
「よぉなまえじゃねぇか!最近元気してたか?」
「テオドアさん!?なぜここに?」
遠くから手を振ってのっしのっしとやってくる影になまえはゲッと顔を歪める。なんでこんなところに。
「知り合いか?」
「まぁ…殿下、じゃなくてディミトリ。あの人に何を言われても適当に相槌を打って誤魔化して」
「何故だ?」
「話せば分かります」
お久しぶりです!と苦手意識を笑顔で包み込み大きく手を振るなまえからはついさっきゲッと顔を歪めた人物とは思えない対応の変わりようだ。これにはディミトリも呆然とし瞬きを繰り返さざるを得ない。なまえがテオドアと呼ばれた男は見るからに陽気そうな雰囲気を纏い、ディミトリにはアロイスと似たような男に見えた。なまえがアロイスを苦手とするような素振りを見たことがないディミトリは何故彼女がゲッと心の声を漏らしたのか分からなった。しかしテオドアがなまえに向かって口を開いた途端にディミトリはなまえの言った言葉の今を理解した。
「学校生活はどうだ?充実してんのか?あんなに小さかったお前がこんなにでかく育ったなんてな!ところでそっちの坊ちゃんはもしかしてなまえのこれか?冴えない顔したヒョロい餓鬼だな。団長が絞める前に俺がちょいと手合わせしてやるかな。おうおう、男らしく素手で」
「テオドアさん。彼は私の級友です。喧嘩腰で向かってくるのはやめてください」
未来の王様を殴るなんて洒落にならない。息をつくまもなく浴びせられる言葉の隙間を狙ってなまえは拳を下ろすようやんわりと言葉で諌める。テオドアはなまえにとって兄貴分的な存在であった。しかし見ての通り人の話を聞く気がなく、すぐに拳を握るような気性の荒い性格がなまえは苦手だった。おまけに他人の恋愛話で腹を満たすような性分だ。彼を厄介と言わずになんと言おうか。
恋人はいない、級友も私も困るからあまり揶揄わないでくれとやや強めに咎めたなまえにテオドアは依然としてニヨニヨとからかいたくて仕方が無いと言わんばかりの笑みを浮かべていた。しかし早めに話を切り上げたがるなまえ様子を察したのか「まぁベレトの目の黒いうちはお前に恋人なんて早いか!んじゃ学生生活楽しめよー」ときっちり恐ろしい言葉を残してテオドアは去っていった。あぁ疲れた。一気に老けた気がする。
「すみません。あの人は色恋沙汰が好きな先輩傭兵で…後で私がきちんと釘を刺しておきます」
「あ、ああ。頼んだ」
こんなに矢継ぎ早に話しかけられたのは初めてだったと殿下は分かりやすく動揺し目の奥で渦を巻いていた。恋人の話になった途端殿下の顔をまじまじとテオドアさんが見つめた時はまずい見破られたかもしれないと内心ヒヤヒヤしていたが、至近距離で迫っても『冴えない』『ヒョロい』と評価していたことから魔法は正常に機能しているらしい。それは殿下も私と同じようなことを考えていたようで、少し傷ついた顔を見せていたものの自身を王子様扱いされなかったことに僅かに上がった口元を抑えている。でも良かった。今のやり取りをドゥドゥーやフェリクスに見られなくて。監督責任を問われるのだけは勘弁してほしい。
なまえは疲れた頬を叩いて仕切り直すとディミトリから食べ終えた串を受け取り炎魔法で燃やした。そして「気を取り直して行きましょうか」とディミトリの背中を押すとヒルダから進められた店を目指して人が集まる場所へと飛び込んだ。
「そういえばなまえは今俺がどんな男に見えるんだ?」
「えーっと…ディミトリが落ち込むと思うからあえて伏せとこうかな」
容姿も中身も文句なしの王子様に鼻たれもやし男に見えますとは口が裂けても言えない。声だけはいつもの殿下の声だが振り返った先には見知らぬ顔から殿下の声がして、頭の中は常に軽く混乱している。けれども通常運転の怪力ぶりを見るとあぁこの人は間違いなく殿下だなとなまえはにっこりと慌てた顔を笑いながら少し浮いた頭巾を下ろす。
「なまえは何を買うんだ?」
「砂糖菓子。今度ヒルダとマリアンヌでお茶会の約束をしていて、そのお茶請けにね。2人とも焼き菓子系が好きだからクッキーとかを何個か選ぼうかと思って。ディミトリの持っているそれは自分用?」
「いや、これはアッシュに渡す分だ。実は温室当番の際にうっかり鉢を割ってしまってだな…破片の掃除に花の植え替えと迷惑をかけてしまったその詫びだ」
「詫び…」
本2冊分の値段に匹敵する菓子を詫びの品として手に取るあたりやはり金持ちの金銭感覚は狂っている。アッシュが狼狽える姿が容易に目に浮かぶ。紙袋を抱えて次は何処に行くのかと尋ねたディミトリになまえは視界の端で垂れる一望を撫でた。次は…あ、あれ買わなくちゃ。
「どれに致しますか?」
「うーん。そうだなぁ」
武器屋の一角。少し伸びた髪をいじりながらなまえは店員が持ってきた商品を前に真剣な面持ちで値札と格闘していた。どれも華やかでそこそこに値段が高く壊したら最後悲鳴をあげて泣き崩れるであろう品々ばかり。幾ら腕のいい買い物上手でもこの商売上手そうな女性店員を相手に手が届く値段まで値切ることは容易ではないだろう。実際に軽く交渉したがちっとも手応えなかったし。ヒルダからは可愛い髪留めがあるから是非行ってみてと言われ楽しみにしてきたが、この値段はだいぶ心臓に悪い。あと二回り安くしてくれたら財布の口を開くのだが…これはほかの店を当たった方が良さそうか。
「悩んでいるのか?」
「っ…!!なんだディミトリか。急に現れたから吃驚したよ」
「悪かった。驚かせる気はなかったんだ」
殿下が武具の装飾を見ている隙に手頃な髪留めを買って次のお店に行こうと思ったのだが、手頃な髪留めはなかったし殿下とも合流してしまったことだ。手に職つけた頃に改めて買いに来よう。
「買わなくていいのか?」
「今は私に必要ないかなと思って。それに今日はあまりお金もってきてないからまた今度来た時にでも」
そういえば私古書が見たかったんだよなーとなまえは話をはぐらかしてディミトリの背中を店外へと押した。最近黒魔法の調子が良くて新しい本を一冊欲しいと思っていたと言いつつも、まるで見られたくないものを親から遠ざける子供のような行動を取ったなまえにディミトリはなるほどなと行動の意図を察し踵を返した。
「ほう、どれも良い品だな」
「え、ちょっと!?」
店員と言葉を交わしながら髪留めを眺めている殿下は無邪気に買い物を楽しんでいるように見える。とても微笑ましい光景なのに、何故だろう。なんか嫌な予感がする。
「あの…ディミトリ?」
「なまえもあれから少し髪が伸びたからな。気に入ったものはどれなんだ?俺の我儘を叶えてくれた礼に1つ贈らせてくれ」
「け、結構です!」
「遠慮するな。お前が選ばないなら俺が勝手に選ぶぞ?」
どうしよう。それは困る。大いに困る。一刻の王子に支払わせるなどファーガス出身者に知られたら私間違いなく処断される。
自分のものは自分で買うとなまえは慌てた様子でディミトリの財布の口を閉じるよう懇願した。しかしこの王子頭が頗る固く一度決めたことを貫く性格である。なまえの言葉など聞きもせず、婦女子が好む髪留めはどれかと店員と楽しげに話し着々と購入商品を絞っている。
王子様は庶民感覚が分からない。髪留めなんて消耗品だし命を守るものでもないものに丸3桁の値札を前にしても怯むことなく財布の口を開けようとする行動が私には考えられない。
今すぐ私が髪の毛を切れば買わずに終わる話なら喜んで丸坊主になろう。だがこの様子だと丸坊主になったところでささやかな気持ちだとか何とか理由をつけて買うだろうからもう舌を噛んで流れに身を任せる他ない。
「お客様、こちらのお品はどうでしょうか?お連れ様の髪色に良くお似合いかと」
商売精神旺盛な店員が差し出してきた髪留めになまえは引きつった声を上げる。対してディミトリはというと顎に手を添えまるで目利き商人のように勧められた髪留めをじっくりと見つめている。
「青か。いいな。髪色にも瞳の色にもよく似合うと思う。お前はどうだ?」
「えーっと…凄く綺麗な髪留めだと思います」
蔦を模した銀の彫刻に青い宝飾の花を散りばめた使い勝手の良さそうな髪留めは1度目にしたら頭に焼き付いて離れない美しさと気品の芸術品だった。店員に差し出された鏡を前にディミトリが垂れた黒髪を耳にかけ指で摘んだ髪飾りを当てる。可愛い。一目惚れとはまさにこの事を言うのだろう。欲しいけれど髪留めについた値札になまえは強く頬を叩く。丸が3桁…それに加えて上の数字は4。魔力が込められていると言えどベレト先生の薄給よりも高い贅沢品に生唾が上がる。防具を購入するにしても高すぎる買い物だ。自分のお金で買うならまだしも人のお金、この場合は国費で落ちるんだろうか?とにかく殿下にこれを買わせるわけにはいかない。
「あの、私にはだいぶ華美すぎるので遠慮したいと思いま「そんなことは無い。よく似合っている。これをひとつ貰おう。それと武具用の研磨剤を1つ頼む」
「でんっ!!!!?」
正気ですか!?贈る相手誰だかわかっていますか!?信じられないとばかりに目を見開いたなまえは思わず出かける前に約束した決まり事を破りかけた。口にしかけた『殿下』の言葉をなまえは咄嗟に口を塞ぎ大きな咳払いで誤魔化した。危なかった。ここで殿下呼びしたら一般的な友人との街遊びが台無しになるところだった。
でん、と口にしたなまえにディミトリは聞き捨てならないなと片眉を上げた。
「でん?どうしたなまえ。一般市民兼お前の友人ディミトリに何か用か?」
圧を感じる。見えない圧を感じる。意地悪な笑顔を浮かべ腕を組んだディミトリになまえは「…い、いえ。ありがとうございます。ディミト リ…家宝にさせていただきます」と深々と頭を下げ、店を出てすぐ、言われるがまま髪留めをつけたなまえはディミトリからの褒め言葉などちっとも耳に届かず、髪に留まる銀の重みにただただ打ち震えていた。
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